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第一章① ソフィーとシャルル

 霧深き朝、ブレスト全体を包む濃厚な霧はまるで私たちの先行きを暗示しているかのようだった。

 視界を奪われたその静寂の中で突如として砲撃の火光が霧を切り裂き、城を襲った。

 混乱の中で、私たちは作戦通りに砲撃を続けるしかなかった。

 砲煙と爆音が空気を震わせ、仲間たちの叫びや瓦礫の崩れる音が重なり合う。私の心は揺れた。

 敵は霧の中から姿を現さず、まるで幽霊のようだった。だが、破片が漂う海面が彼らの足跡を物語っていた。

 重傷者が続出し、シャルルさんも脳震盪を起こして倒れた。

 私は彼を医務室に運び、できる限りの手当てを施した。

 あの時の爆撃は、ただの序章に過ぎないと感じた。

 城の屋上ではエリオット大元帥たちが指揮を執る。

 増援の要請が進む一方で、私たちは思った。本当にこのまま防衛に徹していいのかと。

 戦いはまだ始まったばかりであり、霧の彼方にはさらなる嵐が待ち受けているのだろう。


 ソフィーは日記の最後の一行を書き終えると、ペンを置いてゆっくりとページを閉じた。

 その瞳には、先の激しい戦闘とこれから訪れるであろう試練の重さが映っている。

 隣のベッドに目をやると、シャルルが静かに本のページをめくっていた。

 爆風で吹き飛ばされた片眼鏡はもうなく、素顔の彼はいつもよりもどこか儚げに見える。

 二人が身を寄せるのは、ブレスト港近くの宿舎だった。

 ブレスト城の医務室は、別の司令部から派遣された軍医たちのために明け渡し、彼らはここで次の戦いに備えて静かな時を過ごしているのだった。窓の外には、まだ戦いの余韻が残る港町の景色が広がっている。その静寂の中で彼らはそれぞれの思いを胸に、新たな一日を迎えようとしていた。

 シャルルは本から目を離さずに、軽く口角を上げながら言った。

「私の顔を見て、何か不思議なことでもあるかい?」

 ソフィーは彼の視線を追いながら少し微笑んで答える。

「いえ。ただ、何を読んでいるのかと思って」

 シャルルの手にあるのは表紙に「新大陸を手放した数々の説」と書かれた、どこかオカルトが混じった歴史書だった。

 シャルルはページをめくりながら、薄く笑みを浮かべて言った。

「これかい? タイトルの通りだ。大昔、人類は未踏の地を発見し、偉大な功績を残そうとしたはずなのに、なぜ今も政府はそこに手を出さずにいるのか。要点をまとめればそんなところだ。歴史書と銘打ってはいるが、実態は根拠薄弱な夢物語に過ぎないよ」

 ソフィーはふと遠い記憶を辿るように目を細めた。

「未踏の地……そういえば、あの五人組の海賊と共に最果ての西の地へ行きました。トルチュ島という海賊の楽園みたいな島があるんです」

 シャルルは軽く本のページを閉じて興味深げに問いかける。

「なら、君は会ったことがあるのかい? バッカニアの一族に」

 ソフィーは一瞬考え、そして答えた。

「ええ、そういえば思い出しました。まさにバッカニアの子孫と対面したんです。彼らは海賊たちの間で、管理人や長老と呼ばれていました」

 シャルルは冗談めかして肩をすくめた。

「興味深いね。私も海軍にならなければ、もっと色んなところへ行けただろうに」

 その冗談の後、シャルルは急に真剣な表情でソフィーを見つめた。

「話したいことがある。ここではあれだから、場所を移そうか。外出してもいいかい、軍医さん?」

 ソフィーは微笑みながら頷き、シャルルの腕をしっかり支えた。

「シャルルさんが良ければ大丈夫ですよ。私が支えます」


 二人は人影のないブレスト港の桟橋に腰を下ろし、潮風に吹かれながらしばし静かな時間を過ごしていた。波の音が静かに耳を撫で、冬の冷たい空気が今は心地よく身体を包み込む。

 ソフィーはふと隣に座るシャルルの横顔に目をやる。彼の表情は何か言いたげでありながら、その言葉をどう切り出せばいいか迷っているようにも見えた。

 その沈黙の中、ソフィーの脳裏にはあの時、霧の中で運ばれてきた彼がぼんやりと口にした言葉が繰り返し響いていた。

「君に謝らなければならない」

 その言葉は、あの日の何か。

 おそらく、忘れがたいあの出来事への謝罪だとソフィーは感じていた。

「シャルルさん」

 一声かけてみると彼の薄味の顔で切れ長な隼のような目が穏やかにソフィーを捉えた。

 片眼鏡がないだけでもずいぶんと印象が変わるものだとソフィーは思う。

 今の彼はどこか開放的で柔らかく見えた。

「以前、シャルルさんが歴史の話をしてくれたの、覚えてますか?」

「ああ、ゼフィランサスを例に持ち出した、あの時かな。それが何か?」

 シャルルの声はいつも通り淡々としているが、どこか期待を含んでいるようだった。

「教えられたことをただ鵜呑みにするのは非常に危うい、と。でも、私はあの時、シャルルさんの話を全部聞こうとしなかった。むしろ拒絶すらしていたんです」

 ソフィーの声には自分を見つめ直す厳しさと覚悟が滲んでいた。

「今ならはっきりわかります。あの時の私は、正義感を振りかざすばかりで、片方の立場すら考えなかった。だからシャルルさんを恐れさせてしまったのだと」

 シャルルはふっと笑みを浮かべ、静かに頷いた。

「成長とは過去の自分を否定することでもある。君がそれを認められるなら、私は嬉しいよ」

 ソフィーはその言葉に小さく微笑み返した。

「意外でした。シャルルさんがずいぶん前にした会話を覚えていてくださるなんて」

 隼の目を細めてシャルルは軽く笑う。

「印象的な日だったからね。大海賊フランソワの死、仲間の裏切り、イタリア語、そして難しい議題で語り合える相手がいたこともあって、あの日は感情の起伏が激しかったよ」

 ソフィーは頷きながら続ける。

「私はあの話、好きですよ。『オレンジに染めた理由』、あれはシャルルさん自身の歴史の一部ですから」

 シャルルはくすりと笑う。

「ああ、君があのどうでもいい話を、ぼくの歴史だと捉えてくれるとはね」

 ソフィーは真っ直ぐにシャルルの髪に視線を向ける。

「どうでもよくないです。そのどうでもいいお話の中に、シャルルさんのトレードマークを決定づけた歴史的瞬間があるんですから」

 彼女の視線は今も鮮やかなオレンジに染まったシャルルの髪へと向けられていた。

 その色は太陽の光を浴びて輝く柑橘類の果皮のように、鮮烈でありながらどこか爽やかで軽快な印象を与える。周囲の景色が少し霞んでも、彼の髪だけはまるで水彩画のように目に鮮やかに映った。

 風がそっと髪を揺らし、まるで朝露に濡れた果実のような瑞々しさを感じさせる。

 奇抜でありながらどこか生命力を感じさせるその色は、シャルルの明るさや芯の強さの象徴のようだった。その鮮やかなオレンジは、彼の存在に軽やかさと独特の魅力を添えている。

 ソフィーはなお微笑みを崩さず続けた。

「シャルルさん、あなたのオレンジの髪は、実はたくさんの人に元気を届けているんですよ」

 その言葉にシャルルの表情が一瞬和らぐ。しかし、すぐに眉をひそめ、顔を歪めた。

「ソフィー、君を利用してしまって、本当に申し訳ない」

 声が震え、普段の冷静さはどこか遠くに消えていた。胸の奥で、あの嵐の夜の光景が鮮やかに甦る。

 雨に濡れた甲板、黒髪の少年、傷だらけの海賊のそばに立つ、ソフィーの姿。

 自分の嘘を聞いて青ざめた表情で立ち尽くす彼女を前にしても、あの時の自分は理性を失い、恐怖に押し潰され、それでもなお彼女を突き放そうとしたのだ。

「君は何も悪くない。君が信じている正義は紛れもなく真っ当なものだ。だが、ぼくは愚かにも、その正義を拒み、君自身をも遠ざけた。何度も何度も、心の中で君を突き放そうとした。怖かったんだ。君の強さに、まっすぐな信念に、ついていけない自分が情けなくて」

 声が低く、時に震え、時に苦しげに、まるで自分自身の罪を一つひとつ吐き出すかのようだった。

「グウェンにハッキリ言われたよ。『結果論では片付けられない、彼女の命を背負った罪を貴様も共に背負え』と。その言葉を聞いた瞬間、初めて自分の非道さに気づいたんだ。計算して人を動かすことはできても、計算できない純粋さには敵わない。君を傷つけ、巻き込み。それが、どれほど酷いことだったか」

 ソフィーは胸が締め付けられるのを感じた。

 過去の自分が信じた正義と、シャルルの恐怖と計算の交錯。

 二人の間に生まれたすれ違いの重みを今、改めて理解する。

「だから、今ここで伝えたい。君の信じるものは尊く、そしてぼくはその強さに怯えていた。君を理解できずに突き放した愚かさを、どうか許してほしい」

 シャルルの隼のような瞳が遠く過去の自分と現在の自分を交錯させる。瞳の奥には、重い責任感と純粋な謝罪の意志が滲んでいた。

 ソフィーは息を整え、胸に熱いものを感じた。怒りでも悲しみでもなく、ただ深く胸を打たれる理解と二人の間に生まれた絆の重さ。

 シャルルは苦笑とともに小さく肩をすくめた。

「……こんな告白をしても、君に許しを請う資格なんて、ぼくにはないのに……一体、何を言ってるんだろうな」

 自分自身に対して呟くその声に、深い後悔と懺悔が滲んでいた。

 シャルルの言葉が止み、桟橋に冷たい風が吹き抜ける。

 沈黙の中でソフィーの胸は高鳴った。

 怒りや悲しみではなく、深く、静かな感情。

 理解と安心、そしてほのかな尊敬が混ざり合う不思議な感覚だった。

 過去に突き放された記憶と、今ここで聞いた謝罪が交錯する。

 自分が恐れていた孤独や拒絶はもう存在しない。

 シャルルは恐怖に揺れながらも、自分を守ろうとした。

 そして何よりもその気持ちを今、正直に告げてくれた。

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