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第一章② ソフィーとシャルル 続き

「……私、少し驚いています」

 ソフィーが声に出してみると、胸の奥に溜まっていた重さが少しずつ解けていくのが分かった。

 言葉にできなかった思いが静かに言葉として形を持ち始める。

 彼女は深く息を吸い、揺るぎない瞳でシャルルを見つめた。

「シャルルさん……本当に、ありがとうございます。あの時のことを、心の奥底から打ち明けてくれて」

 胸の奥に温かいものが広がる。涙がこぼれそうになるのを堪えながら、ソフィーは言葉を続けた。

「……覚えていますか? あなたが言った言葉、『自分なりの真実を探しなさい』と。あの時は少し理解できなかったけれど、今思えば私はその言葉があったから、ここに戻ろうと決意できたんです。真実を探すために、もう一度、自分の足で歩くために……」

 言葉に乗って溢れ出す決意と感謝。胸の奥に燻っていた不安や恐れは少しずつ温かい光に変わり始めた。シャルルは静かにその声を受け止めて彼女を見つめた。

「だから、シャルルさん。あなたの口からあの時の話が聞けたことが、こんなにも嬉しいなんて……自分でも驚いています」

 ソフィーの言葉にシャルルの唇がわずかに弧を描く。

 かつての複雑な誤解や恐怖が、こうして互いの信頼と理解に変わる瞬間、桟橋の冷たい風さえも二人の間に漂う静かな熱を妨げることはできなかった。

 シャルルは一瞬言葉に詰まり、やがて重い声で呟いた。

「……つまり、ぼくをまだ信じてくれてるってことなのか? 君を利用し、傷つけ、突き放したぼくを……」

 ソフィーは迷わず優しい声で答えた。

「はい。過ぎてしまったことは変えられない。でも、私は受け止めます。どんなに苦しくても、逃げずに受け止める覚悟があります」

 彼女は震える声をぎゅっと抑えながら続けた。

「でもそれ以上に、あなたが私にくれた歴史の話やあの時一緒に語り合った時間は、絶対に否定したくない。あの瞬間の記憶は私の宝物です。決して消えたりしません」

 ソフィーの瞳は涙で光り、口元にほんのわずかな笑みが浮かぶ。

「最悪な別れ方をしたあなたと、こうしてまた話せること……今、それが一番の救いなんです」

 シャルルは視線を落とし、震える声で小さく呟いた。

「ありがとう、ソフィー……戻ってきてくれて、ぼくと向き合ってくれて…」

 言葉の端々に詰まる感情が滲む。彼の瞳にじわりと光が宿り、やがて静かに涙がこぼれ落ちた。

 それを見たソフィーは一瞬戸惑い、驚きの色を浮かべたが、すぐに静かに彼の肩に手を回し、そっと寄り添った。

「大丈夫ですよ、シャルルさん。泣いても、私はここにいますから」

 シャルルは涙を拭おうともせず、視線を地面に落としたまま、かすかに震える声で続ける。

「……ああ、それでもグウェンの言葉が、あの言葉がずっと、胸に突き刺さっているんだ」

 ソフィーは肩に添えた手を少し握り、静かに言った。

「でも、シャルルさん……その重さを一人で背負わなくてもいいんです。私がここにいます。あなたが私のために何をしてくれたか、ちゃんとわかっていますから」

 シャルルはゆっくりと顔を上げ、隼のように鋭く、でもどこか弱々しい目でソフィーを見つめた。

 彼女の温もりが、凍りついていたシャルルの心を少しずつ解かしていく。

 過去の過ちも、恐れも、今この瞬間には重くのしかかることなく、ただ静かに消えていくようだった。 


 シャルルはしばらく落ち着いた後、眉をしかめて頭を押さえた。

「あー、なんだか頭が痛いな」

 ソフィーは心配そうに覗き込む。

「え、じゃあ宿舎に戻って休みましょうか?」

 しかしシャルルは首を振った。

「いや、大丈夫だ。体調不良ってわけじゃない…たぶん、気のせいだ」

 彼はふっと微笑み、ソフィーをじっと見つめた。

「それにしても、君は百合の花みたいだね」

 ソフィーは少し驚き、首を傾げる。

「百合の花ですか? どんな色に見えます? 今の私はこの紺色にしか見えませんけど」

 そう言って、彼女は軍医専用に支給された紺のコートの袖を軽くつまんで見せる。

 シャルルは優しい声で答えた。

「いやいや、生き様のことだよ。白だ。白い百合」

 ソフィーは少しはにかみ、声を震わせる。

「白い百合ですって……? 恐れ多いですよ。白い百合って聖母マリアさまの象徴じゃないですか。私は血塗れの医者です。雲泥の差ですよ」

 シャルルは静かに目を細め、優しい調子で語りかける。

「白い百合ってね、純潔や聖性だけじゃない。潔さと強さの象徴でもあるんだ。傷つきながらも凛として立つ、その花の姿みたいに。君は血塗れの医者かもしれないけど、だからこそ、その強さがあるんだよ」

 ソフィーは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じたが、少し俯き気味に呟く。

「私って、強いんでしょうか……? 周りに振り回されてばかりで、自分に強くあろうと思えていないんです」

 シャルルは柔らかな眼差しで答える。

「君はね、誰かに尽くすときに一番力を発揮するタイプだ。癒すこと、励ますこと。言い換えれば、治療と対話。まさにそれが君の武器なんだよ」

 ソフィーは小さく笑みを浮かべた。

「じゃあ、医者って私にとって天職なんでしょうかね? やっぱり軍医家系に生まれたおかげかも」

 シャルルは肩をすくめ、微笑む。

「まあね。でも、それ以上に強くなったのは環境のおかげだと思う。置かれた場所が違えば、きっと違う道を歩んでいたかもしれない」

 二人は言葉を交わしながら、風に吹かれた海の香りに包まれていた。

 そのうちソフィーはふと思い出したように鞄を探り、小さな包みを取り出した。

「これ……ずっと渡したいと思っていたんです」

 差し出された包みを開くと、そこには濃紺の細いリボンが収められていた。

 結び目の中央には、爆風で飛ばされてひしゃげた片眼鏡のフレームが小さく曲げ直されて組み込まれており、その端には丸く削られたレンズの破片が小さな飾りのように光っている。

「……これは」

 シャルルは思わず指先で撫で、目を細めた。

「前に飛ばされてしまった片眼鏡を、リゼーヌと一緒に加工したんです。フレームを結び目の飾りにして、レンズは小さく削って吊るしました。捨てるのはもったいないと思って……それに、肩までの髪がいつも邪魔そうだったので、少しでもお役に立てればと思って」

 ソフィーは少し照れくさそうに笑った。

 シャルルはしばし言葉を失い、やがてふっと苦笑を洩らした。

「……なるほどね。ぼくの過去の残骸を、こうして新しい形にしてくれるなんて。悪くない。いや、素晴らしいよ」

 彼は包みからリボンを取り出すと慣れない手つきで髪をかき上げ、試しに結んでみせた。ひしゃげた金属と澄んだガラスの欠片が揺れ、潮風を受けて小さく光る。

「どう? 似合ってるかな」

「ええ、とても」

 ソフィーの目が輝き、自然と笑みがこぼれた。

 シャルルは軽く肩をすくめ、わざと大げさにため息をついた。

「じゃあ、医務室に戻ったら……この結び方、君にちゃんと教えてもらわないとな。髪を束ねるなんて慣れてないからね」

 それから少し真剣な声で、彼は付け加えた。

「……ありがとう、ソフィー。こんなものを贈ってくれるなんて、本当に嬉しい」

 ソフィーはふとシャルルの横顔を見上げた。

「……あの、ちょっとだけいいですか」

「ん?」

「シャルルさんの髪。一つ結びはそのままに、キッチリ結ぶよりは緩く結んで、髪は肩に流した方がシャルルさんに似合うと思います」

 そう言って、彼女は自らの指で彼の後ろ髪をまとめ、ひとつに束ねて彼の肩に流れるよう結わえた。潮風に揺れていた髪が整い、すっきりと首筋があらわになる。

「これなら邪魔になりません。……でも」

 ソフィーは少し首を傾げて、いたずらっぽく笑った。

「せっかくですし、もうひと工夫してみませんか? 分け目を少しずらして、左右非対称にすると遊び心が出て素敵だと思います」

「非対称?」

 シャルルは怪訝そうに眉を上げた。

「はい。左右で少しだけ印象が変わって見えるんです。まるで……物語の中の人物みたいに」

 彼女が示すとおりに分け目を整え直すと、オレンジの髪が片方に軽く流れ、もう片方はきりりとまとめられた。

 ソフィーはぱっと笑顔を浮かべて言った。

「ほら、ちょっと大人っぽくて、でも個性的。似合ってます」

 シャルルは思わず苦笑し、肩をすくめた。

「なるほど……君にそう言われるなら、毎日この髪留めを使ってみようかな」

 照れ隠しのような口調だったが、その横顔には誇らしさが滲んでいた。ソフィーも自然と笑みを返した。

 シャルルはリボンをそっと指で撫でながら、ひととき視線を宙に漂わせた。しかし、すぐに表情を引き締め、声の調子を変える。

「ところで、ソフィー。マクシムの秘密はどこまで知れた?」

 ソフィーは一瞬身を強ばらせたが、真剣なまなざしで答えた。

「マクシム隊長と、あなたたちが関わったとされる事件は調べました。ベルナルド・シルバのことも知っています。彼の日記があるんです。あの言葉は、胸を貫きました。あの本は私しか読んでいません」

 しばらく無言が続いた後、シャルルは低く呟いた。

「そうか……そこまで来たか」

 そして穏やかに、しかし力強く言葉を続けた。

「ソフィー、君が求める真実が何か、ぼくにはわからない。でも確かなことは、もう手の届くところに来ているということだ。だが、君が今すぐ何かを追い求める必要はない。マクシム自身が手を差し出すまで、辛抱強く待つんだ」

 ソフィーは感謝の気持ちを込めて微笑んだ。

「シャルルさん、ありがとうございます」

 シャルルは軽く肩をすくめて言った。

「礼を言うのは、まだ早いさ」

 潮風が心地よく頬を撫で、遠くで船がゆったりと揺れている。

「さて、そろそろ戻ろうか。メリッサのお昼ご飯ができているかもしれない」

 二人は並んで桟橋の上を歩き出した。

 話題は日常のささやかなことへと移り、ソフィーとシャルルの穏やかな時間はゆっくりと続いていった。

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