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第四章⑤ アルフォンス

 護送のための船が港を離れていった後、司令部の空気は一層重たく沈んでいた。

 執務室の窓辺から差し込む昼間の光も、紙の上で褪せた白にしか見えない。長机には何通もの便箋が並べられ、静かな羽音のようにペン先が紙を滑る音だけが響く。 

 今日、ここで綴られるのは決して喜びを運ぶものではない——戦死を告げる手紙だ。

 アルフォンスは整然と置かれたインク壺の前で背筋を伸ばしてペンを握った。彼の視線は白紙を見てはいるが、心は既に一人の少女へと向かっていた。

 メリッサ・カンパネッラ。明朗な笑顔と軽やかな足取り、兵舎で響く快活な声。そのすべてが、今や凍りついた記憶として胸に残る。

 便箋の冒頭に格式通りの文言を異国の言葉で綴る。


《貴家ご息女、メリッサ・カンパネッラ二等兵は今般の任務中、忠勇をもって戦い、志半ばにして戦死いたしました。》


 定型の言葉はまるで感情を削ぎ落とす儀式のようだ。だが、アルフォンスは途中でペンを止めた。インクが紙の一点に滲む。

 本来なら、淡々と職務を果たすべきだ。だが、士官学校時代の彼女の面影が脳裏に浮かび、どうしても心が揺れる。手の中のペンが微かに震えた。紙の上に並ぶ文字の列が急にぼやけて形を失っていく。

 脳裏にあの光景が不意に割り込んできた。


 ——血の匂いが、潮風に混じって鼻を刺す。


 造船所の薄暗い奥、床板の上に投げ出された海賊の死体。

 胸元から深く抉られた裂傷はまだ赤黒く滲んでいる。

 剣を握ったままのシャルルは全身から怒気を放っていた。ランプの灯火を浴びたその橙色の髪が、濡れた血の色を映すように輝く。振り返った彼の瞳は氷のような冷たさと灼熱の怒りが同居していた。

「……報告しなさい。何があったのですか?」

 アルフォンスの声は努めて冷静だったが、胸の奥では心臓が痛いほど脈打っているのがわかった。

 シャルルは一歩、海賊の死体から離れた。刃の先からぽたりと血が滴り、床板を赤く染める。

「……報告? そんなもの、見るまでもないでしょう。こいつは——」

 短く吐き捨てた言葉が造船所の重苦しい空気に沈んだ。

 隊員たちの視線が二人の間を行き交う。誰も口を開こうとしない。

 海賊の手には、まだ二丁の短銃が握られていた。


 アルフォンスは視線を逸らさず、記録すべき事実と感情の奔流との間で自分を必死に引き戻そうとした。だが、羽ペンを握る指先にあの時の湿った熱気とシャルルの声が蘇る。

 ——次の一行が、どうしても書けない。

 執務室の窓外、柔らかな午後の陽光がゆっくりと差し込み、揺れる木々の影が床に繊細な模様を描いている。

 外界では風に運ばれる鳥のさえずりが静かに響き、街の喧騒がまるで遠い夢のように思えるほどに、穏やかな日常が息づいていた。しかし、その静けさとは裏腹に室内の空気は重く、押しつぶされそうなほどの哀惜が満ちていた。

 戦いの犠牲となった者たちの名を綴る手が止まることはなく、紙の上に静かに刻まれる文字たちはまるで亡き者たちへの祈りの囁きのようだった。

 誰もが心の奥底で消えゆく命の温もりを思い、忘れ得ぬ笑顔を反芻しながら言葉の重みと向き合っている。

 アルフォンスは机の前に座り、瞳に微かな光を宿したまま深く息を吸い込んだ。震える指先をそっと押さえ、全身に漂う悲しみを無理に抑え込み、使命感の炎を胸に灯す。ペンを持つ手が再び動き始めると、静かな決意が文字の間に滲み出た。しかし最後の一文を書く直前、彼はふとペンを止める。沈黙の中、呼吸が一瞬だけ乱れ、目の前の白紙に浮かぶ宛名「ご両親様」の下に、まるで胸の奥から絞り出すように慎ましくも力強い言葉を付け加えた。


 「彼女は最期の瞬間まで、仲間を守り抜きました。」


 その言葉は単なる報告の枠を超え、無言の誓いと愛惜をも込めた鎮魂の碑のようにアルフォンスの心を貫いた。

 アルフォンスは静かに便箋を折りたたみ、優しく封筒に収める。封蝋に指を当てると、押し込めてきた感情が胸に渦巻き、わずかに手に力が籠る。この一通が単なる文書以上のものであることの証明だった。

 彼自身の喪失、悼み、そして彼女への最後の敬意の印。


 ——目には見えないが確かに、彼の中で何かが静かに燃え始めていた。


 マクシミリアン隊の宿舎は近くの港の喧騒とは打って変わって、重苦しい静寂に包まれていた。

 朝、メリッサの遺体を港で見送ったのち誰もが言葉を失い、時が止まったかのように動きを止めていた。喪服の軍服に身を包み、それぞれが孤独と悲しみを抱えて過ごしている。

 執務室でマクシムは黒い三角帽を机の上に置き、指先でゆっくりと撫でた。肩は重く垂れ、小刻みに震えている。虚ろな視線は遠くを彷徨い、薄く閉じた瞼の下には涙の気配が滲む。胸の内に押し込めた痛みが、静かな呼吸の間に波紋のように広がっていった。

 宿舎の玄関口で、ペネロペは冷たい壁にもたれかかるようにして身を預けていた。両腕は胸の前で固く組まれ、肩は揺れている。彼女の瞳は時折遠く波打つ海を見つめるがその奥は湿り、風に乱れる髪が顔を覆う度に小さな震えが伝わってきた。

 中庭の片隅に腰を下ろすリラとダヴィットは互いに距離を取りながらも、沈黙の中で悲しみを分かち合っている。リラは膝を抱え込み、顎を沈めて地面を見つめたまま呼吸を整えている。一方のダヴィットは拳を握りしめ、細かく震える身体を必死に抑え込んでいた。

 宿舎の塀の上に座るジョルジュは冷たい石の感触を掌に感じながら、深く息を吐いた。両肘を膝に置き伏せた顔の奥で眉が寄り、視線は虚ろに遠くを見つめている。風に運ばれる波の音が心に響く一方で、胸の鼓動はざわつきを増していた。

 各々の自室ではリゼーヌ、サミュエル、ロザリー、そしてアニータが静かに身を潜めていた。誰もが握りしめた拳を膝に押し当て、硬く結んだ唇の奥で感情を噛み締めている。時折こぼれる涙は頬を伝い、部屋の静けさが一層深まった。

 医務室で、ソフィーは椅子に沈み込みながらも包帯を握る手がわずかに震えていた。喪服の裾が揺れ、視線はどこか遠くを見つめている。浅い息とともに固く閉じた唇が微かに震え、無力感と悲しみが指先に染み込んでいるのが伝わった。

 宿舎から少し離れた桟橋でスザンヌとリゼーヌは冷たい風に肩をすくめ、腕を胸の前で交差させて震えていた。視線は揺れる波の彼方を見つめ、涙を拭う手の動きが静かな哀惜を物語っている。互いの存在が唯一の慰めだった。

 食堂では、グウェナエルがぎゅっと握りしめた右拳を痛みも顧みず固く抱えたまま、瞼を重く落としている。内に渦巻く痛みと怒りを胸に秘め、震える呼吸を必死に抑えて背筋を伸ばすその姿は激しい悲哀を静かに訴えかけていた。

 宿舎全体に漂う静謐な悲しみは誰の言葉も不要なほどに重く、身体の端々にまで染み渡っている。互いに無言のまま、各々の胸に去来する痛みと喪失を抱えて時間だけがゆっくりと過ぎていった。

 宿舎の静けさが深まる中、ペネロペがひとり玄関先で佇んでいると遠くから歩み寄る足音が聞こえた。

 重厚で確かなその音は、普段ならなかなか訪れることのない人物のものだった。


 執務室の扉前に立ったのは、総司令部伝令係のアルフォンス・シャトレだった。顔には疲労がにじみ、肩には幾分の重圧が感じられる。彼は躊躇いながらも静かにノックをした。中からマクシムの声が響く。

「入れ」

 扉が開き、アルフォンスは一歩一歩、執務室へと進んだ。

 マクシムは顔を上げ、思わぬ訪問者に驚きを隠せなかった。二人の視線が短く交わる。

 アルフォンスは重い空気の中、沈んだ声で切り出した。

「ブーケ隊長。メリッサ・カンパネッラ二等兵の訃報を聞き、心からお悔やみ申し上げます」

 マクシムは感謝の言葉を口にしながらまだ深い悲しみを胸に秘めていた。

「なぜ、ここへ?」

 アルフォンスは一呼吸置き、少し困惑した表情を見せてから話し始めた。

「士官学校での訓練中に彼女と顔を合わせたことがあります。正直、剣術や射撃の腕は特別に目を見張るほどではなかったのですが……ただ、道具を投げる正確さだけは尋常じゃなかった。思わず顔をしかめるほど、次々と的確に投げ込むのです。あれには正直、驚かされました」

 マクシムは眉をひそめながらも、アルフォンスの言葉を反芻するように静かに頷いた。

 アルフォンスは少し肩の力を抜いて言う。

「昨夜の戦闘についての報告を読みました。火薬瓶を使った作戦は、シャルル・ヴィトン少尉が考えたもの。そして、カンパネッラ二等兵がその指揮を引き継いだと」

 アルフォンスは頷きながら続けた。

「ヴィトン少尉の案に、隊長の冷静な判断が重なって、あの混乱の中で一筋の光を見出しました。カンパネッラ二等兵が指揮権を託されたことも、信頼の証ですね」

 マクシムはやや照れくさそうに、誇らしげに口を開いた。

「正直、僕は飛び道具が得意な隊員に任せた方がうまくいくだろうと考えただけで、そんな大層なことはしていません」

 アルフォンスは微笑みを深め、少し間を置いて言った。

「いや、違います。部下の適性を見抜き、的確に役割を与えることこそ指揮官の真価です。あなたのその力があったからこそ、皆が力を最大限に発揮できた。指揮とはそういうものだと思います」

 マクシムは感謝のまなざしを向け、言葉を選びながら答えた。

「ありがとう。僕はただ、部下を信じていただけなんだ。彼ら自身の力と意志がなければ、あの結果はありえなかったよ」

 アルフォンスは静かに微笑みながら少し間を置いて言った。

「確かに貴方の言う通りです。人を見抜くというよりも、信じて任せることこそ、指揮官に求められる最も大切な資質かもしれませんね。信頼があってこそ、部下は自分の力を最大限に発揮できるのですから」

 彼の声には経験から培った深い理解と敬意が滲んでいた。

「その信頼の連鎖の中で生まれた成果が、今回の戦果に結びついたのでしょう。あなたの隊は単なる戦力の集まりではなく、互いに支え合う絆があると感じます」

 マクシムの瞳に少しだけ誇らしさが浮かんだ。

 アルフォンスは少し身を正し、沈んだ声で話し始めた。

「そういえば、大元帥からの伝言がございます。今回の戦い、あなた方の機転と迅速な対応がなければ、あの勝利は到底成し得なかったと。よければ、次の作戦会議にマクシミリアン隊も出席しませんかとお誘いが来ております」

 マクシムは一瞬、言葉を失った。眉を寄せ、じっとアルフォンスの顔を見つめる。

「そんな大それたことを……本当に僕たちで役に立てるものなのか、正直自信がない」

 アルフォンスは静かに頷き、さらに続けた。

「ですが、大元帥は言っておられます。あなた方のような自由で柔軟な発想、既成概念に囚われない考えこそ、今の海軍には欠かせないものだと」

 マクシムはその言葉に小さく息をつきながらも、まだ半信半疑の表情を浮かべている。

 その間、アルフォンスは伝令を受けた際に漏れ聞こえたエリオットの呟きを思い返していた。耳に残っている。

「私も、指揮官として随分と落ちぶれてしまったからな……」

 だがアルフォンスはその言葉をマクシムの前では口にせず、静かに胸に秘めた。

 アルフォンスは言葉を継ぐ。

「それに、いつ次の戦闘が起こるかは分かりません。作戦会議は明日の午前中に予定されています。お仲間を失ったばかりで傷が癒えていないことと思いますから、参加はあくまで自由です」

 マクシムは静かに頷き、慎重に言葉を選んだ。

「お気遣い、ありがとうございます。今は部隊員たちも深い悲しみの中におります。このことについては、みんなの様子を見ながら一部の者にだけお話ししようと思います」

 アルフォンスはその言葉に感謝の意を込めて応え、軽く一礼をしてから執務室の扉を静かに閉めた。

 部屋に一人残されたマクシムは窓辺に歩み寄り、外の景色へ視線を移す。

 遠く、塀の向こうの水平線が穏やかな光に照らされている。

 あの静かな海の向こうに、また次の戦いが待っているのか。

 思いを巡らせながらマクシムは深く息を吐いた。

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