第十二話 :冷たく硬い石畳の床と、協力者
「裁判のある日まで、大人しくしておくんだな」
冷酷な捨て台詞とともに、背中を強く突き飛ばされた。両手を手錠で固く拘束されている俺は、まともに受け身を取ることもできず、冷たく硬い石畳の床へ無様に倒れ込む。痛めた肩と全身に激痛が走ったが、起き上がる気力すら湧いてこなかった。
なんで……なんでこんなことになったんだ……?
思考が濁り、泥の中に沈んでいくようだ。
なぜ俺が牢屋に閉じ込められている? 俺はただ、クレアを助けたかっただけなのに。
――あぁ、そうか。俺がクレアを助けられなかったからだ。
横たわったまま動かない俺を見下ろし、見張りの兵士が不快そうに唾を吐き捨てた。
「けっ、気味の悪いガキだ。反省の色のカケラもねえな」
ガチャリ、と重々しい鉄格子の鍵が閉められ、兵士の足音が遠ざかっていく。
静寂が訪れた。薄暗い牢内には、カビと湿気、そしてかすかな鉄の匂いが充満している。小さな鉄格子の窓からは、冷ややかな月光が筋となって差し込んでいた。
全身が痛い。心が割れそうだ。もう何も考えたくない……。俺は重い瞼を閉じ、逃げるように意識を放り投げた。
「おい、起きろ罪人。いつまで泥のように眠ってやがる」
粗暴な声と、鉄格子を打ち鳴らす金属の甲高い音で目が覚めた。
いつの間にか格子からは眩しい朝の光が差し込んでいる。案外、体の痛みは昨日より幾分か和らいでいた。脳の霧も晴れ、思考がクリアになっていく。
……自暴自棄になってる場合じゃないだろ、俺。
深く息を吐き、膝に力を込めてゆっくりと立ち上がる。
死んだように丸まっていた昨夜とは打って変わり、力強い目で見返してくる俺を見て、兵士は一瞬けおされたように眉をひそめた。
「……チッ、面会だ。付いてこい」
兵士は手錠から伸びる鎖をぐいと引っ張り、暗い廊下を歩き出した。
連行されたのは、小さな木製机一つと椅子が二つだけ置かれた殺風景な部屋だった。壁は分厚く、窓もない。
「座って待ってろ。すぐ弁護人が来る」
兵士は俺を座らせると、外から扉の鍵を閉めた。
沈黙が部屋を満たす。十分、二十分……時計がないため正確な時間は分からないが、何もない部屋でただ待たされる時間は精神をじわじわと削っていく。
痺れを切らし、扉を叩いて兵士を呼ぼうと立ち上がりかけた――その時。
カチャリ、と鍵が回る音が響き、扉が開いた。
入ってきた人物を目にした瞬間、俺は思わず毒気を抜かれて固まってしまった。殺伐とした地下牢には到底似つかわしくない、鮮烈な美女だったからだ。
「はじめまして。君がレイン君ね? 私はエミリー=ファニング。エミリーって呼んで頂戴」
サラサラとした美しい青髪を揺らし、彼女は気さくに微笑んだ。年齢は二十代中盤だろうか。豊かな胸元と、タイトスカートから伸びるスラリとした足。大人びた妖艶さと聡明さを漂わせた、美しいお姉さんだった。
「あ……はじめまして、レインです」
「よし、自己紹介はおわりね。じゃあ早速本題に入りましょうか」
エミリーさんは迷いのない足取りで向かいの椅子に腰掛け、書類を机に広げた。だが、俺にはそれどころではなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 始める前に、聞きたいことがあります!」
「あぁ……クレア=フォントネルのことね?」
俺が名前を出すより早く、エミリーさんはすべてを見透かしたような眼差しで言った。
「そ、そうです! クレアは……クレアは大丈夫なんですか!? 死んでないですよね!?」
俺は身を乗り出し、机に手錠を叩きつけるような勢いで叫んだ。鎖がジャラリと悲痛な音を立てる。
「落ち着きなさい、レイン君。……大丈夫よ。身体の損傷が激しくてまだ意識は戻っていないけれど、命に別状はないわ。優秀な名医がついているから、あと三日もすれば目を覚ますはずよ」
――生きてる。クレアが、生きている。
その事実が脳に届いた瞬間、全身の筋力が一気に抜け落ちた。俺はガタリと力なく椅子に深く腰掛け直した。
「ほんとに……よかった……ほんとに……っ」
視界がじんわりと熱く滲む。彼女が失われていなかったことへの安堵が、胸の奥から温かい波となって広がっていく。涙が止まらない。
そんな俺の様子を、エミリーさんは優しく、どこか慈しむような目で見つめていた。だが、彼女はすぐに声音を落とし、痛ましい報せを口にした。
「……ただ、クレアさんの父親であるザワード=フォントネルは亡くなったわ。あの剣神とまで呼ばれた男が討たれるなんて未だに信じられないけれど……屋敷も完全に焼失したわ」
「そう……ですか……」
胸が押し潰されそうになる。クレアが目を覚ました時、彼女を待ち受けているのは父親の死と、思い出の詰まった家の消失だ。どれほどの絶望だろうか。
俺がそばにいて抱きしめてやりたい。……けれど、俺はあいつから全てを奪った男の息子だ。許されるはずがない。それどころか、俺自身も父親の共犯者として捕まっているのだから。
「ふふ、やっぱりね。君はこの事件の犯人じゃないわ」
深く沈み込む俺を見て、エミリーさんが不意に納得したように頷いた。
「え……? なんで……俺、まだ何も話してないのに……」
「これでも優秀な弁護士なのよ? 悪い奴かいい奴かくらい、顔を見れば一目瞭然だわ。君、何も知らなかったんでしょう?」
疑われる覚悟をしていた俺は、あっさりと信じてくれた彼女に拍子抜けしてしまった。
「はい……事件の前日、父さんが昔使っていた古い剣を手入れしていたので、少し変だなと思ったくらいで……まさか、ザワードさんを殺すなんて思ってもみませんでした」
「ボルタの奴……何か言っていなかった?」
「え?」
「現場でボルタと遭遇したんでしょう? 何か言っていなかったかしら」
「たしか……ザワードさんがしてくれることは『まやかし』だとか、『あいつのせいで俺は』とか……過去の恨みみたいなことを言っていました」
俺の言葉を聞いた瞬間、エミリーさんの眉間に深い皺が刻まれた。美麗な顔立ちが、苦々しい影に覆われる。
「やはり……ボルタの奴、まだあの時のことを引きずっていたのね……」
「あの、エミリーさん……父さんやザワードさんと知り合いなんですか?」
「ん? ええ、昔ね。ザワードとボルタ、そして私は、同じ騎士団の同期だったのよ」
「……はい?」
俺は思わずエミリーさんの全身を二度見した。
父さんが騎士団を辞めたのはたしか十年以上前だ。入団できる最低年齢が十八歳だから……計算が合わない。
「あの……エミリーさんって、今おいくつなんですか……?」
尋ねた瞬間、エミリーさんがフッと艶やかな笑みを浮かべ、人差し指を自分の唇に当てた。
「レイン君。女の子に年齢を聞くものじゃないわよ?」
……三十代半ば、いや下手したら四十手前……!? この見た目で……!?
女性の恐ろしさに戦慄していると、エミリーさんはコホンと小さく咳払いをし、表情を真剣なものへと戻した。
「雑談はここまでよ。レイン君、ハッキリ言って状況は絶望的と言っていいわ」
「え……? 絶望的……ですか?」
クレアの生存を知ってどこか浮ついていた気持ちが、冷や水を浴びせられたように冷え切っていく。
「そうよ。君はこのままだと、死刑になるわ」
「し、死刑……!? 俺が……!?」
「ええ。国家反逆罪および、一等貴族ザワード殺害の共犯……いいえ、主犯格としてね」
クレアが無事だった安息の時間は一瞬で終わりを告げた。
今度は、俺自身の死という巨大な刃が、首元に突きつけられていることを知るのだった。
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