第四十話:信頼と、理想の魔法
「グォオオオオオオオオンッ!!!」
マンティコアが天を仰ぎ、咆哮を放った。
大気が激しく震え、周囲の森がざわざわと波打つ。常人ならその絶望的な威圧感だけで腰を抜かし、泡を吹いて気を失うレベルの咆哮だ。
だが、俺たちのなかに戦意を失う者は一人もいなかった。それどころか、クレアがやる気満々の顔で腰の鉄剣を抜き放っている。
「おいクレア、ダメだ! 前に出るな!」
「わかってるわよ! でも、あんたが負けそうになったら私が助けるしかないじゃない!」
「大丈夫だって! 俺にはエミリーもついてる!」
戦闘態勢のままマンティコアから目を離さないエミリーが、左手の親指をグッと立てて、クレアを安心させる。
「……ふん、わかったわよ。あんまり苦戦しないでよね」
クレアは安堵と歯がゆさが混ざった溜息をつき、しぶしぶといった様子で鉄剣を鞘へと納めた。
俺は思考を切り替え、再びマンティコアへ視線を戻す。
——その刹那!
巨躯からは想像もつかない爆発的な速度でマンティコアが踏み込んできた。視界を埋め尽くす赤い影。巨木のように太い前脚から、丸鋸のような禍々しい爪が振り下ろされる!
やばっ——!?
反応が遅れた俺とマンティコアの間に、風のように割り込む影があった。エミリーだ。
彼女は鉄の剣を斜めに構え、巨獣の爪を真っ向から受け止めた。
火花が散り、激しい金属音が鼓膜を刺す。
「レイン、集中しなさい! 私が隙を作るから、合わせなさい!」
「は、はい! ありがとうございます!」
エミリーは剣を滑らせて爪を弾き飛ばすと、地を蹴って跳躍。空中で一瞬の旋回を描き、マンティコアの顔面を一閃した。
鮮血が舞い、激痛に眉間を押さえたマンティコアが怯んで後退する。だが……顔面を深々と斬りつけたはずなのに、流血こそすれど傷自体は浅い。
「レイン、今よ!!」
初級魔法じゃこのバケモノの皮膚は撃ち抜けない。少し怖いが……中級魔法で押すしかない!
「【エアスラッシュ】!!」
風属性の中級魔法。術者の周囲に局地的な突風を発生させ、圧縮された風の刃を連続射出する。その瞬間、俺を中心に暴風が吹き荒れた。
足を踏ん張っていないと自分自身すら吹き飛ばされそうな風圧の中、無数の風の刃が死の疾走する。マンティコアの全身へと次々に襲いかかった!
「ゴアァァァァァァァァァッ!?」
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
魔物の断末魔のような叫びと同時に、なぜか背後からクレアの悲鳴が聞こえた。
まさか背後から襲われた!? 俺は魔物のダメージを確認するより先に、弾かれたように振り返った。
「クレアっ!? だい、じょう、ぶ、か——……」
俺の言葉が途中で途切れた。
吹き荒れる暴風の渦中——そこには、捲れ上がる白のスカートを涙目で必死に押さえているクレアの姿があった。
めくれあがる裾の隙間から、純白の可愛らしい下着と、健康的な太もものラインがチラチラと見え隠れしている。
「ばかぁぁっ!! どこ見てるのよ!!魔物をみなさいよ」
「ご、ごめんっ!!」
俺は慌てて首を180度回し、マンティコアへ視線を戻した。
風の刃を浴びたマンティコアは全身から血を流して噴き出しているものの、核心的なダメージには至っていないようだ。中級魔法を直撃させてなお立ち続けているなんて……。
なら……上級魔法を叩き込むしかないか……?
だが、腕輪が外れたいま、中級魔法ですらこの暴風の巻添えだ。ここで上級魔法なんてぶっ放したら、範囲が広すぎてパーティ全員を物理的に巻き込んでしまいかねない。
俺が本気で長考に入っていると、背後から呪詛のような低く暗い声が漏れ聞こえてきた。
「絶対……わざとだわ……。あんな魔法で風を起こすなんて、やっぱり筋金入りの変態ね……。覚えてらっしゃい……」
こんな生死を賭けた土壇場で、わざとスカート捲りなんてするかよ……! それに、そんなヒラヒラスカートでダンジョン付近のクエストに来る方が無防備なんだって! 激しく動いたら勝手に見えるだろ!
「ちょっとレインっ!! 手を休めずに攻め続けなさい!!」
「ひぃっ、すみません!!」
エミリーに一喝され、俺はハッと正気に戻った。
集中しろ、俺! 可愛い女の子の下着が見えたくらいで満足してどうする! ここでマンティコアに食われて死んだら、それ以上の未来も何もなくなるんだぞ! なんとしても生き残らなければ!
エミリーが再びマンティコアの懐へ踏み込み、残像が残るほどの高速剣技で攻撃を叩き込んでいく。だが——鉄剣の質が圧倒的に低すぎる。鋭い一閃を何度叩き込んでも、固い皮膚に阻まれて浅い傷にしかならない。やがて限界を迎えた鉄剣が、甲高い悲鳴をあげて半ばから真っ二つに折れ飛んだ。
「チッ……!」
エミリーは素早く俺の剣を受け取り、二本目の鉄剣に持ち替える。俺も隙を見て初級の【ウォーターババレット】や【エアバレット】を牽制で撃ち込んでいくが、どれも決定打にはならない。
それから数分もしないうちに、二本目の鉄剣も無惨に粉々に砕け散った。エミリーの手元に残されているのは、クレアから借り受けた最後の1本の鉄剣だけだ。
「……ハァ、ハァ……。このままじゃ完全なジリ貧ね。どうしたものかしら……」
エミリーが肩で息を吐きながら、最後の鉄剣を構え直す。
「……エミリー。やっぱり、俺が上級魔法を撃つしか……」
「…………」
エミリーは固く唇を噛み締めた。
「……クレア、少し下がっていなさい。ううん、できるだけ遠くへ離れて」
最後の鉄剣を構えたエミリーが、低く落ち着いた声で口を開いた。
「レイン、私は今からあの魔物を、あなたたちからできるだけ遠くへ引き離すわ。……私が叫んだら、迷わず上級魔法を放ちなさい」
「えっ……!? そ、それじゃあエミリーまで巻き込んでしまうんじゃ……!」
俺の叫びに、エミリーは振り返り、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「大丈夫、大丈夫。私、これでもあなたの想像以上に強いのよ。 まあ、この程度の魔物に苦戦しておいて言えた格好じゃないけれどね。とにかく、レインの上級魔法に巻き込まれたくらいで、私がどうにかなっちゃうなんて思わないこと。安心してぶっ放しなさい」
エミリーはいつもの頼もしい笑顔を作っていたが……それが優しい嘘だということくらい、俺にだって分かった。
本当にそんな無茶が通るなら、とっくに実践しているはずだ。ここまで引っ張ったということは、文字通りの最後の切り札なのだ。死なないまでも、巻き込まれれば致命的なダメージを追うのは間違いない。
味方を傷つけるなんて……そんなこと、俺にはできない……!
俺が躊躇し、唇を噛み締めたまま動けずにいると——エミリーの表情から笑みが消え、見たこともないほど険しい眼光で俺を射抜いた。
「レイン、甘えるなっ!!」
鋭い一喝が、俺の鼓膜を叩く。
「時には……大切なものを守るために、何かを犠牲にしてでも成し遂げなければならない瞬間があるの! 覚悟を決めなさい! ……それに、『大丈夫』って言ったでしょう? 私たちはパーティよ。私を……仲間を信用しなさい」
最後に見せたのは、すべてを包み込むようなあたたかい笑顔だった。
エミリー……なんて男前なんだ……。クレアがいなかったら本気で惚れていたかもしれない……!
「……分かった。上級魔法、撃ちます。……よろしくお願いします!」
俺は腹を括り、背後の少女へ叫んだ。
「クレア! 聞こえていただろ! エミリーの言う通りにするんだ、早く離れろ!!」
「わかった……っ! 」
自分の無力さが悔しくてたまらないのだろう。クレアは爪が食い込むほど握りしめた両拳から静かに血を滴らせながら、脱兎のごとく後方へ走り出した。
クレアが十分な距離を取ったのを確認すると、エミリーは手にした鉄剣を両手で固く握り直し、果敢にマンティコアへ躍り出た!
苛烈な連続攻撃を繰り出し、命を削るような剣舞でマンティコアを力任せに後方へと押し込んでいく。そして——限界を迎えた最後の鉄剣が、けたたましい音を立てて砕け散った。
「今よ!! レイン撃ちなさいっ!!」
エミリーの魂の叫びが森に響き渡る。
ちくしょう……ちくしょうッ……!! いざという時に味方を巻き込むしか手段が無いなんて……こんな魔力を持っていたって、何の役にも立たないじゃないか……!!
思い通りに魔法の出力を制御できない己の情けなさに、激しい怒りと不甲斐なさが溢れ出し、目元から一粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
俺は右手を真っ直ぐに突き出し、エミリーごと吹き飛ばす覚悟で上級魔法の詠唱に入ろうとした——その時だった。
『——もう、しょうがないなぁ。手伝ってあげるよ。と・く・べ・つ、なんだからね?』
頭の中に、直接響いてくる透き通った少女の声。あの時と同じ、不思議な声だ!
『——【ブリザードコンプレッション】。えいっ♪』
手のひらに溜まった膨大な水属性の魔力が、見たこともない高密度で激しく変質していく。
「ちょ、ちょっと待てっ!? 俺はこんな魔法唱えてないぞ……!?」
それは、ただの上級魔法などではなかった。それどころか、上級すら遥かに凌駕する真の領域——俺が知っている最高の魔法。究極魔法の一つ!
やばいやばいやばい!! こんな火力を撃ち込んだら、本当にエミリーが死んでしまう……!!
あまりの恐怖に即座に魔法を中断しようとしたが、身体が金縛りに遭ったように言うことを聞かない。そして、俺の意志を置き去りにしたまま、術が解き放たれた!
「くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
絶望の悲鳴をあげる俺の視界で——だが、起きた現象は想像していたものとは全く異なっていた。
放たれたのは、巨大な嵐でもなければ暴炎でもなかった。
手毬ほどの大きさにまで極限まで圧縮された、神々しいまでに白く輝く『氷の結晶』。それが目にも追えない速度と衝撃波とともに、マンティコアの胸元へ直撃したのだ。
一瞬の静寂。
直後、マンティコアの巨躯を中心に、白銀の絶対零度が爆発的に伝破した。
音すら残さず、圧倒的防御力を持った怪物、そして背後の巨大な樹木や足元の地面に至るまで、一瞬にして氷漬けへと変わる。
そして——パリン、と澄んだ美しい音が響いた。
凍てついたマンティコアは、まるで繊細なガラス細工のように、何千、何万という微細な氷の粒子となって空中に弾け飛び、跡形もなく消滅したのだった。
広域を巻き込むはずだった破壊は、超高密度の魔法として対象のみを消し去った。エミリーには擦り傷一つついていない。まさに自分の理想とする魔法。
「な……なんだ……今のは……」
静まり返った森の中で、俺は呆然と立ち尽くし、ただ自分の右手を言葉もなく見つめ続けていた——。
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