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第四章⑥ 宿舎にて

 医務室の窓から、午後の淡い光が差し込んでいた。

 消毒薬の匂いと、乾いた木の床の香りが混じる中、ソフィーは机の引き出しを整理している。すると、扉が音もなく開き、長身の影が入ってきた。ソフィーが振り返れば、無表情のグウェナエルが手に何かを持って立っている。

「ほら、治ったから返す」

 彼が無造作に差し出したそれは、昨夜ソフィーが巻いた右腕の包帯だった。包帯には血の跡がまだ鮮やかに残り、乾いて硬くなっている。

「もう治ったんですか?」

 ソフィーが思わず眉を上げて尋ねると、グウェナエルはわずかに片唇を上げ、挑発めいた声音で返す。

「信じないなら見るか?」

 彼はためらいもなく右袖を捲り上げた。そこには、弾丸が掠めた際にできた火傷のような痕が赤黒く残っているが、確かに傷口は塞がっていた。昨日の出血が嘘のようだ。

「治りが早いとは聞いてましたが……この目で見ても信じられません」

 ソフィーは正直な感想を洩らす。

「これを見てなお信じないなら、それでいい」

 グウェナエルが低く言い捨てると袖を下ろし、くるりと背を向けた。出口へ向かう途中、彼は立ち止まりもせず、背を向けたままぼそりと呟いた。

「……ただ、別のところは痛むけどな」

 彼の言葉の意味を問い返す間もなく、足音は廊下へと遠ざかっていく。扉が静かに閉じられ、医務室は再び静寂に包まれた。

 ソフィーは手の中の包帯を見下ろした。乾いた血の手触りが、昨夜の出来事を鮮やかに呼び起こす。

 彼らが倒れ込んできた瞬間、押し寄せた熱と重み、そしてその奥に潜む何か。

 気づけばソフィーは机の端に腰を下ろし、視線を落としたままぼんやりと時間が過ぎていった。

 医務室の窓から差し込む真昼の光が、白く柔らかく室内を満たしていた。しかしその明るさとは裏腹にソフィーの心は重く沈み、まるで影の中にいるようだった。

 彼女が呆然としたまま座っていたその時、軽やかな足音が近づいてきた。

 ペネロペが息を整えながら扉を開けると、鋭く切れた表情で言った。

「ソフィー、外にお客さんだ。リー・ウェンっていう東洋人が宿舎の門の外にいるらしい」

 ペネロペの声に反応し、ソフィーはゆっくりと体を起こす。日差しに照らされた室内で、目を細めながらも決意を湛えた表情を浮かべ、立ち上がった。

 宿舎の門に向かう通路は、昼の光に照らされて明るく、周囲の壁や石畳も鮮明に映し出されている。ペネロペに導かれて歩きながら、ソフィーの心の中にほんの少しの希望が芽生えるのを感じた。


 門の外、日差しの中に立つリー・ウェンは凛としていた。彼の服は昼の陽光を浴びて白さを増し、その表情は静かで厳かだ。彼の視線ははっきりとソフィーを捉えている。凛とした佇まいはどこか異国の香りを漂わせ、穏やかだが引き締まった目元は強い意志を秘めているようだった。

「何の用ですか?」

 ソフィーが静かに尋ねると、リーは口を開いた。

「わたしはマクシムさんに用があります。ですが、あなたに会いたいと言っている人がいるので伝えに来ました」

 彼の指差す先には、小さな港が昼の陽光の下で穏やかに輝いている。青空と紺碧の海が織りなす風景は、一瞬の安らぎを与えるかのようだ。ソフィーはうなずき、感謝の意を込めて返す。

「わかった。知らせてくれてありがとう」

 彼女は晴れ渡る空の下、港へ向かって歩き出す。足取りは重いが、どこか力強さを含んでいた。真昼の陽射しが彼女の影を長く伸ばし、静かな決意を際立たせる。

 一方、宿舎の門に戻ったリーはゆったりと足を踏み出す。彼の姿は昼の光に溶け込みながらも、何か目的を帯びているようだった。

 ちょうどその時、アルフォンス・シャトレが通りかかり、二人は宿舎前ですれ違った。

 アルフォンスは思わず振り返り、鋭い眼差しをリーを捉えて静かに口を開いた。

「……この人は……?」

 リーの背中はゆっくりと動き、昼の光と共に歩み去っていった。


 リーはマクシムの前で少し間を置き、身じろぎもせず商いの顔を脱ぎ捨てた。

 情報屋としての鋭い目つきが、確信に満ちてゆらぐことなくこちらを捉える。

「ご依頼のあった、エドガー海賊団の拠点調査について報告いたします」

 リーの声には、商人の表情には見えなかった重みが宿っていた。

「報告までにもっと時間がかかるかと思いましたが、不思議な縁の巡り合わせにより、確信を持ってこの場に臨むことができました」

 リーの指が静かに空間を示す。

「わたしはラド・ド・ブレストを一望できる場所から海岸線沿いに聞き込みを進めました。そして、エドガー海賊団達の隠れ家をつきとめました。その地は——ランデヴェネックです」

 マクシムは思わず眉をひそめる。

「それだけではないようですね?」

 リーの唇が微かに上がる。

「周囲の村人たちも、ただの住民ではありません。海賊たちは彼らに金を握らせ、口を閉ざさせているのです」

 マクシムは感心と困惑が混じった表情で言う。

「君もかなり踏み込んだ動きをしているようだ」

 リーは軽く笑みを浮かべて返す。

「貴族社会に顔が利く商人を、どうか侮らぬように」

 その笑顔には、たくましい自信が宿っていた。リーは話を続ける。

「さて、エドガー海賊団との接触も果たしました。そこで、思わぬ再会が。五人組の海賊のことはご存知でしょう? ……と言っても、お会いできたのはそのうちの四人だけですが」

 マクシムは苦笑交じりに答える。

「どこに行っても彼らは現れる。……まさか、君も関わっているとは」

 リーは一瞬だけため息をつき、肩の力を抜く。

「わたしと五人組の関係が露見するのも時間の問題でしたな。しかし、おかげであなた方が求めるような情報を手に入れることができました。情報交換という名目でね」

 マクシムはじっとリーの目を見る。

「いったい何を?」

 リーは言葉を選びながら答えた。

「エドガー海賊団の協力者についてです。実は、彼らの依頼は『旧ブルボン派の動向の調査』でした。わたしもすべてを自分で掴めるわけではありません。情報屋仲間の助けを借り、彼らへ報告をしました。その場で報告書も作成しましたよ」

 そして、リーは静かに続ける。

「その報告書は、今あなたたち海軍に渡っている」

 マクシムは驚きを隠せない表情を浮かべた。

「つまり、彼らは自らの動きを漏らしながら我々に情報を流していたのか」

 リーは頷き、確信を持った声で結んだ。

「そういうことです。そして、この事実こそがこれからの戦局を大きく動かす鍵となるでしょう」

 リーは冷静な表情のまま、静かに話を続けた。

「実はここへ来る途中、しばらく彼らと同行しておりました」

 マクシムは目を見開いた。

「なんと?」

 リーは軽く頷く。

「彼らにも別の用事があったようで」

 部屋の空気が一瞬張り詰める。リーは少し目を細め、言葉を選びながら続ける。

「同行中、彼らがこんなことを口にしていました。『次は直接対決でなければならない。直接でなければ、この戦いは終わらない』と」

 マクシムは眉をひそめた。

「つまり、彼らはエドガー海賊団の傘下でありながら、戦いを終結させる立場を自認しているのか?」

 リーはやや複雑な表情で答える。

「そう考えられます。真意は不明ですが」

 マクシムは胸の内で考えを巡らせた。

 五鬼衆、大海賊フランソワの精鋭たち。

 今回の戦闘はエドガー・ロジャース指揮下のもとフランソワの名誉のための弔い合戦とも聞いていたが、意外にも五鬼衆は復讐に対して積極的に加担しないのか。

 その時、マクシムの頭の片隅にかつてのニールの言葉が蘇った。彼とサン・マロで密談した時の会話だ。


 ——これは情報戦だよ。

 僕が君たちに情報を流すことで、君たちの動向や立場を利用してるにすぎない。

 僕らは、エドガー・ロジャースが復讐に取り憑かれているのを知ってる。

 だから、手遅れになる前に手を打ちたいだけさ


 そして、ニールは爽やかな調子でこうも言った。


 ——僕らがエドガーを殺すんだから……感謝してね?


 沈黙の後、マクシムは口を開く。

「その話を、ここで報告書としてまとめていただけませんか? あくまで『エドガー海賊団と接触した』という建前で」

 リーは微笑を浮かべ、肩をすくめる。

「ええ、構いませんよ。マクシムさんは特別な得意先ですから」

 数分間、リーはペンを走らせ、報告書を素早くまとめていった。

「出来上がりました。こちらになります」

 マクシムは驚きを隠せず目を丸くした。

「仕事が早すぎませんか?」

 リーは涼やかに答える。

「取引はスピーディーに行うのが鉄則ですから」

 リーは報告書をマクシムに手渡しながら、軽く頭を下げる。

「では、私はこれで失礼します。また何かあれば、いつでも使ってください」

 そう言って、リーは静かに部屋を後にした。

 マクシムは手にした報告書をじっと見つめたまま、眉をひそめて怪訝な表情を浮かべていた。

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