第七話:朝の奇跡と、予選の開幕
「……やっちまったなぁ」
自室の天井を見上げながら、重い溜息を吐き出す。
よりによって今日はアイスライト杯の校内予選当日だというのに、完全な寝不足である。頭が重く、視界の端が少しぼやけていた。
瞼を擦りながら、俺はクレアと毎日待ち合わせをしている場所へと足を運ぶ。
フォントネル家の広大な敷地内に二人とも住んでいるのだから、どちらかが家に迎えに行けば済む話なのだが、クレアは「それだけは絶対ダメ」と頑なに拒否する。そのため、敷地を出て五十メートルほど先にある、大きなオークの木の下が二人の決まりの集合場所となっていた。
待ち合わせ場所に来てくれなかったら……どうしよう。
昨日の今日だ。まだ怒っていて、一人で先に行ってしまっているかもしれない。不安で押し潰されそうになりながら角を曲がると——朝日を浴びて佇む、金髪の美しい少女の姿が視界に飛び込んできた。
「クレア……!」
胸の奥から湧き上がる歓喜を押さえきれず、俺は自然と駆け足になっていた。
「おはよう、クレア!」
息を切らせて駆け寄ると、腕を組んで待っていたクレアがジロリと俺を睨みつけてきた。
「おはようじゃないわよ。私を待たせるなんて、いい度胸しているじゃない。待ち合わせの五分前には着いておくのが基本でしょう?」
凛とした声。でも、どこか照れくさそうに視線を泳がせる仕草。……あぁ、いつものクレアだ。来てくれたんだ。
「ごめん、クレア。次からはもっと早く来るよ」
「あら? 今日はやけに素直じゃない……って、ちょっとその目の下のクマどうしたのよ。あんた、まさか全然寝てないんじゃないでしょうね?」
眉をひそめて俺の顔を覗き込んでくるクレア。顔が近い。
「なんか、緊張して眠れなくてさ……」
「どうせ今日の予選にビビって寝不足になったんでしょ、情けない。……でも、分かっているでしょうね? 今日、決勝まで上がってこなかったら、一生私と話すことはできないんだから。早く来るって言ったって、今日負けたら明日からは来なくていいんだからね!」
手厳しい言葉。だが、それは裏を返せば「決勝で私と戦いなさい」という彼女なりの激励なのだ。
そうだ。今日来てくれたからといって安心はできない。ここで負けてしまったら、明日からの二人の時間は消えてしまうのだ。何が何でも決勝まで勝ち残らなければ。
「が、がんばるよ……!」
「……ふん。でも、きっと大丈夫よ」
クレアはふいっと横を向くと、ボソッと呟いた。
「いつもあんたと訓練してる私が保証してあげるわ。レインは強いの。もっと自分に自信を持ちなさい。……まあ、私には逆立ちしても勝てないでしょうけどね」
「え……?」
今、クレアが褒めてくれた……?
あのプライドが高くて素直になれないクレアが、俺の強さを認めて、背中を押してくれたのか?
それだけで、胸の奥から力が湧いてくるのが分かった。単純かもしれないけれど、世界で一番格好いい幼馴染に信じてもらえたことが、何よりも嬉しかった。
「ありがとう、クレア。絶対勝ち上がる。決勝で戦おう」
「ふふ、楽しみにしてるわ」
不敵に微笑むクレアの横顔が、朝日の中でどこか優しく見えた。
「……じゃあ、とりあえず私を待たせた罰として、今日のお昼はレインの奢りね」
「……えっ? ちょっと待ってよ、クレア。俺、あんまりお金ないんだけど!? クレアはお金持ちだから困ってないだろ!?」
ちなみに俺の月のお小遣いは10000ピアである。
学校の食堂は貴族からの寄付金のおかげで格安だが、それでも一食300ピアほどはかかる。慎ましく生きている俺にとって、突発的な奢りは大打撃なのだ。
「私だって今月はピンチなの! 昨日、むかつくことがあって買い物をしまくったんだから! ……あーあ、買い物で発散したから忘れてたけど、一体何にむかついたんだっけなぁ? 何か思い出せそうだなぁ。なんだっけなぁー?」
わざとらしく人差し指を顎に当て、チラチラとこちらを見て脅してくるクレア。原因はもちろんあれだ。
「わかりました! わかりましたから! 喜んで奢らせていただきます!」
「そう、なら決まりね。あ、私、ステーキが食べたいわ。今日は体力を消耗するでしょうし」
す、ステーキ……学食で一番高い、最高級メニュー……!
俺だってまだ食べたことがない一品だ。明日から俺の昼食は水道水とパンの耳になるかもしれない。……前言撤回。やっぱりいつもの容赦ないクレアだった。
「かしこまりました、クレア様……」
重い足取りで並んで学校へ歩いていると、ふと思い出したようにクレアが話しかけてきた。
「そういえば、ボルタおじさんはもう大丈夫なの?」
「え? ……父さんのこと?」
「他に誰がいるのよ、バカね。昨日『体調が悪いから』ってお仕事をお休みしたんでしょう? うちのお父様も心配なさっていたわよ。『ここ十年以上、一日も病欠なんてしたことがないのに』って」
「……え?」
ピタリと足が止まる。
父さんは昨日、「仕事がなくて、ザワード様が休みを下さった」と言っていたはずだ。でも、クレアの父親であるザワードさんは体調不良で休んだと聞いて心配していた……?
どういうことだ……? 父さんはザワードさんに嘘をついて休みを取ったのか……?
「……あぁ、体調はもう大丈夫そうだったよ。普通に元気そうだったし」
「そう、よかったわ! 休んだから良くなったのね」
無邪気に胸を撫で下ろすクレア。
だが、俺の胸の中には昨夜の父さんの意味深な仕草と、噛み合わない言葉への小さな違和感が、膿のように溜まっていくのだった。
もやもやとした思考に囚われて歩いていると——
ガクッ!
「うわっ!?」
不意に足に何かが引っかかり、派手に前のめりに倒れそうになった。
慌てて体勢を立て直してクレアを見ると、彼女はすまし顔で左足を少し上げた姿勢をとっていた。
あ……コイツ、足を引っ掛けやがったな!?
「な、なにすんだよクレア!」
「『なにすんだよ』じゃないわよ。ボーッと下ばっかり見て歩いているから、こんな簡単なイタズラに引っかかるのよ。……ほら、もう学校に着いたわよ。一回戦はすぐに始まるわ。集中しなさい」
そう言ってクレアは、小さくフンと鼻を鳴らした。
あえて意地悪をして、俺の考え事を吹き飛ばしてくれたのだろうか。
……そっか。気になるなら、今日帰ってから父さんに直接聞けばいい。
今は、目の前の戦いに集中する時だ。
「そうだね。ありがとう、クレア」
「……ふん、分かればいいのよ、分かれば」
二人で闘技場に足を踏み入れると、すでに大勢の出場生徒たちが熱気の中でウォーミングアップを始めていた。
「あら、やっと来たわね、レイン君、クレアさん。さすが今年の一位と二位は余裕の登校ね」
腕を組んで待っていたのは、担任のリタ先生だった。
「すみません、リタ先生、相変わらずレインって足が遅くて。おまけに学校の直前で派手に転んだりして……本当、何やってんだか」
「おいおい、転ばせたのはお前だろ……!」と口から出かかったが、クレアの「黙りなさい」と言わんばかりの鋭い視線に押され、断念した。
「い、いやぁ、すみません。でもやる気は十分ですので!」
「何言ってるのよ。ここにやる気のない人なんて、あなた以外にいるわけないじゃない」
「だから、俺にもあるって……!」
「ははは、分かった分かった。二人とも、健闘を期待しているわよ。うちのクラスから優勝と準優勝が出れば最高だわ。私の教員としての評価も爆上がりだしね。……あ、一回戦は三十分後だから。時間になったら呼びに来るから控え室で待機していなさい」
教員の評価……先生も現金だな。
だが、三十分後ということは本当にすぐだ。俺は頭を切り替え、身体をほぐすためにストレッチを始めた。
クレアと共に選手控え室に入ると、そこにはすでに一回戦の相手であるトールが静かに椅子に座り、集中を高めていた。静かに邪魔しないよう過ごそうとしたのだが、隣の空気を読まないお嬢様が大きな声を上げた。
「トール、おはよう! レインが相手で今日は大変だと思うけれど、頑張りなさいね!」
「は、はは……おはようクレアさん。クレアさんは全然緊張しないんだね」
トールが苦笑いを浮かべながら顔を上げる。
普段は誰に対しても柔らかい笑顔を絶やさないトールだが、今日は少し顔色が硬く、余裕がないように見えた。
「緊張? 少しはするわよ。でも、それ以上に楽しみの方が大きいの」
「うらやましいな……。でも、俺も今日は全力で挑むから。……レインを倒しちゃったらゴメンね?」
「構わないわよ。負けたら弱いレインが悪いんだから。ボコボコにしてやりなさい」
「逆に僕がボコボコにされないか不安だよ。……でもレイン、全力で戦おうね。手を抜いたりしたら許さないから」
トールの瞳に、揺るぎない真剣な光が宿っていた。
彼もまた、この大会に並々ならぬ想いで臨んでいるのだ。手加減など、失礼にあたる。
「わかった。俺も全力を尽くすよ」
ふたりの固い握手を見て、クレアは満足そうに「うんうん」と頷いている。
……このお嬢様、俺のことばかり煽っているけれど、自分の試合の準備は大丈夫なのだろうか。
俺は軽くストレッチを行い、呼吸を整えながらその時を待った。
三十分後、きっかりにドアが開き、リタ先生が顔を出した。
「さあ、レイン君、トール君。出番よ。闘技場へ入りなさい」
いよいよ、俺たちのアイスライト杯が始まる。
「じゃあ頑張りなさい。私は観客席から見ているわ」
「おう。行ってくる!」
クレアの視線を背中に受けながら、俺とトールは歓声が響き渡る闘技場へと足を踏み出した。
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