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第一章④ ブレスト城

 ブレスト城の一室。

 普段は重厚な応接室として使われる空間も、今は慌ただしい緊急医務室に様変わりしていた。

 窓は固く閉ざされ、薄暗い空気の中で薬草と湯の匂いが重く漂っている。

 机の上に掛けられた白布は簡易な寝台に姿を変え、その上にフェルナンドとベルリオーズが横たわっていた。

 フェルナンドは唇にうっすらと紫色を帯び、額には汗が滲んでいる。胸が苦しいのか、浅く速い呼吸を繰り返し、眉間はきつく寄せられていた。

 ベルリオーズは反対に蒼白な顔に紅潮が差し、喉を絞るような呼吸音を漏らしている。時折、痙攣する肩が布をかすかに揺らした。

 その傍らに立つイザベルの表情は硬く、視線は二人の容態から離れない。

 ベルリオーズの弟分、ワタリガラスのノクターが主人の安否を心配してカァカァと喚いている。

 そこへ扉が急ぎ開かれ、アルフォンスとソフィーが駆け込んできた。

「副司令官、お待たせしました」

「二人の様子は……?」

 イザベルは首を横に振る。

「呼吸は荒く、熱もかなり高い。放っておけば命に関わる」

 彼女の声には緊張と苛立ちが入り混じっていた。

 ソフィーは軽く息を整え、イザベルの許しを得ると二人の臨時ベッドへと歩み寄った。

 フェルナンドの顔色は青白く、額には大粒の汗が滲み、胸が不規則に上下している。

 ベルリオーズもまた同じく、浅く早い呼吸に加えて唇の色がわずかに紫がかっていた。

「診察します」

 短く告げ、ソフィーは膝をついて体温、脈、呼吸のリズムを確かめる。冷たい指先で額や喉元に触れながら脳裏では幾つもの病名が次々と浮かび、そして消えていく。肺炎、熱病、食中毒……だが、どれも決定打にはならない。

「倒れる前、体調不良の兆しはありましたか?」

 ソフィーは視線を患者から離さず問いかける。

「牢番と司令官殿たちによれば、二人とも普段通りとのことでした」

 アルフォンスが即座に答える。ならば、本当に唐突に倒れたのだろう。ソフィーは一瞬、背筋を冷たいものが這うのを感じた。

「普段通り?」

 ソフィーが問い返す。

「はい。朝も昼も、きちんと食事を摂ったとのことです。その後、突然倒れたと」

 その言葉にソフィーは長い睫毛の奥でわずかに目を細めた。心の中で点と点がつながっていく。沈黙を破るように、彼女ははっきりと告げた。

「特定しました」

 アルフォンスとイザベルの視線が一斉に彼女に向けられる。

「二人が倒れた原因。それは、毒です」

 空気が一瞬にして張り詰めた。

「毒……だと?」

 アルフォンスが眉を寄せる。

「まさか」

 イザベルの声音にも驚きが混じる。

 ソフィーは静かに首肯し、机上のカルテを指先で軽く叩いた。

「ただし、これは普通の毒ではありません。最初の毒はごく微量で、ただの疲労や胃の不調に見える程度。そして、それを代謝しようと体が動き出したところで、二段目の毒が作用する仕掛けです」

「二段目……?」

「ええ。体内で変質し、初めて本来の毒性を発揮する。だから、朝も昼も平然としていたのに発症は後になるのです」

「……発症が遅れる、ということか」

「ええ。そして、この手口は海賊や暗殺者が好んで使うもの。標的を即死させず、状況や場所を選ばせない……実に厄介です」

 言葉の重みが、室内にじわりと沈んでいった。アルフォンスが眉をひそめ、声を低くした。

「つまり犯人は、二人に近づいた人物だ。しかし、フェルナンドは牢の中だし、ベルリオーズは自由が利くとはいえ監禁状態で、この応接室で過ごしていましたよ。どうやって毒を?」

 イザベルがふっと唇を噛み、考え込む。

「ああ、そこで食事が絡むのか。ならば、食事を持ってきた奴なら犯行可能ね」

 ソフィーは静かに頷く。

「その通りです。そして、その人物は変装して接触していた可能性があります。私に二段毒のことを教えた人は、この方法はかなり手練れな奴じゃないとできないと言い切っていました」

 彼女の頭の中に一瞬だけマテオの顔が浮かんだ。

 あの時、なぜそんなことを平然と話せるんだと憤ったが、今となっては感謝の念が湧いてくる。

 イザベルが鋭く指示を出した。

「アルフォンス、二人の食事を配膳した者をここに呼んで、今すぐ!」

 アルフォンスは慌てて立ち上がった。

「は、はい!」

 慌ただしく応接室を後にする彼の背中が、緊迫した空気をさらに重くした。

 イザベルが険しい表情で訊ねる。

「それで、二人は助かるの?」

 ソフィーは一瞬だけ間を置いてから、静かに頷いた。

「ええ、一つ方法があります。荒治療です」

「荒治療?」

 イザベルは訝しげに繰り返す。ソフィーはかすかに微笑みを含ませながら答えた。

「毒を持って毒を制す。先輩軍医が残してくれた方法です」

 頭の中で、ベルナルド・シルバの日記のページが走馬灯のように蘇る。

 東洋医学の知識だけではなく、奇妙で危険な治療法の数々が綴られていた。

「第三の毒を用いて、先に仕込まれた毒と中和させて吐かせるのです。危険なやり方ですが、まさかここで実践することになるとは……」

 言い終えるとソフィーは素早く鞄を漁り、琥珀色に輝く小瓶を取り出した。

「この液体を飲ませて、吐いていただきます」

 部屋の空気が一層引き締まった。

 イザベルがソフィーの手に握られた琥珀色の瓶を見つめ、声を潜めて問う。

「……その手に持っているものは何?」

 ソフィーは一瞬だけ目を伏せ、柔らかく答えた。

「これは、いつも持ち歩いている毒物です。この知識を仕入れてから、緊急用に備えて持ち歩いているんです」

 彼女の頭の中に、あの東洋の商人の穏やかな笑顔が浮かんだ。

 イザベルの眉がひそまる。

「そんなものを……」

 しかしソフィーは迷わず、静かな決意を込めて言った。

「今はこれが、二人を救う唯一の手段です」

 緊迫した空気の中でソフィーはその小瓶を手に取り、荒治療の準備を始める。

 ソフィーは小瓶の蓋を丁寧に開けると、琥珀色の液体が静かに揺れた。

「フェルナンド、ベルリオーズさん、これを飲んでください。体内の毒と反応し、中和させるためのものです」

 イザベルが目を見開き、声を震わせた。

「それで本当に大丈夫なの? 危険じゃないの?」

「確かに危険は伴います。でも、このまま放っておけば命に関わる。覚悟は必要です」

 ソフィーの声には揺るがぬ決意が宿っていた。彼女は慎重に液体を小さな器に注ぎ、フェルナンドのもとへ歩み寄る。

「さあ、無理はしなくていい。少しずつで構いません」

 フェルナンドは薄く目を開けて、かすかな声で応えた。

「わかった……信じるよ」

 次にベルリオーズにも同じく液体が渡される。二人の体にじわじわと熱が広がり、苦悶の表情が浮かぶ。ソフィーはそっとそばに立ち、冷静に呼吸を促した。

「吐き気が来たら、無理に我慢せずに吐いてください。吐き出すことが重要です」

 時間が経つごとに二人の顔色が少しずつ変わっていく。やがてフェルナンドが苦しげに顔を歪め、口を開いた。

「……吐く……」

 イザベルがすかさずハンカチを差し出し、支えた。室内には吐き気と苦痛の匂いが立ち込めたが、それは救いの兆しだった。カァカァ喚いていたノクターも押し黙ってしまった。

 ソフィーは息を詰めつつも、静かに見守った。

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