第六話:家族の食卓と、静かな予感
「……ただいまー」
重い足取りで玄関のドアを開ける。結局、俺は一人で家まで帰ってきた。いつもならクレアの軽快な足音と小言を隣で聞きながら歩く道だ。たった一人で歩くいつもの帰り道は無駄に長く、そして恐ろしいほど寂しく感じられた。
明日、ちゃんと一緒に登校してくれるかな……待ち合わせ場所で来なかったらどうしよう……
そんな不安で胸が押し潰されそうになりながら靴を脱いで上がると——
「おう、おかえり」
「うわっ……!?」
思いがけず部屋から声が返ってきて、俺は素で驚いてしまった。
居間を覗くと、普段は仕事でほとんど家にいないはずの父親——ボルタがそこにいた。無心で一本の剣を磨いている。
「父さん……? 今日、仕事休みだったの?」
「あぁ。今日は特に急ぎの用もなくてな。ザワード様が『たまには息子と顔を合わせてやれ』と特別に休みを下さったんだ。……久しぶりに二人で飯でも食べるか?」
「うん、いいね! ……でも急にどうしたの? 珍しく剣の手入れなんてして」
父さんが手元で愛おしそうに布を滑らせているのは、いつもは物置の奥に無造作に放り込まれている、年季の入った一振りの長剣だった。
昔は王都の騎士団に所属していたらしいのだが、何か大きな失敗をして退団処分になったのだという。路頭に迷いかけたところを、かつての同僚であり友人でもあったザワードさんに拾われ、現在はフォントネル家で働いている。
「いや、急に時間ができたからな。たまには昔の相棒の汚れを落としてやろうと思っただけさ」
父さんは懐かしむように刀身を見つめながら、穏やかに笑った。
「ふーん。じゃあ俺、今から夕飯作るよ。少し時間がかかるから、手入れを続けてていいよ」
「おう、すまんな。家事のできる息子がいて助かるよ」
そう言うと、父さんは再び静かに布を動かし始めた。
父親のボルタは、髪をきっちり七三に分け、度の薄いメガネをかけた細身の体格だ。身長は俺より少し高いくらい。顔立ちからは優しさが滲み出ており、実際、俺は生まれてこの方、父さんに本気で怒られた記憶が一度もない。
普段はザワード様の側近兼雑用係として忙しく飛び回っているため、家を空けることが多い。
母さんは俺がまだ幼い頃に病気で亡くなってしまったらしく、実質的には俺の一人暮らしのような状態だった。
おかげで掃除、洗濯、料理といった家事全般は俺のお手の物だ。特に料理に関しては、かなりの自信がある。
三十分後。
芳醇なスパイスの香りが漂うテーブルで、俺と父さんは向かい合って腰掛けた。
「……うん、やっぱりお前の料理は美味いな。ザワード様の屋敷でいただく賄いよりも断然美味いぞ。特に、この後から追いかけてくるピリッとした辛味のアクセントが絶妙だ。ご飯がいくらでも進む。……将来は料理人になっても食っていけるんじゃないか?」
「ふふふ……伊達に毎日作ってないからね」
そう言って俺は胸を張った。
今日のメニューは、ゴロッとした肉と野菜をじっくり煮込み、何種類ものスパイスを独自の配合でブレンドしたオリジナルの煮込みご飯——俺自慢の『五大必殺料理』の一つだ。
いつかクレアに振る舞って、「す、少しはやるじゃない……!」と悔しそうに褒めさせるために、試行錯誤を重ねて生み出した至高のレシピである。
「気に入ってもらえてよかったよ。……まあ、料理人か。学院を卒業して特にやりたいことが見つからなかったら、それもいいかもね」
「そういえば、最近学校に通い始めたんだよな。ザワード様が急に『レイン君を推薦する』とおっしゃった時は本当に驚いたぞ。まあ、お前は昔からザワード様にも、クレア様にも気に入られていたからな」
「ザワードさんはすごく良くしてくれるけどさ……クレアはどうかなぁ。毎日『バカ』って言われて、容赦なく拳やビンタが飛んでくるんだよ? ホント大変なんだから」
「ふふ、それはそれは……楽しそうじゃないか」
口元をナプキンで拭きながら、父さんはどこか目を細めて笑った。
「どこがだよ……! 今日だって、一緒に予選に選ばれた女の子と一言二言話しただけでブチギレて、一人で帰っちゃったんだぞ? 俺はクレア一筋だっていうのに……」
愚痴をこぼしながら溜息をつく俺に、父さんの表情がふっと柔らかく、どこか切ない真剣さを帯びた。
「ははは、そういう気持ちはな、ちゃんと言葉にして伝えないと分からんものさ。……それに言える時に言っておかないと、後から一生後悔することだってあるんだからな……」
どこか遠くを見るような、父さんの瞳。きっと、亡くなった母さんのことを思い出しているのだろう。
「……でも、簡単に言えたら苦労しないよ」
「ま、それもそうだな。……おっ、食べ終わったか。食器の片付けは俺がやろう」
「ほんとに? ありがとう、父さん」
父さんは手際よくテーブルの上の皿を重ねると、流し台へと運んで水道の蛇口を捻った。威勢よく水が流れる音が部屋に響く。
「そういえばレイン、さっきアイスライト杯の予選選手に選ばれたって言っていたな」
「そうだよー。……まあ、まぐれだけどね、まぐれ」
「いやいや、あの学院の選考はまぐれで通るほど甘くはないぞ。指導している教師陣も超一流ばかりだからな。……ところで、お前は何位だったんだ? 十五位か十六位くらいか?」
カチャカチャと皿を洗いながら、背中越しに尋ねてくる。……父さん、意外と学院の内部事情に詳しいんだな。
「それがさ……一位だったんだよ。ほんと、参るよ。おかげでエーベルってやつとか、強い奴らに目をつけられちゃって——」
俺が一位と言った瞬間。
水道の激しい水音の合間で、食器を洗う父さんの手がピタリと止まった気がした。
「……こ……まで……か……き……だな。や……急がないとな……」
「え? 父さん、何か言った?」
水音でかき消されてよく聞こえなかったため、俺は大声で問いかけた。
父さんは何事もなかったかのように再び勢いよく皿を洗い進め、振り返らずに答えた。
「いや、なんでもないさ」
……? なんだったんだろ……
やがて手際よく食器を洗い終えた父さんは、タオルで手を拭きながらこちらへ歩み寄ってきた。その表情はいつもの優しい父親の顔だった。
「明日は朝からアイスライト杯の予選だったな。応援しているよ、レイン。全力を尽くしてきなさい」
「うん。……たぶん、明日は帰りが夜遅くになると思う」
「そうか……。実を言うと、俺も明日は少し仕事が忙しくてな。今夜はお互い、ゆっくり体を休めるとしよう。……では、おやすみ、レイン」
「うん。おやすみ、父さん」
自室へ戻り、ベッドに横たわる。
明日から始まるアイスライト杯予選の凄惨な戦いへのプレッシャー——よりも何よりも。
「明日、クレアはちゃんと待ち合わせ場所に来てくれるだろうか」という不安ばかりが胸を占めていた。
もしクレアが来なかったら……本当にこのまま口を聞いてくれなくなったら……。
ぐるぐると巡る思考のせいで、俺は夜遅くまで熟睡することができないまま、朝を迎えるのだった。
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