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第九章⑤ ソフィーとエリオット

 執務室の重厚な扉がソフィーの勢いに押されるように開いた。

 静まり返った室内に、ソフィーの鋭い視線が一気に射し込む。彼女の怒りを帯びた無言の瞳が、エリオットの机の向こう、本人の目の前まで迫った。

「……どういうことですか?」

 ソフィーの声は静かだが、鋭く空気を切り裂くようだった。

 エリオットは思わず後ずさり、机の書類を握り直して平静を装そうとした。

「なんのことだい……?」

「フェルナンドのことです。彼がトゥーロンに行くと聞きました。なぜなのか、貴方の口から聞きたい」

 ソフィーの視線は一切逸らさず、全身から怒りと決意が滲み出ていた。

「嬢ちゃん、落ち着け」

 ルソーが制止の手を差し伸べるが、ソフィーは微動だにしない。

 イザベルも一歩前に出て、ルソーに声をかける。

「無駄よ。彼女は意志が強いですから」

 二人のやり取りには目もくれず、ソフィーは一歩も引かずに大元帥を見据える。

「大元帥、教えてください」

 エリオットはため息をつき、目を伏せる。重苦しい沈黙の後、ようやく口を開いた。

「彼……フェルナンドの今後の処遇についてだが——」

 言葉を選ぶように、一呼吸置く。

「……彼は処刑される」

 室内に言葉が落ちると空気が凍りついた。ソフィーの心臓が痛みと怒りで強く打つ。ルソーもイザベルも、表情を曇らせて視線を伏せた。

 ソフィーは一瞬、言葉を失った。だが、その瞳の炎は消えない――怒りと決意を胸に、少し息を整えて視線を逸らさずに言った。

「大元帥、私は彼の無実を知っています。理由があって、あなた方の目から逃れたのです。どうか、処刑だけはお考え直しください」

 エリオットは眉をひそめ、言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。

「ソフィー……君の言いたいことはわかる。だが、法と規律を無視するわけにはいかん。彼は海賊であり、脱走者だ。例外を作ることはできぬ」

「ですが、これまでの彼の行動を、あなたは評価されているはずです。なのに、命を奪うなんて……!」

 ルソーが腕を組み、深いため息をつく。

「嬢ちゃん……わかる、わかるが、そう簡単には変わらんのだ」

 イザベルはエリオットにそっと声を添える。

「大元帥、彼を処刑する前に、もう一度事情を精査する余地は……」

 エリオットは重く息をつき、ソフィーの瞳を見据える。

「……君たちの忠告は理解した。だが、決定は決定だ。法の下で裁く以上、私の手から逃れることはできぬ」

 ソフィーは拳を握り締め、額にわずかに汗を浮かべる。だが諦めることはない。

「それでも、私は諦めません。命を救うために、できることは何でもします!」

 彼女の強い意志に、エリオットはしばし沈黙する。室内の空気が張り詰め、戦場の緊張を思わせる重さに包まれた。

 ソフィーの心は決まっていた。たとえ大元帥の権限に抗えなくとも、彼女はフェルナンドの命を救うため、動かずにはいられなかった。

「ソフィー、たとえ私が許しても……国王陛下と民衆は彼ら海賊を許さない。この街全体を恐怖に陥れ、民の安寧を脅かした、極悪人たちだ」

 エリオットは無慈悲にも冷たく言い放つ。

「そして、悪を民衆の目の前で断罪する。正しさの証明のため。悪を徹底的に排除する、そしてその正義こそ全てだと讃えさせる。それは、民の安寧を誰よりも願う国王陛下の信念であり、この国の理念でもある」

 ソフィーは息を呑み、目の前の大元帥の言葉を理解しようとするも胸の奥がじわじわと熱くなる。怒りと悲しみ、そして絶望が入り混じった感情が押し寄せる。

「そんな……でも、どうしてフェルナンドが……」

 彼女の声が震え、思わず肩が小さく揺れる。

 エリオットは静かに揺るぎない口調で続ける。

「ああ、ソフィー。君はブレスト港で大海賊エドガー・ロジャースが散ったのを見たのだろう?  国王陛下としては、超重罪人が民衆の前で裁かれず死んだことを悔やむはず。大海賊フランソワの時も同じことだった。大物の罪人はなるべく生捕にせよ、これが海軍の方針でもある」

 ソフィーは長い間忘れていた方針を今になって思い出す。

 目の前で死なせるのは法ではなく、民衆に見せるための「正義」なのだ。

 エリオットは机の書類に手を置き、視線をソフィーに戻した。

「だから、大海賊エドガー・ロジャースが死んでしまった代わりに彼の右腕だった銀の猫、フェルナンドを処刑するためトゥーロンに送ることにした。私たちが彼を生かしたかったのは、そのためでもある。とはいえ、エドガーが生きていようと死んでいようとフェルナンドの処刑は免れないが」

 沈黙が室内を支配する。ソフィーの手は自然と机の縁を握りしめ、爪がわずかに食い込む。胸の奥が締め付けられるように痛い。

「それなら……あの毒の一件……」

 言葉を紡ぐ彼女の口調は次第に震え、声が掠れる。

「彼を処刑させるために、私に治療を?」

 言葉の最後は怒りと疑念と悲しみが混ざった問いとなり、大元帥の胸元に突き刺さった。

 エリオットは静かに息をつく。重みのある沈黙が二人の間に落ちる。室内の光が窓から差し込み、二人の影を床に長く引き伸ばしていた。ソフィーの手が机の縁をさらに強く握りしめる。声が震え、瞳には怒りと悲しみが交錯して光った。

「私は……医者です!」

 彼女の声は執務室の静寂を切り裂くように響き渡った。

「人を……殺させるために、人を救っているわけじゃありません!」

 胸の奥から湧き上がる熱情を抑えきれず、彼女は机に身を乗り出す。声は時に震え、時に鋭く揺るがない決意を帯びていた。

 エリオットは一瞬、言葉を失った。

 普段は冷静で沈着なソフィーがこんなにも真っ直ぐに、そして激しく己の信念をぶつけてくるとは予想もしていなかったのだ。

 あの時、医務室で見た気迫と同じ、いやそれ以上を目の前にしている。

 ルソーとイザベルも、部屋の隅に控えていたアルフォンスも思わず息を呑んだ。

 ソフィーはそのまま視線をエリオットに据え、声のトーンを少し落として続ける。

「もし、彼を救える可能性があるなら、私は……絶対に手を貸します。けれど、殺すために私がいるのではありません」

 その言葉には医者としての矜持と、仲間としての思い、そしてフェルナンドへの強い想いが混ざり合っていた。

 エリオットは深く息をつき、ソフィーを見つめる。重苦しい沈黙の中で、彼の目にはどこか理解と哀しみの色が浮かぶ。

「……君の気持ちはわかった」

 その一言が、静かに室内に重みを落とす。エリオットは一度深く息をつき、静かに椅子の背にもたれた。表情は冷ややかで、瞳は鋭く光り、声は低く、凍りつくような冷たさを帯びていた。

「だが、方針は方針だ」

 その言葉に室内の空気がさらに重く沈む。ソフィーの肩に一瞬力が入る。

「君は……医者でもあり、軍人でもある。しかし、軍の方針に従えないのであれば——」

 言葉を切り、エリオットは静かに、しかし恐ろしく鋭い視線をソフィーに向けた。

「君の首も……処刑人に引き渡そうか?」

 その瞬間、室内の空気は凍りつく。声の冷たさ、意思の強さ、そして容赦のなさ。すべてが、エリオットの冷徹さを際立たせていた。エリオットの目はまるで軍人としての理性と、法の絶対性を体現する冷たい氷のようであった。彼の冷徹な言葉が室内に突き刺さるように響き渡った瞬間、ソフィーは一瞬、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じ、思わず足を一歩引きかけた。しかしすぐに息を整え、毅然とした声で言った。

「あなたは……やはり、鬼です」

 ソフィーの声には、怒りと恐怖、そして絶望を抑えた強さが滲んでいた。

 室内の空気はさらに張り詰め、ルソーもイザベルも思わず言葉を失った。アルフォンスに至っては顔面蒼白だ。

 エリオットはじっとソフィーを見つめ、冷たい微笑を浮かべることもなく静かに頷いた。その瞬間、二人の間には言葉を超えた緊張が横たわり、戦場以上に重い空気が流れた。ソフィーの瞳は冷徹なエリオットを前にしても揺るがなかった。

「君は、どこまでも恐れを知らないようだ」

 エリオットの声には厳格さだけでなく、戦場で鍛えられた圧倒的な権威が滲んでいた。

「いいだろう。そんな君に処刑なんて言葉は生ぬるい」

 エリオットの言葉が室内の空気をさらに張り詰めさせる。

「君もフェルナンドの付き添いとしてトゥーロンに行くがよい。そして、彼の死に様を目に焼き付けておくんだな」

 ソフィーは一瞬、胸の奥が重く締め付けられるのを感じた。しかし、声を震わせることなく、静かに答えた。

「……わかりました」

 そして、すぐに次の言葉を続ける。

「出発はいつですか?」

 エリオットは短く答えた。

「今日の昼にでも向かうだろう」

 言葉はそれだけだった。沈黙のままソフィーは一礼し、重い心を抱えつつも毅然とした足取りで執務室の扉へと向かう。扉を押し開けた瞬間、冷たい廊下の空気が彼女を迎えた。一歩、一歩、歩みを進めるたび、これから待つ運命の重さが体にのしかかる。

 執務室に残ったエリオットの背中は淡々としていて、まるで何も変わらぬ世界の中心に立つ巨人のようだった。

 扉が閉まる音とともに、ソフィーは静かに息を吐いた。

 執務室の片隅でルソーとイザベル、そしてアルフォンスがソフィーの去った後の空気を見つめていた。

 アルフォンスが小さく肩をすくめる。

「やはり、一度でも海賊と共にすると、ああなってしまうんですかね……」

 彼の声には呆然としたような、どこか諦めにも似た響きが混ざっていた。

 イザベルは眉をひそめて答える。

「ソフィーの目は本気よ。あの子、何がなんでもついていく気みたい」

 彼女の言葉の裏に戦場を知る者ならではの冷静さと、若い士官に対するある種の尊敬が感じられた。

 ルソーは腕を組み、天井を仰ぐように視線を泳がせながら呟いた。

「なあ、エリオット。鬼ってなんだ?」

 エリオットは静かに目を閉じ、やや遠い視線で答えた。

「鬼。それは東洋の伝承に伝わる、感情を捨て、理に従って冷徹に行動する存在だ。善悪や躊躇に縛られず、己の目的のために恐怖も苦痛も乗り越える者。人間ではなく、ある意味で悪魔に近いもの、と考えていい」

 エリオットの言葉には戦場での冷徹な決断を重ねた者の重みが滲んでいた。

 ルソーはすぐさま反論のように口を開く。

「エリオット、お前だって昔は海賊に肩入れしてただろう?」

 エリオットの瞳が鋭く光る。声に怒気が混じった。

「二度とゼフィールの話を持ち出すな!」

 突然の一喝にルソーもイザベルもアルフォンスも思わず沈黙した。執務室にはわずかに重苦しい空気が漂う。だがルソーは歯を食いしばり、鋭い眼差しでエリオットを見据えた。

「エリオット、あの娘は偽善者じゃない。ありゃ、自分の信念をちゃんと持ってる眼だ。海賊そのものを想ってるわけじゃない、信じた仲間のために動いてる。お前だって仲間を想う気持ちはわかるだろ? 冷酷に接するんじゃなくて、もっと彼女の気持ちに寄り添うことはできないのか? ……変わったな、エリオット」

 ルソーの言葉は静かに熱を帯びていた。彼の声の端々に長年の戦場経験と仲間を想う思いが滲んでいる。

 エリオットは一瞬、硬直したように黙り込む。その瞳の奥で長年封じ込めてきた感情が微かに揺れるのが見えた。冷徹さの裏に潜む、かつての自分自身と仲間への思い。ルソーの言葉はその僅かな隙間に触れたのだ。イザベルとアルフォンスも、ルソーの問いかけに黙って耳を傾ける。

 エリオットはゆっくりと胸に手を当て、視線を床に落とした。

「私は、フランス海軍大元帥。フランスの海を守り統べる者だ」

 エリオットの声にはいつもの冷徹さとは異なる、微かな震えが混じっていた。

「……あの男をこの手で断罪したのも、祖国を守るためだ……そう、私は祖国のために、親友を……」

 言葉が途切れた瞬間、エリオットの体がガタリと前に傾く。額には汗が滲み、顔色は急速に赤く染まった。熱に浮かされた体はもう言葉を紡ぐ力すら残していない。

 ルソーが咄嗟に手を伸ばして支える。

「エリオット!」

 イザベルも駆け寄り、慌てて脈を確認しながら顔を覗き込む。

 アルフォンスはその光景を見て、叫ぶように声を上げた。

「誰か!今すぐ医者を呼べ!」

 部屋中が緊迫に包まれ、三人の目には一刻を争う緊張と焦りが映し出される。

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