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天明の火、唐沢の風 外伝:皆川の狐、佐野の狼  作者: 水川仁


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第一章:皆川の狐、佐野の狼

永禄三年(一五六〇年)晩秋。


皆川城の物見櫓に、一人の若武者が立っていた。


皆川山城守広照(みながわ やましろのかみ ひろてる)。


のちに「皆川の白狐」と呼ばれる男である。


吹きつける北風を受けながら、広照は遠く北東の山並みを見つめていた。


その先に見えるのは唐沢山。岩山の頂に築かれた堅城、唐沢山城である。


「佐野昌綱……」


広照は静かに呟いた。


「そして房綱か」


霧に霞む山影を見つめながら、口元に笑みを浮かべる。


あの山には狼が棲んでいる。広照はそう考えていた。


佐野昌綱――勇猛果敢な当主。


そしてその弟、房綱。後に天徳寺宝衍と呼ばれる知略の僧。


あの兄弟が揃えば、下野で敵う者はいない。


だが――。


「狼は山を守ることはできても、世の流れまでは守れぬ」


広照は小さく笑った。


戦は槍だけで勝つものではない。婚姻、縁組、調略、密約。


人と人を結ぶ見えない糸こそが、乱世を動かす。それが広照の考えだった。


「殿」


背後から家臣が声をかけた。


「下総の結城殿より使者が参っております」


「晴朝殿か」


広照の顔が和らぐ。結城晴朝。


名門結城家の当主であり、広照にとっては親類でもあった。


「通せ」


しばらくして現れた使者は、一通の書状を差し出した。


広照は封を切り、素早く目を走らせる。


読み終えた瞬間、その目が細くなった。


「なるほど」


北条の動きが活発になっている。


上杉も関東への介入を強めている。


大国同士がぶつかれば、その狭間にいる国人たちは踏み潰される。


生き残るには先を読まねばならない。


「面白くなってきた」


広照は書状を火鉢へ放り込んだ。紙はあっという間に炎へ呑まれる。


「狼どもはどう動くかな」



その頃。唐沢山城。


石垣を打つ木枯らしの音が、山城全体に響いていた。


本丸の一角で、佐野房綱は兄の昌綱と向かい合っていた。


「皆川広照が上杉方に接近しております」と房綱が言った。


「またか」


昌綱は豪快に笑った。


「相変わらず忙しい狐だな」


「笑い事ではありませぬ」


房綱の顔は真剣だった。


「あの男は戦場より人の心を攻める」


「それがどうした」


「敵に回せば最も厄介な相手です」


昌綱は酒を飲み干し、どっしりと腰を下ろした。


「房綱」


「は」


「狐は所詮狐よ」


そう言って窓の外を指さした。


そこには絶壁が広がっている。


唐沢山城。関東屈指の要害。


「どれほど化けようと、この山は落とせぬ」


房綱は黙った。兄の言葉は正しい。


実際、唐沢山城は幾度も敵を退けてきた。


だが広照の恐ろしさはそこではない。


「兄上」


「なんだ」


「広照は城を攻めませぬ」


「ほう?」


「あやつは人を攻める」


房綱は低く言った。


「家臣を攻める。親族を攻める。同盟を攻める」


影を落とすように、静かに続けた。


「気付いた時には、城の周りから味方が消えております」


昌綱の笑みが少しだけ消えた。


「そこまで買うか」


「買っております」


房綱は即答した。


「あの男は危険です」


しばし沈黙が流れる。やがて昌綱は立ち上がった。


「ならば尚更面白い」


槍を手に取る。


「狼が狐に負けるものか」


房綱は苦笑した。兄らしい答えだった。


だが心の奥では確信していた。いつの日か、必ず皆川広照と激突する。


それは避けられない。


上杉が動こうと、北条が動こうと、最後に牙を剥き合うのは、この下野に生きる者同士なのだ。


その夜。


皆川城でも、唐沢山城でも、二人の男は同じ月を見上げていた。


一人は狐、一人は狼。互いの姿を見ることはない。


だが乱世の風は、確実に二人を同じ戦場へ運ぼうとしていた。


まだ誰も知らない。


これから始まる幾十年もの抗争が、やがて北関東の運命そのものを変えることを。

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