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第五章⑤ ソフィーとグウェナエル

 遠くに聳えるブレスト城を背にグウェナエルは静かに宿舎への道を歩いていた。海を横目にしながら、潮風に顔をなでられ、少しばかり疲れた足取りを進める。

 ——すると、背後で突然の騒がしさに気づく。

 振り返ると、ペネロペとジョルジュが笑い声と共に全力疾走で横を駆け抜けていった。

 ペネロペは手紙を握りしめ、楽しそうに弾むような足取りで。

 ジョルジュは必死にペネロペの後ろ姿を追いかけ、途中で小石を蹴り飛ばしながら転ばぬようにバランスを取りつつ走っている。

 グウェナエルは彼らの様子を冷静に眺め、歩みを止めて深いため息をひとつついた。

「……二人揃って、まったく落ち着きがないな。戦場じゃなくて良かったが、体力だけは余ってるようだ」

 さらに小さく呟く。

「俺の後ろ姿にかける全力、他に使えよ」

 その声は微かに呆れたような響きを含みながらも、どこか静かな諦観とほんの少しの微笑を漂わせていた。

 グウェナエルがため息をつき、足取りを進めようとしたその時、背後から落ち着いた声が響いた。

「本当にその通りですね」

 振り返ると夕陽に照らされて柔らかく輝くソフィーがスタスタと歩いてこちらに向かってきた。髪の先が風に揺れ、長い影が地面に伸びる。夕陽の光に映えるその横顔は、凛としながらもどこか温かみを湛えていて、グウェナエルの胸に普段とは違う感覚がひそかに芽生えた。

 心の中でふと気づく。彼女も、戦場では冷静で頼もしいのに。

 こうして見ると、やけに穏やかで……美しいな。

 グウェナエルは思わず視線をそらし、深く息を吐いた。戦いの重圧で凝り固まった心が、少しだけ柔らかくなるのを感じる。そして、無意識のうちにソフィーの歩みを追う自分に気づき、軽く呆れたように呟いた。

「……いや、まったく、落ち着きのない二人だけで十分だと思ったのに」

 全力疾走するペネロペとジョルジュの騒がしさを思い出しつつ、夕陽に照らされるソフィーの姿はどこか戦場の荒波の中にあっても変わらぬ光を放っているように見えた。

 グウェナエルは視線を少し逸らしながらもソフィーに歩調を合わせる。静かな道を二人で歩くと先を行く元気な二人の騒がしさも遠ざかり、夕陽の光だけが穏やかに影を伸ばしていた。

「それにしてもあの二人、全力で走るな」

 グウェナエルが小さく呟くと、ソフィーは少し笑みを浮かべて答えた。

「ええ、ジョルジュもペネロペも、やっぱり元気ですよね。こういう時だけは、戦場の緊張も忘れられるみたいです」

 グウェナエルは軽く唇を引き結ぶ。

「……そうだな。お前も、その分しっかり食べておかないと」

 ソフィーはちょっと驚いた顔をして振り返る。

「え、私ですか?」

「お前が元気でいることが、結局みんなの力になるんだ」

 彼の声は穏やかながら重みも帯びていた。

 ソフィーは小さく頷き、ふわりと微笑む。夕陽に染まる髪がまるで柔らかな光のベールのように揺れた。 

 グウェナエルはその姿をちらりと見やり、内心でそっと思った。

 ——戦場の嵐の中でも、こんな時間があると、少しだけ救われる。

 歩みを進める二人の前に、海沿い特有の冷たく鋭い突風が突然吹き抜けた。

 夕陽に照らされた波の光がきらめき、風に乗って潮の香りが鼻をくすぐる。

 ソフィーの肩甲骨まである亜麻色の髪が、結ばれていないまま風に舞い、顔にかかる。慌てた手が髪を掻き上げ、そっと耳の後ろで押さえる仕草を見せた。風で乱れた髪の感触に、思わず小さく眉を寄せる。

 一方、グウェナエルの肩にかかる灰がかった銀色の髪は後ろでひとつにまとめられていたものの、前髪が立ち上がり、伸びた房が視界を遮った。視線が狂うたびに彼はイラついたように頭を振り、片手で前髪を押さえつつ長い房を払いのけた。その動作は無骨でありながらも、どこか毅然とした雰囲気を漂わせている。

 二人は少し息を整え、乱れた髪を直す仕草を交互に見せながら海風の中を歩み続けた。

 突風は止み、潮の香りだけが残る。小さな不便に苛立ちながらも、互いの存在がどこか心を落ち着かせる。そんなひとときだった。

 ソフィーは乱れた亜麻色の髪をそっと手で押さえながら、ふうと小さく息をついた。

 グウェナエルも銀の髪を払いのけ、肩を軽くすくめる。互いに視線を交わすと二人の間に一瞬、柔らかな沈黙が流れる。

「……海沿いの道は、油断するとこうなるな」

 グウェナエルが少し照れくさそうに呟くと、ソフィーは軽く笑いながら頷く。

「本当に。髪も服も、思い通りにならないことが多いですね」

「……まあ、お前の髪は特に長いからな」

 風で乱れた後の髪を指でそっと撫でる仕草に、グウェナエルの口元にわずかな柔らかさが混じる。

 ソフィーはその視線に気づき、少しだけ目を逸らしながらも心の奥で微かに胸が温かくなるのを感じた。戦場の緊張を忘れるわけではない。だが、この海沿いの道で二人はほんのひととき互いの存在を確かめることができた。

 再び歩き出す二人。グウェナエルは前髪を払いながら少し呆れたように呟いた。

「とはいえ、こうも長いと視界も悪いし、訓練の時でさえ汗で顔に張り付いてうざったるい」

 ソフィーはくすりと笑い、軽く首を傾げて答える。

「じゃあ、散髪に行けばいいじゃないですか」

 グウェナエルは小さく肩をすくめ、少し考え込むように視線を遠くに向ける。

「なんだかんだ言って、散髪に行く時間がないんだ。髪切ったところで、何か変わるわけでもないしな」

 ソフィーはその答えに小さく笑みを浮かべ、少しからかうように言った。

「ふふ、そうやって頑固に言い訳してるうちに、ますます髪が大変なことになりますよ?」

 グウェナエルはちらりと彼女を見て、軽く眉をひそめつつもどこか苦笑混じりで答える。

「……うるさい。お前は何も分かってない」

 ソフィーは軽く微笑み、少しからかうような口調で言った。

「私には分かりますよ。だって、この部隊に復帰する前はパリの医務局で働きながら、理髪外科医としても手を動かしてましたから」

 グウェナエルは一瞬、思わず目を細めてソフィーを見つめる。

「……なるほど、髪の扱いにも詳しいってわけか」

 ソフィーは軽く肩をすくめ、くすくすと笑った。

「そういうことです。まあ、見た目だけじゃなく、衛生面でも大事ですからね」

 グウェナエルは小さく吐息を漏らし、どこか苦笑混じりで答えた。

「……ああ、分かった分かった。お前に任せる」

 ソフィーの瞳が一瞬大きく開き、声も少し高くなる。

「え、グウェナエルさんの髪、私が切っていいんですか?」

 その問いに、グウェナエルの肩の力が一瞬強く張り詰める。視線がわずかに逸れ、口元に不自然な硬さが走る。手に持った剣の重みが急に気になり、指先をぎゅっと握り直す。顔の奥で熱が走り、頬が微かに紅を帯びた。

「そ、そんな……そんなんじゃねえよ!」

 口に出すと、思わず少し強めの口調になってしまう。

「別にお前に切ってもらうとか、そういう意味じゃ……勘違いすんな」

 彼の声には思わず力が入り、口角が硬直する。視線を反らしたまま、前髪をかき上げる動作がやや大げさになり、手が止まらない。気まずさを隠すために言葉を先に出すことで、ぎこちない落ち着きを取り戻そうとする様子が、彼の全身から滲み出ていた。

 ソフィーは静かに視線を髪に向けたまま少し微笑む。

「髪を切るって、ただ長さを変えるだけじゃないんですよ。過去や未練を断ち切る意味もあるし、覚悟を示す行為でもあるんです」

 ソフィーの言葉の端々に穏やかさと説得力が宿り、風に揺れる自分の髪を軽く握る仕草が彼女の言う意味をさりげなく裏付けていた。

「だから、髪を整えることはただ見た目を変える以上に、自分自身を整理することにもなるんです」

 ソフィーの言葉に、グウェナエルの目が一瞬強く揺れて胸の奥に小さな波紋が広がる。

 それからグウェナエルは視線を遠くの海に向ける。肩に届くほどの長さを後ろで緩やかに結んだ髪は、灰を溶かしたような銀の色を帯び、夕陽に淡く光る。風に揺れた前髪と長い房が頬をかすめ、横顔に陰影を落としていた。彼はゆっくりと息を吐き、口元にわずかに笑みを浮かべて言う。

「……そうか。それなら、悪くないな」

 風に揺れる自分の髪を手で軽く押さえながら、いつもの鋭さは少し和らいでいた。

 その言葉の端々には、無言の安心とこれからの決意が静かに宿っているようだった。

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