第二章:軍神の影、夜闇の双璧
永禄七年(一五六四年)二月。
下野の山々は雪に覆われていた。
その白銀の世界を埋め尽くすように、無数の篝火が揺れている。
上杉謙信。越後の軍神。
その軍勢一万余が、唐沢山城を完全に包囲していた。
城内では兵たちの顔から笑みが消えていた。
「兵糧はあと十日」
「矢も不足しております」
次々と届けられる報告に、佐野昌綱は腕を組んだまま唸った。
「ようやく本気を出してきたか、軍神殿は」
だが、その横で房綱は笑わなかった。
戦況は深刻だった。謙信の軍は強い。
強すぎる。
城はまだ落ちぬ。
しかし勝てる戦でもない。
その時、一人の忍びが駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何事だ」
「皆川広照、上杉方として参陣しております!」
昌綱が鼻で笑った。
「やはり来たか、狐め」
房綱は地図へ目を落とした。
嫌な予感がした。上杉軍だけならまだ良い。だが皆川広照がいる。
あの男は戦場で槍を振るうより、人の心を動かすことを好む。
「兄上」
「なんだ」
「広照は何か企んでおります」
「企まぬ日などあるか」
昌綱は豪快に笑った。
しかし房綱の胸騒ぎは消えなかった。
その頃。上杉軍陣中。
皆川広照は焚火の前で酒を飲んでいた。
目の前には巨大な唐沢山城。
白い雪を被ったその姿は、まるで山そのものだった。
「流石だな」
広照は呟いた。
「何度見ても攻めたくない城だ」
家臣たちが苦笑する。
「ならば攻めなければよろしいでしょう」
「そうもいかん」
広照は肩をすくめた。
「軍神殿は攻める気満々だからな」
その時だった。
ヒュッ、と風を切る音がした。
一本の矢が地面に突き刺さる。兵たちが騒然となった。
「敵襲か!」
だが広照は動かなかった。
矢を拾い上げる。
矢尻には小さな巴紋の飾りが結ばれていた。
佐野家の紋である。
広照の口元がゆっくり歪んだ。
「来ると思っていたぞ」
夜。雪が静かに降り続いていた。
広照の陣幕の裏に、一人の男が姿を現した。
墨染めの衣、鋭い眼光。佐野房綱である。
「久しいな」
広照が笑った。
「敵同士で酒でも飲むか?」
「断る」
房綱は即答した。
「お前の酒には毒が入っていそうだ」
「失礼な男だ」
二人は向かい合った。火の爆ぜる音だけが響く。
見つかれば終わりだった。
上杉軍に知られれば房綱は斬首、広照も謀反を疑われる。
だが二人とも平然としていた。
「用件を言え」
広照が促すと、房綱は静かに答えた。
「唐沢山が落ちればどうなる」
「上杉の城になる」
「そうだ」
房綱は頷く。
「そしてお前の隣人になる」
広照の笑みが消えた。
「私は嫌だ。お前も嫌だろう」
広照は火を見つめたまま答えた。
「大嫌いだ」
二人は同時に笑った。
敵同士の笑いだった。
だが利害は一致している。
「条件は」
「謙信公を退かせろ」
「無茶を言う」
「お前ならできる」
房綱は真顔だった。
広照は小さく息を吐いた。
「貸しだぞ」
「高くつきそうだな」
「当然だ」
広照は狐のように笑った。
「お前ら佐野は、いつも後払いだからな」
その瞬間、二人の知略家の間で一つの取引が成立した。
狼と狐。
敵でありながら、互いの生存のために、夜の闇の中で手を結んだのである。
翌朝。上杉謙信は攻撃中止を命じた。
陣中は騒然となったが、軍神の命令は絶対だった。
やがて上杉軍は撤収を開始する。
城門の上からその様子を見つめながら、佐野昌綱は腕を組んだ。
「助かったか」
房綱は答えなかった。
視線は遠く離れた皆川軍の陣へ向いていた。
そこに小さく見える一人の男、皆川広照。
あの狐がいなければ、今日の唐沢山は危なかった。
それは認めざるを得ない。
だが――。
「いつか決着をつける」
房綱は呟いた。
広照もまた、遠くから城を見ていた。
「次は敵として会おう」
そう呟きながら馬首を返す。
雪解けの風が吹いていた。
だが乱世はまだ終わらない。
むしろこれからが本番だった。
軍神の影が去った後、北条という巨大な獣が、ゆっくりと下野へ牙を向け始めていたのである。




