第四章:彦間の残雪、宿河原の約束
天正十三年(一五八五年)元日。
本来ならば祝賀の声が響くはずの朝だった。
だが彦間の谷には、鬨の声と怒号が木霊していた。
残雪を踏み砕きながら、一騎の武将が先陣を駆ける。
佐野宗綱。
唐沢山城主。
「鬼将」の異名を持つ男である。
「逃がすな!」
宗綱が槍を振り上げる。
「皆川の腰抜けどもを討ち取れ!」
佐野勢が雪煙を巻き上げながら追撃する。
前方には敗走する皆川軍。
旗は乱れ、兵たちは転げるように谷を逃げていた。
その様子を見て宗綱は笑った。
「終わりだ、広照」
昨年。
沼尻合戦の混乱に乗じて粟野城を奪還した。
勢いは佐野にあった。
今なら宿敵を討てる。
そう確信していた。
「宗綱様!」
後方から声が飛ぶ。
馬を飛ばしてくるのは叔父・房綱だった。
「お戻りくだされ!」
宗綱は振り返らない。
「何だ!」
「追い過ぎです!」
房綱の顔は険しかった。
「ここから先は足利長尾の勢力圏!」
「それがどうした!」
「皆川広照は逃げておりませぬ!」
宗綱が鼻で笑う。
「では何をしている」
房綱は即答した。
「誘っております」
その言葉に宗綱は笑った。
豪快な笑いだった。
「叔父上」
宗綱が言う。
「狐を買いかぶり過ぎです」
房綱は黙った。
胸騒ぎが消えない。
あまりにも逃げ方が綺麗だった。
あまりにも道が開き過ぎている。
そして何より・・・
広照という男は、追われる側に立つ時ほど恐ろしい。
宗綱は馬を進める。
谷は次第に狭くなっていた。
両側を山に挟まれた一本道。
逃げる皆川兵が突然左右へ割れた。
まるで幕が開くように。
その瞬間。
宗綱の顔から笑みが消えた。
「なに……?」
前方に並んでいた旗印。
それは皆川ではなかった。
丸に梅鉢。
足利長尾氏。
斜面を埋め尽くす兵の列。
そして――。
無数の鉄砲。
房綱の叫びが谷に響いた。
「宗綱様ァァァ!」
轟音。
乾いた破裂音が山々に反響した。
一斉射撃。
白煙が吹き上がる。
宗綱の愛馬が悲鳴を上げた。
前脚が砕ける。
巨体が宙に舞った。
宗綱は地面へ叩きつけられる。
息が詰まる。
視界が揺れる。
それでも立ち上がろうとした。
佐野宗綱はそういう男だった。
だが。
目の前には長槍の列があった。
何十本もの穂先が一斉に突き出される。
鈍い音。
鋼が肉を裂く音。
宗綱の身体が大きく揺れた。
雪が赤く染まる。
「見事なり」
誰かの声が聞こえた。
宗綱は霞む視界を上げる。
そこに一騎の武将がいた。
皆川広照。
馬上から静かにこちらを見下ろしている。
勝者の顔ではなかった。
むしろ苦しそうな顔だった。
「惜しい男だ」
広照が言う。
宗綱は血を吐いた。
「狐め……」
広照は黙って聞いている。
「槍も振るえぬ臆病者が……」
宗綱は笑った。
血まみれの笑みだった。
「長尾の陰に隠れたか」
広照は静かに首を振る。
「違う」
「……」
「生き残っただけだ」
宗綱の目が細くなる。
広照は続けた。
「戦は力だけでは勝てぬ」
宗綱が吐き捨てる。
「知ったことか」
その返答に広照は苦笑した。
最後まで宗綱らしい。
「叔父上……」
宗綱の声が小さくなる。
房綱が駆け寄る。
「宗綱!」
「唐沢山を……頼む……」
房綱の目から初めて涙が落ちた。
「黙れ」
声が震える。
「まだ死ぬな」
だが宗綱は笑った。
幼い頃と変わらぬ顔だった。
そして静かに目を閉じた。
二度と開くことはなかった。
谷に風が吹く。
広照はゆっくりと兜を脱いだ。
敵将への礼だった。
「御苦労だった」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「若き狼よ」
広照は目を閉じた。
本当は殺したくなかった。
だが生き残るためには避けられなかった。
宗綱は速すぎた。
強すぎた。
そして真っ直ぐ過ぎた。
乱世はそういう男を好まない。
数刻後。
房綱は亡骸を抱きしめていた。
雪は静かに降り続いている。
宗綱の体温だけがまだ残っていた。
「広照……」
房綱は呟く。
怒りではない。
憎しみでもない。
もっと重い感情だった。
尾根の上に広照の姿が見えた。
二人の視線が交差する。
広照は何も言わない。
勝ち誇りもしない。
ただ静かに頭を下げた。
房綱は理解した。
あの狐もまた苦しんでいる。
それでも殺した。
生き残るために。
その事実が余計に許せなかった。
房綱は空を見上げた。
灰色の冬空。
その向こうに、時代の変わり目が見える気がした。
宗綱のような武勇の時代は終わる。
これから来るのは知略と外交の時代。
ならば。
自分も変わらねばならぬ。
僧となろう。
天下人を動かそう。
広照が狐ならば、自分は狼の皮を脱ぐ。
牙を隠し、天下そのものを利用する。
房綱の中で何かが決定的に変わった。
それは同時に、皆川広照の運命をも大きく動かしていくのであった。




