第九章⑥ ソフィーとマクシム
ソフィーはブレスト城を後にした。
門が重く閉まると同時に、彼女は振り返らず歩いていく。港の方向、マクシミリアン・ブーケ隊の宿舎を目指して歩く足取りはいつになく力強かった。彼女の顔には怒りが刻まれ、悔しさが渦巻いている。街の喧騒も、遠くで響く波の音も、彼女の感情の前ではかき消されるかのようだった。胸の奥で渦巻くのは、フェルナンドの運命に対する憤りと理不尽な決定に抗えないもどかしさ。小さく息を吐きながら、ソフィーは自分自身に言い聞かせるように歩き続けた。
「……必ず、最期まであの人を守る」
港の風が顔を撫で、塩の匂いが鼻をくすぐる。だが、その冷たさすら彼女の決意を揺るがせることはなかった。宿舎までの道のりは沈黙と怒りに満ちた足音だけが響いていた。
廊下を足音高く進むソフィー。ズカズカとしたその歩みは、宿舎の静寂を切り裂くようだ。
スザンヌ、リゼーヌ、ジョルジュは思わず立ち止まり、恐怖と驚きで目を見開く。
「……ソフィー、ちょっと……」
ジョルジュが声を振り絞るも、ソフィーは彼の脇を通り抜けていく。誰も声を発せず、ただ道を開けるしかなかった。
彼女が向かう先はマクシムの執務室。手には一枚の紙。紙の端は少し折れ曲がり、彼女の緊張が伝わってくるようだった。扉を押し開けると室内ではダヴィットとマクシムが報告書に追われ、書面を前に眉を寄せていた。
「やあ、ソフィー。ずいぶん遅かったですね」
マクシムの声は穏やかだが、どこか訝しげな響きが混じる。
ソフィーはためらわず机の上に紙をバンと置いた。その音にダヴィットは思わず目を見開き、マクシムも書面を慌てて手に取り、紙をじっと見つめる。
「……外出届?」
マクシムの声が引きつった。
「しかもこの後すぐ……」
ダヴィットが小さく呟く。
マクシムは書面から顔を上げ、ソフィーの目をじっと見た。
「……何があったんです?」
ソフィーは一歩前に出て、毅然と告げる。
「フェルナンドがトゥーロンに送られます。私は、彼の最期まで付き添うために旅立ちます」
その言葉には怒りと決意が滲み、部屋の空気を重くした。
マクシムはしばし沈黙し、ダヴィットも息を飲む。
誰もがソフィーの覚悟の深さを感じ取り、言葉を失った。
マクシムはしばらくソフィーの目を見つめ、眉をひそめたまま言葉を探していた。
「……そんな、危険なことを、どうして自分から……」
彼の言葉は途切れ途切れで、いつもの冷静さは影を潜めていた。胸の奥で彼女の覚悟に動揺を覚えていることを否定できないようだった。
ダヴィットは机の端に手を置き、浅く息をついた。
「……ソフィー、無茶を……いや、でもその気持ちはわかる。わかるが……」
ダヴィットは目を細め、唇を噛みしめながらどう反応していいか迷っている様子だった。
ソフィーは机の上の外出届を握りしめ、怒りを滾らせながら声を上げる。
「私は医者です! なのに、総司令部は彼を処刑させるためだけに、私に毒の治療を任せたのです。いくら正義の証明に利用すると言っても、こんなの……私は絶対に許せません!」
ソフィーの声の震えの中に憤りと悔しさ、揺るぎない決意が混ざっていた。
マクシムの目はその熱を受け止め、しばらく黙って見つめている。やがて彼は静かな口調で答えた。
「……ならば僕も行こう。君だけであの地獄に赴かせるわけにはいかない。フェルナンドの傍に、僕もついていく」
ダヴィットも息を呑み、机の書類の山に目をやったままその決意を見守る。
マクシムの言葉にソフィーは一瞬だけ驚きの色を見せたが、わずかに肩をゆるめ心の中で覚悟を固めるように小さく頷いた。ダヴィットはまだしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと頷いて深いため息をつく。
「……わかった。君たちの意思は固いようだ。ならば……せめて無事に戻ることだけは、約束してほしい」
彼の声には上司や仲間としての心配だけでなく、秘めた思いを抑え込むような複雑さが含まれていた。
「……無理はするなよ、ソフィー。命あってのことだ」
ダヴィットはソフィーとマクシムの決意に敬意を示すように静かに背筋を伸ばす。
「これは先輩としてのアドバイスだ。せめて、道中は十分に気をつけろ。事故や奇襲に遭わないよう、準備は怠るな」
港は昼の光に包まれ、波は淡く揺れながら船影を映していた。遠くでカモメが鳴き、船員たちが慌ただしく荷を運ぶ音が響く。ソフィーとマクシムは足早に岸壁を進んだ。
ソフィーは外出届を握った手を軽く震わせながら、視線を船の甲板に向ける。
マクシムは彼女の横に立ち、静かに声をかけた。
「落ち着いてください。まずは船に乗り込むまで。波風は冷たいが、慌てることはないです」
ソフィーは一瞬だけ彼の目を見つめ、強く頷く。
「わかっています、隊長」
船の甲板では数人の海軍士官が乗船準備をしていた。彼らの視線が二人に向けられるが、マクシムは一歩前に出て礼を交わす。
「よろしく頼む」
ソフィーも短く会釈する。
「お世話になります」
二人は船尾に向かって歩き、乗船用の梯子を上る。甲板に足を踏み入れた瞬間、冷たい海風が二人の顔を打ち、ソフィーの髪を軽く揺らす。マクシムは一呼吸置き、ソフィーに声をかけた。
「行こう。ここから先は、己の判断で動くことになる」
ソフィーは手を握りしめ、目を鋭くして甲板を見据える。
「ええ、最後まで彼に付き添います」
甲板の上で二人はしばらく無言で海を見渡す。遠くに見えるブレスト港の街並みは既に小さくなりつつあった。港の喧騒も、昼の光も今はすべて二人の決意の前には背景に過ぎない。
マクシムが静かに呟く。
「これからの道は楽ではない。だが、必ず戻る。約束だ」
ソフィーは小さく息をつき、頷いた。
「約束します」
船員が帆を上げ、ロープが軋む音が甲板に響く。
二人の影が長く伸び、朝日を背に受けながら、トゥーロンへと向かう船はゆっくりと港を離れ始めた。
船の牢は狭く潮風の匂いと木の軋む音が充満していた。鉄格子越しに差し込む穏やかな光は細く、三人の影を床に落とす。
フェルナンドは鎖に繋がれた手をゆらりと揺らしながら薄く笑った。
「……ここがボクの寝床になるのか。眺めは悪くないな」
フェルナンドが皮肉交じりに呟き、ソフィーは肩を揺らして息を整えながら鋭い眼差しを向けた。
「そんなこと言わないで。まだ何も…終わっちゃいないんだから」
ソフィーは小さく彼の手を握り、鉄の冷たさを伝える。手を握られたフェルナンドは一瞬驚いた顔をするが、すぐに半笑いで答えた。
「君も、ボクがここでじっとしてるのを黙って見てられないんだね」
「当たり前でしょ! 私は医者だもん。放っておけるわけないじゃん」
ソフィーの感情が混ざった声にフェルナンドは少しだけ表情を崩す。
マクシムは二人のやり取りを静かに見守りながら口を開く。
「フェルナンド。今は冷静に状況を見極めるしかない」
彼の声はいつも通り穏やかだが、目の奥には鋭い決意が光る。
「命令には逆らえないんだろ?」
フェルナンドの瞳がマクシムを捉える。
「従うべき命令は従う。しかし、君を見捨てるつもりはない」
マクシムは視線を逸らさず、静かに答えた。その声に含まれる揺るがぬ決意が牢内の空気をわずかに変えた。
ソフィーは鎖越しにフェルナンドを見つめ、顔を近づけて言った。
「私もついていく。誰の命令だろうと関係ない。医者として、あなたを守る」
フェルナンドの顔に、一瞬、驚きと安堵が交錯する。
「……君たちは、なかなか無茶をするな」
フェルナンドは微かに笑いながらも、鎖を軽く引き寄せて自分の足元を確かめる。その声にはわずかな覚悟と信頼が滲んでいた。
牢の隅では潮の香りと木の軋む音が二人の心拍と重なり、緊張の中に小さな連帯感を生み出していた。
牢内の狭さに慣れ始めた頃、フェルナンドは背もたれにもたれ、手首の鎖を無意識にいじりながら言った。
「それにしても……この揺れ、ちょっと心地いいかもな」
ソフィーは眉をひそめ、窓の外を見つめる。波間に光が反射し、青く煌めいている。
「心地いい……じゃないでしょ。気を抜くと転落や怪我だってあり得るのよ」
フェルナンドの顔に一瞬の苦笑が浮かぶ。
「なるほど、君は本当に用心深いな」
マクシムは二人の間に座り、短く息をつく。
「無駄に緊張するなとは言わない。しかし、感情に流されすぎるな。冷静さを保つことが、生き延びる第一歩です」
フェルナンドは少し身を乗り出して、格子越しにマクシムを見つめる。
「冷静、か……君も結構心配症だな、マクシム」
マクシムは視線をそらさず、淡々と答える。
「それは君を見ていれば当然だろう。僕がついているとはいえ、危険は常に存在する」
ソフィーは鉄格子に手をかけ、鎖をいじるフェルナンドを見つめる。
「ねぇ、フェルナンド……本当に覚悟はできてるの?」
フェルナンドは少し黙ってから肩をすくめた。
「覚悟って……なるようにしかならないさ。君がいるなら、それだけで心強い」
その言葉にソフィーは胸が熱くなる。握った手の力を少しだけ緩めた。やがて沈黙が訪れる。波の音と船体の軋む音だけが牢内に響く。ソフィーは視線を床に落とし、心の中で自分に問いかけた。
「本当に彼を見届けられるか……?」
マクシムはそんな彼女の迷いを見抜くように静かに言った。
「恐れることは自然なことです。けど、恐れを理由に行動を止めてはいけない。君は選んだのでしょう?」
ソフィーは微かに頷き、握った外出届の紙を握り直す。
フェルナンドはふと笑みを浮かべながら空を仰いだ。
「どんな結末になるかはわからない。けど、少なくともボクには二人がいる」
ソフィーはその言葉を聞き、胸の奥で覚悟を固めた。
「絶対に、あなたを独りで逝かせない」
マクシムもまた鋭い目で波間を見つめつつ心の中で同じ誓いを立てる。
そして船はトゥーロンへ向けて進んでいく。
牢内の狭さと波の揺れが三人を包む中で、沈黙と緊張、そして少しの連帯感が交錯していた。
これから待ち受ける困難を、三人はまだ完全には理解していなかった。だが、互いの存在が確かな支えであることだけは痛いほど感じていた。




