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第八章② ブレスト港

 陽光の下、海風が潮の匂いを運ぶ。だが、その場の空気は昼間とは思えないほど重く沈んでいた。

 ソフィーの首に冷たく光る刃が押し当てられている。エドガーの腕は蛇のようにしなやかで、逃げ場のないほど強く彼女を拘束していた。

「……ずいぶんと悩んでるじゃねえか」

 エドガーが細めた目の奥に獲物を弄ぶ獣の光が宿る。

「らしくないな? 特に——四人の海賊は」

 ジャスパーの肩がぴくりと動く。唇を噛み、視線を逸らさない。

 マテオは低く息を吐き、右手の短剣をわずかに握り直す。

 ニールは額に汗を滲ませながらもまっすぐエドガーを睨み返す。

 コリンの両拳は震えていたが、その眼は獣のように血走っていた。

「……わかりました。決断を下しましょう」

 マクシムが低く告げると場の空気が一瞬張り詰めた。

「彼女を解放してください。僕の命と引き換えに」

 マクシムの言葉にソフィーの目が大きく見開かれる。

 四人の海賊も思わず息を呑んだ。

「なるほど、よくわかった」

 エドガーはゆっくりと笑う。

「……だがな、オレは交換条件なんて出してねぇぞ?」

 エドガーの目は凍った泥をかき混ぜるような濁った愉悦に満ちている。

「勘違いすんなよ、マクシミリアン」

 エドガーの声が低く響く。冷たい刃がソフィーの首筋に食い込む。その感触にソフィーの背筋が凍る。冷たい鉄の感触が皮膚を押し分け、微かに血の匂いが立った。

「オレがくれてたのはな……」

 エドガーの唇の端が持ち上がる。笑っているのに、獣が牙を舐める音まで聞こえそうな気配だった。

「この女に『お別れを言う時間』だよ。お前の前でな?」

 エドガーの言葉は昼の光より冷たく、石畳に落ちた影が震えたように見えた。

「身代わりだ? 命を差し出す? そんな都合のいい話、誰が頼んだよ」

 ソフィーの肩がびくりと震える。海賊四人の歯ぎしりが空気の奥で小さく軋んだ。

「大切にしてる奴ほど、壊したくなるんだよ。お前が大事だと思ってる分だけ……奪った瞬間がたまらねぇ」

 エドガーの声には熱がない。ただ淡々と相手の心の骨を一本ずつ折る音を楽しんでいる。

「ほら、続けろよ。泣きながら許しを乞うのに慣れてねぇだろ?」

 マクシムの胸の奥で何かが裂けたような痛みが走った。思わず両手を開いて二本の剣を石畳に落とし、硬い音が乾いた空気を裂く。

「頼む、彼女の命だけは助けてくれ!」

 マクシムの声は必死で焦燥が滲んでいた。

「これが他の隊員だったら、自分の命を優先してる。でも、ソフィーだけは!」

 その「他の隊員だったら」という一言にソフィーの心がわずかに揺らぐ。

 マテオ、ニール、コリン、ジャスパーも同じく眉をひそめた。

「そうか、そんなにこの女が大切か」

 エドガーの刃がソフィーの喉元をわずかに押し込み、赤い点が浮かんだ瞬間だった。

「復讐相手を殺すのも悪くねぇが……そいつから大事なものを奪うのも、なかなか趣が良い」

 エドガーの口元だけが笑っていた。瞳には一切の温度がない。

「悪いな、マクシミリアン。——いただくぜ」

 エドガーが刃をわずかに押し込み、ソフィーの喉元から赤い線がひとつ滲む。

 マクシムの胸の奥でひどく嫌な音がした。それは恐怖ではなく、自分の選択が全て間違いだったと告げる残酷な実感だった。

「違う……こんなはずじゃなかった……」

 マクシムの呼吸が一度だけ喉で止まる。ソフィーの顔がマクシムの視界の奥で揺れた。

 彼女は震えてはいるが、まだ折れていない。にもかかわらず自分は剣を落とし、祈るように命乞いをしている。

 あまつさえ——口にした。「他の隊員だったら」と。自分の声で、自分の仲間を裏切った。

 胸に焼けつくような罪悪感が広がる。

 海賊たちの横顔が一瞬ずつ脳裏を通り過ぎた。

 あの四人が何を抱えてここに立っているか自分は知っていた。

 なのに、救いたいものをひとつだけ選んでしまった。

 エドガーはそれを嗤うようにソフィーの首を押し下げ、刃がさらに沈む。一滴の血が喉元からすべり、昼の光を受けて黒く光った。

 マクシムの頭蓋の奥で何かが急激に凍っていく。

「やめろ……やめろ……頼む……」

 マクシムの口は震え、喉がひきつり、声にならない叫びが胸で暴れた。

 エドガーの手首がほんのわずかに締まり、ソフィーの身体がひきつった。その細い息遣いが耳の奥で弾けた瞬間、マクシムの視界が真っ白になった。

 世界の輪郭が吹き飛び、残ったのはただひとつ。

 奪われる。このままでは、自分の手で守ると誓ったものを何もかも失う。

 その確信が肺の奥まで冷たく満ちて、耐え難い絶望が喉を突き破った。

「やめてくれぇッッッ!!」

 マクシムの叫びが石畳に跳ね返った瞬間、四人の海賊が地面を蹴りつけた。乾いた衝撃音が連続し、怒りが一気に形を持つ。

 ソフィーの喉にはすでに刃が沈んでいた。皮膚が裂け、温かい血が一滴だけ首を伝う。

 その位置が動けば終わる。息を飲むことすらできない。

 海賊たちは一直線。影が四方から収束し、空気が押し潰される。

 ソフィーは反射的に目を閉じた。すぐ背後でエドガーの剣がわずかに押し込まれ、金属の冷たさが脈に触れた。石畳が震えた。足音、怒号、刃の気配。それらが同時に迫り、世界が一瞬で張り詰める。


 ——刹那、石畳を叩く水音が走った。


 まっすぐに、容赦なく、港の空気を切り裂くように迫ってくる。

 エドガーが振り向くより早く、背後で風が裂けた。

 白昼の光に照らされ、鋼の閃きがエドガーの背を斜めに断つ。鈍い破裂音のような斬撃が響き、鮮血が鋭い弧を描いて飛び散る。赤い軌跡は一瞬だけ陽光に光り、すぐ石畳で黒く弾けた。

「ぐっ……!」

 エドガーの体が前に傾く。彼の背後に、ひとりの影。

 ずぶ濡れの男——ルキフェル。

 海水を吸った暗褐色の髪が額に張り付き、翡翠の双眸が刺すように細められている。右手のカットラスから滴る血と海水が港の石畳で濁った色を作った。

 彼は一言も発さない。エドガーの腕からソフィーを荒々しく引き剥がし、後方へ押し込むように庇った。その動きには迷いも逡巡もない。ソフィーの命以外を取るに足らないと断じる手つき。

 冷たい水の匂いと体温の低い衣服の感触に、ソフィーの呼吸が詰まる。だがその冷たさが意識を現実へ戻した。ソフィーが視線を正面に向ければ、エドガーが片膝をつき、痛みに歯を食いしばっている。血と潮の匂いが昼の港を満たし、陽光は張り詰めた空気をさらに際立たせた。

 自分を庇う男が振り返った。ソフィーの耳に——久しく忘れていた、あの張りのある凜とした声が届く。

「……久しぶりだな。相変わらず無茶をする」

 ルキフェルの声と同時に、ソフィーの胸の深いところで何かがほどける。懐かしさと安堵が一気に押し寄せ、彼女の膝は抵抗もなく石畳へ落ちた。

「久しぶり……と言いたいところだけど」

 息を乱しながらソフィーは苦笑した。

「今の、剣が首に当たったあの感触が残ってて、立てない」

「……え?」

 ルキフェルの眉が僅かに動く。

「首、少し怪我してんな」

 気づけば彼の影が覆い、ソフィーは冷たい腕に抱き上げられていた。まるで羽根のように軽々と。

「ちょっ……やめて! 歩けるから離して!」

 ソフィーは必死に暴れる。

「それより冷たいんだけど! 凍え死ぬ!」

「我慢しろ」

 ルキフェルは無表情にそう言い、戦場を悠然と歩く。足元には血と海水が入り混じり、飛沫が跳ねた。

「マクシミリアン、大事なものは取り返したからな」

 ルキフェルの言葉と共にソフィーはマクシムの足元に降ろされた。

 マクシムは一瞬だけ息を呑み、感謝の色を宿した視線をルキフェルに向ける。

「お前たちは、あそこでくたばってるフェルナンドを見てやれ。エドガーは俺たちの獲物だ」

「なら、僕も参戦します」

 マクシムの声には迷いがない。

「エドガーの息の根を絶って、この戦争に終止符を打ちたいんです」

「……いいだろう」

 二人は並んで武器を構える。マクシムは二刀を翻し、ルキフェルは東洋武術特有の静かで鋭い構えを取った。そんな二人の背に場違いな調子の声が飛ぶ。

「かっこつけるのはいいけど、なんで遅くなったか聞いてもいいかな? あと、すごい濡れてるし」

 コリンがじとりと睨む。

「悪かったな。あの数の海賊船がいりゃ、俺も暴れたくなった」

「え、本気で言ってるの?」

 ジャスパーが戦火の向こう、なお燃え続ける海を振り返る。

「おい、ルカ。まさか一人で海賊船を沈めたとか言わないよな?」

 マテオが呆れた声をあげ、ルキフェルが得意げに笑う。

「一隻だけじゃないぞ」

「一隻でも十隻でも……まあルキフェルがやるならおかしくはないね」

 ニールが肩をすくめる。

「てかお前さ、なんでそんなめっちゃ濡れてんの? もしかして……」

 マテオが怪訝そうに目を細め、ルキフェルは目を伏せて濡れた前髪をかき上げた。

「ああ、泳いできた」

「前言撤回。この人、何回人間やめれば気が済むかな」

 ニールがぼそりと漏らす。

「ここで落ち合う約束を後回しにしてまで暴れたかったとか、意味わかんないし……」

 コリンは大きくため息をつく。

 マクシムがわずかに苦笑し、剣を握る手に力を込めた。

「……なるほど。それは『鬼』の異名がついてもおかしくないですね」

 そんなやり取りの最中、エドガーがゆっくりと立ち上がった。彼の背中にはルキフェルの一撃が深く刻まれ血が滴るが、瞳は鋭く光っている。

「さあ、遊びは終わりだ」

 ルキフェルの声だけで周囲の空気が震えた。戦闘の火蓋が再び切って落とされる。

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