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第五章① 総司令部

 薄曇りの空が海軍司令部の大広間を薄暗く包んでいた。

 冷たく湿った空気が重く漂い、時折窓外を吹き抜ける風が、古びた帆布カーテンをひらりと揺らす。天気はどこか冴えず、まるでこれから訪れる嵐の前触れのように空気を締めつけていた。

 作戦会議室には重厚な木製の長机が置かれ、その周囲を厳格な表情の軍人たちが囲んでいる。壁にかけられた戦略地図には、ランデヴェネックを中心に点在する拠点や航路が詳細に描かれていた。しかし、その長机の一角だけがぽっかりと空いている。

 そこに座るはずだったマクシミリアン・ブーケ隊の姿はなく、空席が静かに存在を主張していた。

 司令官たちはその欠席を気にしつつも、緊張した空気の中で議論を続ける。言葉は慎重に選ばれ、声のトーンも抑制されているが、部屋の隅々にまで張り詰めた覚悟が伝わってきた。

 エリオットはテーブルの端に腰掛け、鋭い視線で資料を見据えている。

 隣のアルフォンスもまた、片眼鏡の奥で静かに思案を巡らせていた。

 二人の視線が合うと、言葉少なに互いの心情を読み取った。「仕方がない、あの状況なら」とエリオットの瞳に微かな哀愁が漂う。アルフォンスも静かに頷き、無言で作戦の続きを見守った。

 作戦はおおよその枠組みが固まり、最終案は翌日以降に持ち越されることとなった。

 机上の議論は一区切りついたものの、漂う空気はどこか不完全燃焼のままだった。


 数日後。空は鉛色の雲に覆われ、冷たい雨が細かく降り始めていた。

 第二艦艇部隊からの急報が響き、ランデヴェネック周辺での海賊の動きが活発になっていると伝えられる。司令部の士気が一気に引き締まった。ただならぬ気配に、再びブレスト作戦司令室に軍上層部が招集される。各指揮官たちは険しい表情で入室し、詳細な情報共有と作戦の方針を確認する。

 重苦しい空気の中、窓外を流れる灰色の雲はこれから迫る激闘の予兆を告げていた。

「……防衛戦しかあるまい」

 エリオットの低くよく通る声が作戦司令室の空気を一瞬で変えたその言葉が耳に届いた途端、円卓の周囲がざわめきに包まれる。

 誰もが攻めて叩き潰すことを前提に議論を重ねてきたのだ。待ち構えて守るなど最初から選択肢にないと思っていた。

「大元帥、それは……あまりにも受け身では?」

「敵は既に海上で活動を始めています。このままでは被害が拡大しますぞ」

「ここで引けば、奴らは勢いづくばかりです!」

 短い間にいくつもの声が重なった。動揺が色濃く滲み、地図の上を指し示す手まで震えている者もいる。しかし、そのざわめきの中でルソー、イザベル、アルフォンスだけは沈黙を守っていた。

 彼らはエリオットの意図を知っている。今回の戦闘には、旧ブルボン派が深く関わっていることを。

 旧ブルボン派は、ランデヴェネックの裏側を実質的に所有している。

 彼らを直接叩くということは、表向きはただの海賊討伐であっても実際には政界の権力を真正面から揺るがす行為になる。この国の中枢を巻き込む火種に、軍の手で火をつけることはできない。

 ——だが、その事実は公には言えない。

 円卓に集まる多くの士官たちは知らず、知らされることもない。だからこそ、彼らの反発も無理はなかった。

 エリオットは机上の地図に視線を落としたまま、騒ぐ声をしばし黙って受け止めていた。その眼差しには冷徹さと同時に長く政軍両面を渡り歩いてきた者の苦い覚悟が宿っていた。

「……静まれ」

 一言であったが、その声音は荒れる海に一瞬だけ訪れる凪のようにざわついていた空気を強引に押し留めた。誰もが口を閉ざし、視線は自然と円卓の主席へと集まる。

 エリオットはゆっくりと椅子から立ち上がり、机上の地図に両手をついた。

「諸君。攻めれば速さは得られる。だが、その一撃が刃ではなく毒針となることもある」

 彼の声は淡々としていたが、その奥には鋼の意志が潜んでいた。

「我々は軍人だ。軍の剣は外敵に向けるものであり、内に向ければ自らを裂く。ランデヴェネックは今や、ただの海賊の巣ではない」

 エリオットの言葉の意味を測りかねて何人かが眉を寄せた。だがその深部までは説明しない。政界の闇を知らぬ者に教えるべきことではないし、知らぬほうがいい事実もある。

 エリオットは一呼吸置き、円卓の全員を鋭く見渡した。

「我らが叩くべきは、目の前の船団だ。敵の刃を折り、奴らの勢いを削ぐ。それが今、最も確実で、最も損害を抑える道だ」

 沈黙が落ちる。やがて数人の士官がゆっくりと頷いた。

 彼らは未だ完全に納得したわけではない。だが、大元帥の言葉には重みがある。それを覆すだけの理屈も、誰一人として持ち合わせてはいなかった。

 ルソーは腕を組み、僅かに口角を上げる。イザベルは黙して表情を変えず、アルフォンスは地図上の航路を見つめたまま何も言わない。三人だけがこの決断の裏に潜む現実を知っていた。そこで沈黙を破ったのは、ルソーの低く響く太い声。

「……大元帥の言う通りだ」

 ルソーが腕を組んだまま、席から立ち上がった。その立ち姿はまるで戦場に立つときのように堂々としている。

「だが、守るだけじゃ兵は腐る」

 彼は円卓の上に置かれた地図を指で叩く。

「海に出る者は、潮風と危機を喰って生きてる。敵が来るのを待つだけじゃ、刃も心も鈍る一方だ」

 ルソーの声は熱を帯び、じりじりと室内の空気を押し上げる。

「防衛戦であろうと、必ず隙を突く機会はある。港に踏み込まれぬよう守りつつ、奴らの指揮を揺るがす。そうすれば兵は怯まず、むしろ奮い立つはずだ」

 幾人かの士官が顔を上げた。単なる守勢ではなく、守りながら攻める。その戦い方にようやく血が通う。

 エリオットはルソーの言葉に頷いた。

「その通りだ、ルソー。防衛は逃げではない。勝つための道だ」

 会議室に再びざわめきが戻る。だがそれは先ほどの混乱とは違い、戦意を帯びた低い唸りだった。

「……つまり、港湾を死守しつつ、機を見て反撃を仕掛けるわけですね」

 イザベルの落ち着いた声が熱気を帯びた空気を一瞬で均した。彼女は姿勢を正し、卓上の地図を自分の方へ引き寄せる。その指先が、港の外縁を縫うように滑る。

「まず、敵の上陸ルートを三つに絞ります。正面から港に突入する主攻、東側の浅瀬からの迂回、そして西側の岩場を伝っての奇襲。それぞれに対応部隊を配置し、どの方向からも即応できるようにするべきです」

 彼女の言葉に何人かの士官が地図へ身を乗り出す。

 イザベルはその視線を受け止めながら淡々と続けた。

「ただし、守るだけでは持ちません。港の外に小型艦隊を潜ませ、敵の補給線を切る。補給を断てば、長期戦は不可能になります」

 彼女の一言に会議室の空気がぴんと張り詰めた。エリオットが彼女を見やり、短く目を細める。

「よく言った、イザベル」

 低くはっきりとした声でエリオットは告げる。

「防衛は戦略であり、反撃は勝利のための呼吸だ。——諸君、この方針で動く」

 士官たちの間に、小さな頷きと決意の光が広がっていく。

 その時、作戦会議室の重い空気の中、扉が激しく開かれた。

「その必要はありません!」

 三人の姿が現れる。マクシミリアン・ブーケ、シャルル・ド・ヴィトン、そしてグウェナエル・ブランシェ。彼らの足音は確かだが、どこか浮世離れしたような存在感を放っている。身にまとう空気は、周囲の上官たちとは明らかに異質だった。エリオットは顔をほころばせながら立ち上がる。

「おお、マクシミリアンか。よく来てくれた」

 しかし、エリオットの表情の奥底には彼らが放つ独特の気配に一抹の警戒が潜んでいるようにも感じられた。イザベルは眉をひそめ、目を細める。

「必要ないとは、どういう意味でしょう?」

 マクシムは静かに口を開いた。

「奴らは補給すらしないでしょうね」

 ざわめきが広がる会議室でルソーが腕を組み、怪訝そうに尋ねる。

「どういうことだ?」

 マクシムは冷静に、どこか鋭さを含んだ声音で言葉を紡ぐ。

「こちらに報告書がございます。今から皆様にお配りいたします」

 三人は自然に手分けして報告書を配布し始める。その所作には職業的な冷徹さと共に、どこかこの場に完全に馴染みきれていない異邦人のような影が垣間見えた。

 ルソーは報告書の表紙を見つめ、眉を上げる。

「……リー・ウェンの報告書? 誰だ?」

 アルフォンスがすかさず口を挟んだ。

「あー、あの異国の男か!」

 マクシムは苦笑を浮かべながら報告書作成の苦労を漏らす。

「複写に手間取りまして、かなり時間がかかってしまいました」

 シャルルが肩を回しつつ言う。

「指の関節がイカれてしまいましたよ」

 緊張に満ちた会議室に一瞬の和みが訪れたが彼らの異質な存在感は消えず、集まった将校たちの視線はなおも三人に向けられていた。

 マクシムは静かに確信に満ちた声で話し始める。

「皆様の中には、リー・ウェンという名をご存じない方も多いかと思います。彼は貴族社会にも顔が利く商人でありながら、実は情報収集の才に長けた人物です。私どもは、ある縁から彼にエドガー海賊団の拠点を探らせました。詳細はこの報告書にまとめてあります」

 マクシムが一呼吸置いてさらに続ける。

「リーは相手の懐に入り込むのが非常に巧みで、エドガー海賊団とも接触を果たしております」

 会議室の空気が一気に凍りつく。将官たちの顔に動揺と困惑が走り、低いざわめきが広がった。

 いつもは冷静なエリオットも眉をひそめ、イザベルは目を大きく見開いた。ルソーも思わず眉間に皺を寄せ、アルフォンスでさえ言葉を失い、ただ深く息を吐くばかりだった。

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