第八章⑥ マクシムとルキフェル
ルキフェルだけは静かにマクシムを見据える。眉ひとつ動かさず、表情に感情をあまり露わにしないものの、その瞳は鋭く光り、状況を冷徹に見極めていた。
「さっき、こう言ったな。親友を討った真意を知りたいと」
マクシムはゆっくりと頷く。
「ええ、言いましたね」
ルキフェルは剣を剣帯に収める前に、付着した血を袖で滑らかに拭った。その瞳は冷徹に、明晰にマクシムを射抜く。
「マクシミリアン。お前はその島の仲間たちに突き動かされてここへ来たのかもしれない。だが、海軍に入ったのはお前自身の意志でもあるわけだ」
マクシムは力強く答えた。
「そういうことです。だから、僕は死ぬわけにはいかない。ましてや、自分から身を投げるなんて愚かなことはしない!」
ルキフェルはわずかに眉を上げ、冷ややかに笑った。
「俺はその話、半分も信じていない。よくできた物語だ、と感心する」
彼は剣帯に剣を収めると、四人の仲間に目を向け号令をかける。
「撤収だ。俺はこいつとまだ話すから、先に出航準備してろ」
「はあ!? ここにきて帰る!?」
マテオは驚きを隠せず、ジャスパーは肩をすくめてやれやれと頭をかく。
「まあ、ルキフェルにも考えがあるんだろ? 後で聞くよ」
「うーん、僕としては不満なんだけど」
ニールは不貞腐れた様子で剣を収め、コリンも険しい顔で主張する。
「ぼくも! でもルキフェルが言うならしょうがない」
四人は小型ガレオン船へと姿を消した。港の波音だけが残り、夕焼けの光が水面に反射してきらめく。
その中で、ルキフェルはマクシムに向き直った。
「……だが、その物語を最後まで見届けるのは悪くないな」
ルキフェルの鋭い目つきにマクシムは微かに笑みを浮かべる。
「僕の気持ちを、汲んでくれたのですか?」
ルキフェルは即座に首を振った。
「勘違いするな。お前がそこまで生きたいなら復讐は一旦やめにしてやる。ただし、お前が失敗して野垂れ死ぬのを見てやるからな。死ななかったら、また殺しに行く。真実を知っても、お前のことは赦せない。ベルナルドを殺したお前なんかに……奇跡が起きてたまるか」
彼の吐き捨てるような言葉を浴び、マクシムはしんと胸に息を落とす。
「僕の命なんて、ちっぽけなものです」
そこでルキフェルは冷静に、重みをもって言う。
「いいや。野望を叶えたやつの命は価値がある」
彼の言葉にマクシムはキョトンとしたが、少し微笑むように答えた。
「そうですか? どういう理屈か知りませんが。でも、あなたに殺されるのもいいなと思ってます。……念願が叶ったその日まで待っていてくれますか?」
ルキフェルはゆっくり頷く。
「ああ、そうしよう」
彼の短い言葉に、戦いの中で育まれた奇妙な信頼と死の約束の重みが含まれていた。遠くで揺れる海の音と夕焼けの光が交錯する中、しばしの沈黙が流れた。
「あなたと、こうして別れるとは思いませんでした」
マクシムの微笑にルキフェルは肩を僅かにすくめて淡々と答える。
「別れというよりも……また会うまでの、約束だな」
彼らの約束には互いに生き延び、いずれ再会の時に殺し合う覚悟も含まれていた。
その時、静かに歩み寄る足音が聞こえる。
マクシムとルキフェルの間に割って入るようにして、ジャスパーが手元に何かを抱えて立った。
「……忘れ物だよ」
ジャスパーの手には、二本の銀の片手剣が握られていた。
左右対称の刃は、マクシムが意識を失う前に装備していたもの。
リー・ウェンから贈られた特注の剣だ。重心はやや前寄り、中央部で細く絞られた刃の幅、異国的な意匠と無駄のない造形が、一目でただの剣ではないことを示していた。
「これ、あんたに渡さないといけないなーと思って。大事なものっぽいし」
ジャスパーは軽く笑い、片手で慎重に剣を差し出す。
マクシムは荒い息を整えながらもゆっくりと手を伸ばした。血に濡れた手で握り返すと、剣の冷たさが指先に伝わって戦いの余韻がさらに胸に迫る。
「ありがとうございます」
マクシムは呟き、手元の二刀をしっかりと握り直す。彼の目には決意の光が宿り、夕焼けの波止場に赤く染まる影と共に静かに次の一歩を予感させた。
その時、ルキフェルの鋭い瞳が自然と剣先に向いた。
「……それ、なんだ?」
ルキフェルの声には好奇心とわずかな挑発の響きが混じる。
マクシムは剣を見下ろし、少し微笑むように答えた。
「リー・ウェンから頂いたものです。対人用・間合い短モデル。僕専用の武器ですが……名前はまだありません」
すると、ルキフェルの瞳が一瞬鋭く光った。
「なら……俺が命名してやる」
彼の声にはただの冗談や軽口ではない、熱と覚悟が込められていた。
マクシムは一瞬視線を逸らし、次に鋭くルキフェルを見返す。夕焼けの赤が二人の影を長く波止場に伸ばし、冷たい海風が剣の鋭利さを際立たせた。
「二つで一つ、戦場でお前を守る剣……よし、『双影』だ」
ルキフェルの言葉にマクシムは息を呑み、剣を握り直す。
「シュアン・イン……ですか」
ルキフェルはさらに一歩前に出て、剣先を軽く触れさせるように指す。
「覚えておけ。この名を背負うのは、お前自身だ。戦いの中で、剣も、お前も、影として互いを支える。——そういう意味だ」
マクシムの胸に、血と汗の中で小さく熱い決意が灯る。
「……わかりました。シュアン・イン……」
夕陽の赤が名前と誓いの重みを照らしていた。
ジャスパーはさっさと立ち去り、ルキフェルも後に続こうと踵を返して軽く手を振る。
「……んじゃ、それまでせいぜい生き残れ。また会おう」
ルキフェルの背が夕陽に溶けかけたとき、マクシムが声を上げた。
「二月十八日です!」
ルキフェルの足が止まり、振り返る。影の中で片眉がわずかに動いた。
「……なんだって?」
マクシムは息を整え、真っ直ぐに言った。
「二月十八日に来てください。その日は──ゼフィランサスとエリオットの戦い、《双星の海戦》から二十年です。僕は……なんとしても、この日にエリオットへの復讐を果たします」
夕風が二人の間を抜ける中、マクシムは続けた。
「だから……できれば、あなたも来てください。必ず復讐を遂げて、僕はあなたを待ちます」
ルキフェルは小さく息を笑いに似た形で吐く。
「二月十八日、か。……あまり遠くへは行けないな」
そして、ルキエルは真正面からマクシムを見据える。
「いいだろう。その日、俺はお前の元に行く」
小型ガレオン船が帆を上げ始める。ルキフェルは剣を握ったまま船上に飛び乗り、四人と共に位置を整えた。
「待たせたな。行こう」
マテオ、ジャスパー、ニール、コリンも船上で静かにうなずき、帆に風が通る。
船は静かに波を切り、やがて遠くの水平線へと消えていく。
マクシムは剣を握り直し、深呼吸をひとつ。
「……また会う日まで、覚えておいてください。今日も負けて悔しいので」
ルキフェルは振り返らず、船の先端で風に吹かれながら答える。
「忘れるわけがない」
海軍と海賊の戦いはすでに終わり、ラド・ド・ブレストは静寂を取り戻した。
しかし、二人の間に結ばれた殺しの約束は、海の向こうの水平線に揺れる光のようにまだ確かに残っていた。
ソフィーは波止場の端に立ち、遠ざかる小型ガレオン船をじっと見つめていた。
風が髪を揺らし、帆に反射する夕日の光が船体を朱に染める。
「……行ってしまうのね」
ソフィーの声は小さく、胸の奥では言葉にならない感情が渦巻いていた。
ルキフェル。あの冷徹な男がたった今、自分の目の前で血まみれの戦いを終え、船に乗り込んで水平線の向こうへ消えていったのだ。
「……でも、彼は約束を守る人だ」
ソフィーは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
マクシムとルキフェル、二人の間に交わされた奇妙な殺しの約束を遠くからでも感じ取れる。
恐ろしくも、どこか美しい秩序のように思えた。
フェルナンドもまたソフィーの隣で目を細める。
「……まさか、あの男があそこまで動けるとはな」
フェルナンドの声には驚きと畏怖が混じっていた。
血も血を出すが、決して冷たくない。
ルキフェルの動きは、戦いそのものに鮮烈な美を宿していた。
「でも、これで本当に戦いは終わったのね」
ソフィーは小さく息を吐いて夕日の赤に染まる海を見つめる。
船はもう小さな点となり、水平線の向こうに消えた。
戦場の喧騒は消え、波の音だけが静かに響く。
「……隊長も、大丈夫かしら」
ソフィーは不安げに隣のフェルナンドに視線を向ける。
フェルナンドは穏やかにうなずく。
「あいつは大丈夫だ。生き延びるだろう」
そして彼は付け加える。
「……いや、あいつなら生きるべきだ」
ソフィーは深く息をつき、手のひらを軽く握り直す。胸に残る戦いの余韻と、遠ざかる海賊たちの姿を、静かに心に刻み込むように見送った。
波止場には夕焼けの光が長く伸び、戦いの痕跡を柔らかく照らしていた。しかし、彼女の心に残ったのは、血も光も喧騒もない。
ただ二人の男が交わした、奇妙で深い約束の影だけだった。




