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天明の火、唐沢の風 外伝:皆川の狐、佐野の狼  作者: 水川仁


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第三章:太平山の炎、連城の逆鱗

天正十一年(一五八三年)四月。


本来ならば新緑に包まれるはずの太平山は、その日、黒煙と業火に覆われていた。


炎は尾根から尾根へと走り、夜空を赤く染め上げる。


山麓を埋め尽くす北条軍の将兵たちは、燃え盛る山を見上げながら舌打ちした。


「皆川の白狐め……」


誰かが吐き捨てる。


「まだ落ちぬか」


関東の覇者・北条氏政、氏直父子が率いる大軍勢。


数万ともいわれる兵力である。


対する皆川広照は寡兵に過ぎなかった。


誰もが皆川の滅亡を疑わなかった。


だが広照は、太平山そのものを巨大な要塞へ変えていた。


本城を中心に、幾重もの砦と出城を連ねる。


連城。


一つが落ちても、次が現れる。


次が落ちても、そのまた奥から矢が飛ぶ。


まるで山そのものが敵意を持って牙を剥いているかのようだった。


「放て!」


崖上から広照の号令が響く。


巨石が転がり落ちる。


丸太が唸りを上げる。


無数の矢が雨のように降り注ぐ。


狭い山道を登る北条兵は為すすべもなく崩れ落ちていった。


戦いは十日を越えた。


二十日を越えた。


それでも太平山は落ちなかった。


「殿!」


物見櫓へ家臣が駆け上がる。


「殿! 太平山権現の堂宇が炎上しております!」


「山中の坊舎も次々と焼かれています!」


「麓の寺々にも延焼が……!」


悲鳴のような報告だった。


広照は黙って西の空を見つめた。


夜空を焦がす炎。


崩れ落ちる堂塔。


太平山は皆川氏の祖先が守り続けた霊山である。


幼い頃から見慣れた風景が、次々と灰へ変わっていく。


広照は拳を握った。


爪が掌へ食い込み、血が滲む。


「……すまぬ」


誰に向けた言葉だったのか。


神仏か。


祖先か。


それとも領民か。


広照自身にも分からなかった。


だが、その眼は絶望していなかった。


むしろ静かに燃えていた。


「社寺は建て直せる」


低い声で呟く。


「だが皆川の血は、滅べば戻らぬ」


風が吹く。


炎の粉が夜空へ舞い上がった。


「北条め……」


広照は燃え盛る山を睨んだ。


「この火の熱さ、生涯忘れぬぞ」



同じ頃。


唐沢山城。


佐野房綱は東の空を見上げていた。


赤く染まった夜空。


太平山の炎がここからでも見える。


背後では若き当主・佐野宗綱が苛立たしげに腕を組んでいた。


「叔父上」


宗綱が言う。


「今こそ好機ではありませぬか」


房綱は答えない。


宗綱は続けた。


「北条の背後を突き、皆川ごと食い破るのです」


若い狼の目だった。


武勇に満ちた眼。


だが房綱は首を横に振る。


「ならぬ」


「なぜです」


宗綱は食い下がった。


房綱は静かに答えた。


「広照は籠城しているのではない」


「では何を」


「耐えているのだ」


宗綱が眉をひそめる。


房綱は炎を見つめたまま続けた。


「数万の軍勢を相手に、一月以上持ちこたえる小国人がいるか」


「……」


「北条は焦っている」


宗綱は黙った。


房綱の言葉には重みがあった。


「あの狐は戦っているのではない」


房綱の目が細くなる。


「北条の底を測っているのだ」


「底、?」


「そうだ」


房綱の目は冷ややかだった。


房綱の予見通り、戦局は奇妙な決着を迎えることになる。


これ以上の消耗を嫌った北条氏政は、ついに力攻めを断念。


結城晴朝らの仲介を挟み、広照に「和睦」を申し入れた。


形式上は皆川氏が北条の軍門に降るという形であった。


広照は皆川の領地をほぼ五体のまま守り抜いたのである。



戦火が収まり、黒煙の燻る太平山城の平場。


広照は灰となった太平山権現の堂宇の跡地に立っていた。


そこへ、一人の旅僧が姿を現す。


網代笠を深く被ったその男は、佐野房綱であった。


「手酷くやられたな、狐殿」


広照は振り返らず、灰を撫でる風の音を聞いていた。


「見ての通りだ、狼殿。神仏を敵に回してしまった。


俺は地獄へ落ちるだろうな」


「神仏はそれほど狭量ではない。だが……」


房綱は笠の奥から、鋭い眼光を広照に向けた。


「北条の犬になったか、広照」


その言葉に、広照は初めて冷たい笑みを浮かべて振り返った。


「犬ではない。首輪をつけられたふりをしているだけだ。


牙を隠さねば生き残れぬ世よ。これほど怒らせてもなお、我らを一飲みにできぬ北条の器、見切らせてもらった」


広照は一歩、房綱に近づいた。


「佐野はどう動く。真っ直ぐなだけの宗綱では、これからの泥沼は泳ぎきれんぞ」


「宗綱は佐野の太陽だ。泥を泳ぐのは私の役目よ」


房綱はそれだけ言うと、背を向けた。


「太平山の恨み、忘れぬことだな」


「忘れるものか」


二人の知略家は、互いに異なる覚悟を胸に刻んだ。


広照は北条という巨大な獣の内側に入り込んで生き残る道を。


房綱は、いずれ訪れる北条の崩壊を見据え、さらに深い闇へと潜る道を。


山を焼いた天正の炎は収まったが、二人の男の胸に灯った執念の火は、さらに激しく燃え盛り、次なる「彦間谷の惨劇」へと、運命の歯車を狂わせていくのである。

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