第四十二話:闇の視線と、お尻を巡る戦い
森の最深部——生い茂る樹木の影から、三人の様子を静かに伺う二つの視線があった。全身を黒いローブで覆った男たちが、息を潜めて彼らのやり取りを凝視している。
「……あのマンティコアをほぼ無傷で討伐するか。もう少し追い詰められると踏んでいたのだがな……」
「ん~? 久しぶりに見たけど、エミリーちゃんは苦戦してたよ?」
軽薄な口調で答えた男に、もう一人の男が深く低い声で返した。
「……あんななまくらでは仕方がなかろう。それに扱っていたのは剣だ」
「そっかぁ。エミリーちゃん、昔から剣を使うのは苦手だったもんねぇ。それよりいいの? 彼、目覚めそうだよ?」
「そうでないと困る。まさか不安なのか?」
「いいや。 ボクは楽しみで仕方がないけどね」
「ふん……」
言葉を交わし終えると、黒ローブの男たちは薄気味悪い嘲笑を浮かべた。次の瞬間、彼らの全身が激しい漆黒の炎に包まれ——まるで最初から存在しなかったかのように、燃え尽きて姿を消した。
* * *
ベラシーの森での過酷な初クエストを無事に終え、俺たちはガタゴトと揺れる乗り合い馬車に揺られて帰路に就いていた。
向かいの席では、クレアとエミリーが何やら快適そうに背もたれへ身を委ねている。二人の座面には、森を出た後に立ち寄った小さな道具屋で購入した、ふわふわの綿が詰まったクッションが敷かれていた。
対して俺の座席には……俺の愛用しているマントを四角く几帳面に折りたたんだものが敷かれているだけだ。……まあ、木調むき出しの硬い板座席に直で座るよりは大分マシではあるのだが。
なぜ俺だけクッションがないのか——。話はベラシーの森を離れ、街道に出てすぐの出来事に遡る。
「そういえばレイン。今回の変態行為で【三つ目】になったから」
森の出口で、クレアが腕を組んで冷ややかに言い放ったのだ。三つ目? 何がだ? 確か数日前に「二つ目」とか言っていた気がするが……。
「変態行為って……? レイン、また何かやらかしたの?」
エミリーの問いかけに、クレアは白桃のように頬を赤らめながら告発した。
「聞いてよエミリー! レインったら、エミリーが必死に命がけで戦っている真っ最中に、風魔法で私のスカートを捲ろうとしたのよ……っ!」
照れくさいなら言わなきゃいいのに!
「あぁ……通りで。あの死闘の真っ最中に、一人でニヤニヤしてたわけね」
エミリーまで妙に納得した顔で頷かないでほしい!
「だから、わざとじゃないって言ってるだろ! 巻き込まれただけの突風だ!」
「仮に不可抗力だったとしても! 私の……私の、し、下着を見たのは紛れもない事実なんだからっ!! 三つ目のカウントに変わりはないのよ!!」
どんどん顔を真っ赤に加熱させていくクレア。だから言わなきゃいいのに……。
「そもそも【三つ目】って何なんだよ」
「私を怒らせた回数よ! これでも私、我慢できる大人の女性になったんだから! でも我慢は三度まで!」
なるほど……我慢の限界カウントか。以前の速攻で手が飛んできたり罰を与えられたりしていた頃に比べれば、確かに精神的な成長(?)かもしれない。
だが……限界を迎えた今回は過去三回分の罰が下るということか……? 脳裏をよぎる恐ろしい処刑風景に、俺は思わず背筋を凍らせて身震いした。
「そ、それで今回三つ目になったわけだけど……一体どうするつもりなんだ?」
「……まだ何も考えてないわよ。そのうちとびきりの罰を思いつくから、首を洗って楽しみに待ってなさい!」
自分への罰を心待ちにする奴がどこにいるんだ。言っておくが、俺は決してドMなどではない。
そんな険悪な俺たちのやり取りを、隣でにこやかに聞いていたエミリーが手をぽんと叩いた。
「あら、出発する前にそこの道具屋さんに寄りましょうよ。お腹も空いたし、何か買っていきましょう?」
街道沿いにひっそりと佇むその店は、小さく古びた建物だったが、店内は驚くほど清潔に整頓されていた。ポーションや毒消し草、水や食料、果ては武器までずらりと陳列されている。
「へぇ、意外と品揃えがいいんだな……」
「あっ……!?」
クレアが急に素っ頓狂な大声をあげた。
「どうしたんだよ急に」
「エミリー、これ買いましょうっ!!」
クレアが大事そうに掲げていたのは、一人用の柔らかそうな花柄のクッションだった。陳列棚には手書きの広告が添えられている。
【馬車での長距離移動でお尻の痛みに悩むそこの貴方! このふわもこクッション一つで全て解決! 旅のお供にぜひ一品!】
おお……! 確かに来る時の馬車は地獄だった。慣れないクレアにとっては拷問に等しかったはずだ。しかも値段を見るとかなり安い。これなら三人分買える!
エミリーもその存在に気づくと、瞳を輝かせた。
「でかしたわ、クレア!」
そう言って、愛らしいパンダのイラストが描かれたクッションをサッと手に取る。
「店員さ~ん、これ同じものをもう一つください!」
カウンターの奥から顔を出した若い看板娘さんが、申し訳なさそうに眉を八の字に下げた。
「すみません~! そのクッション、今飾ってある現品限りで売り切れなんです……! 新人ハンター様が買い占めていかれるので、いつも品薄で……」
現品限り……? 嫌な予感がして棚を確かめると、クレアとエミリーが手に持っている二つで本当に最後だった。
「……仕方ないわね。レイン、あなたは諦めなさい!」
「なんでだよ!? 俺だってケツが割れそうに痛いんだぞ!?」
別にお宝を巡って二人の女性と争う気はなかったが、当然のように除外されて少々イラッとし、思わず反発してしまった。
俺がすがるような視線をエミリーへ送ると、視線に気づいたエミリーは「渡さないわよ」と言わんばかりにパンダのクッションをぎゅっと抱きしめた。
「私だって痛かったのよ! 我慢してただけで……私のお尻、今真っ赤なんだから! ……見る?」
そう言って、エミリーはお茶目な顔で俺にくるりとお尻を向けて見せた。
「み、見ませんよっ!?」
思わぬ挑発に俺の方が恥ずかしくなり、裏返った情けない声が出てしまった。
「……やっぱり、筋金入りの変態ね」
すかさずクレアが冷ややかにボソリと呟く。
……すっかりこのクエストを通して『変態』の烙印を押されてしまったらしい。無実だ……完全なる冤罪だ! 誰か俺のために裁判を開いてくれ!!
「もう! 男のくせにいつまでもうじうじうるさいわね! ……いいわ、だったらこの【クッションお預け】を、私を三回怒らせた罰にしてあげるわ! これで文句ないでしょ!?」
「……っ!」
文句がないわけではないが……腹を括るしかない。
そもそも、宝物のようにクッションを抱えるこの猛者ふたりから、力づくで奪い取るなんて不可能なのだ。それに、恐ろしい「三倍の罰」がこれで帳消しになるなら、むしろ破格の安さかもしれない。
「……わかったよ。それで手を打つ」
「ふんっ! 最初からそう言えばいいのよ!」
クレアはぷいっと横を向いてプンプン怒ってみせたが、その口元はニヤニヤと嬉しそうに歪んでいた。自分だけの快適なクッションを手に入れられて、よほど嬉しいのだろう。
——そんなこんなで押し問答を繰り広げながら、馬車はようやくアイスライトの平民街へと戻ってきたのだった。
直接確かめる術はないが……俺の尻もきっと、夕焼けのように真っ赤に染まっているに違いない。




