第三章① 酒場からブレスト城へ
昼下がりの酒場。薄暗い窓から差し込む光が、埃混じりの空気にぼんやりと揺れていた。木製のカウンターの端に座るコリンは、どこか安堵したような表情でソフィーを迎えた。
コリンはにっこり笑いながら言う。
「無事に来れたね。ずっと待ってたよ」
ソフィーは軽く肩をすくめ、隣の席に腰を下ろす。
「手紙で呼び出しだなんて、本当に大胆ね。あなたたち、まったく恐れを知らないって感じ」
コリンは肩を竦め、少し苦笑を浮かべた。
「だって、伝達手段が限られてるんだ。表向きはエドガーの捕虜扱いでさ。だから裏でこそこそやらなきゃならないんだよ」
ソフィーは目を細めて尋ねた。
「みんな元気? 酷い目に遭ってたりしてない?」
コリンの表情が一瞬曇る。
「ぼくたちはまあまあ元気だよ。でも、ルキフェルだけはちょっと分からないんだ。なんかエドガーの船で監禁されててさ……」
ソフィーの胸に小さな不安が湧き上がる。
あの謎めいた男のことを思うと、自然と眉が寄る。
話題は変わり、ソフィーはこの前の霧の中の戦闘を切り出した。
「あの戦い、海賊の仕業だったのね」
コリンはうなずいた。
「そうさ。ただ、エドガーの船は出てなかった。出たのは知らない海賊団ばかりで、みんなボロボロで帰ってきたんだ」
ソフィーは少しだけ肩を落とす。
沈没させた海賊団が一つもないと知り、期待が裏切られたような気持ちになった。
コリンはふっと息を吐き、明るさを保ちながらもどこか影のある目でソフィーを見た。
「まあ、そんなにがっかりしないでよ。それより、話があるんだ」
カウンターの上に置いていた書類の束を、手元から滑らせるようにしてソフィーに差し出す。紙の束はずっしりと重そうで、ページの端が乱れている。ソフィーは目を丸くして驚いた。
「なに、この紙の量……?」
コリンは肩をすくめて言った。
「エドガー船長の協力者に関する報告だよ。これを海軍の上層部に届けてほしいんだ」
彼の言葉にソフィーの表情が曇る。
「私が、海賊と接触したって明かすこと?」
コリンは苦笑混じりにうなずいた。
「そうさ、でもそれを言わなきゃ何も始まらないだろう?」
ソフィーはため息をつきながらも、申し訳なさそうに首を振る。
「悪いけど、それは難しいと思う」
その言葉に、コリンの顔から明るさが一瞬消えた。凍りついたように固まる。
ソフィーは言葉を続けた。
「あなたたちは指名手配されている。私が海軍に戻った時、あなたたちのことを話してしまったから。全部私のせい。ごめんなさい」
コリンはその言葉にほっとしたような、だが複雑な表情で首を振る。
「いいんだよ。ソフィーも必死だったんだから。君の事情に文句なんて言わない」
ソフィーは書類の束を抱えながら迷いがちに言った。
「これ、隊長に渡してもいいかな?」
コリンの表情が一変し、視線が一気に暗く沈む。
思わず過去の一幕が脳裏をよぎる。ベルナルドを殺害するマクシムの冷たい目つき。
「マクシミリアンか……それは正直、いただけないな」
コリンはそう小さく呟いた。
「じゃあ、どうしたらいいのかしら……」
ソフィーは書類の束を抱えたまま、視線を落とした。声には焦りと苛立ちが入り混じる。
「エドガーには後ろ盾がいるっていう情報を掴んでくれたのに……私が役に立たないんじゃ……」
「いや、いいんだよ!」
コリンは手をひらひらさせ、笑ってみせる。
「無茶なことをさせようとした、ぼくたちの方が頭おかしいから」
自覚はあるのか、とソフィーは心の中で突っ込みつつも、口には出さなかった。
コリンは少し真剣な顔になり、カウンターに肘をついて身を乗り出す。
「そうだなあ……じゃあ、この情報を渡そう。口伝だから、よく聞いてね」
その声色は低く、昼間の酒場の空気が一瞬冷えたように感じた。
「次の襲撃は今夜だ。急いで戻った方がいい。奴ら、今度はちゃんと姿を見せて殺しにくる」
「そんな……」
ソフィーの胸が締めつけられる。
脳裏に浮かんだのは、仲間たちの顔。それでも彼女は表情を引き締め、コリンをまっすぐ見て言った。
「ありがとう、コリン。必死の思いで伝えてくれて」
コリンは首を横に振って笑う。
「ううん、お互い様だ。それに、ぼくたちはやりたいことのために動いてる。でも……」
コリンは天井を仰ぎ、手で髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「ソフィーに情報を渡せないとなると、もう自分たちでやるしかないかあ」
誰に向けるでもない、吐き出すような独り言だった。やがてコリンは軽く片手を上げて笑う。
「じゃあ、また会えたら会おうね。それまで、生きててよ」
ソフィーも口元に小さく笑みを浮かべた。
「ええ、コリンも……みんなもね」
二人は並んで酒場の出口へ向かう。ふと、ソフィーが周囲を見回して首をかしげた。
「そういえば、なんでこの酒場、こんなにガラガラなの?」
「ぼくが賄賂で外に出てもらってるから。それを毎日やって、すごく待ったんだよ」
「ごめんね。本当はすぐ行きたかったんだけど……体調崩してた」
「え、大丈夫? それ聞くと余計心配になるなあ」
やり取りはひととき日常に戻ったように軽く、柔らかい。だがソフィーはふと思い出し、歩みを緩める。
「そうだ、私からも情報」
「ん? なになに?」
「フェルナンドと、コルヴァンを名乗ってた内通者が毒を盛られて危うく殺されるところだったの。これも……エドガーの仕業?」
コリンは一瞬、目を瞬かせて固まった。
「え、それは知らない」
「やっぱり……別の勢力がいるのね」
コリンは腕を組み、考え込むように視線を落とす。
「もしかしたら、その書類の中にヒントがあるかも。頑張って読んでみて」
「うん、そうする」
酒場の扉が、きぃ、と音を立てて動く。外には陽光と喧噪が待っていた。そのまま押し開けると、外気がひやりと頬を撫でた。
ちょうどその時、通りの角からグウェナエルが現れた。彼は二人の姿を見て足を止め、目を細める。
「……こんな所で何をしてる」
彼の低く鋭い声にコリンはすぐさま口端を吊り上げた。
「おや、偶然だね。あんたこそ、海軍の制服でこんな裏通りとは」
「お前に言われる筋合いはない」
「そりゃそうだよ。でも、妙な因縁ってやつはあるもんでしょ」
二人の視線が火花を散らすようにぶつかる。
空気が瞬く間に張り詰め、ソフィーは思わず一歩前に出た。
「二人とも、今はやめて」
彼女の声は鋭さを帯びていた。
グウェナエルは眉を寄せ、コリンは片手を上げて肩をすくめる。だがその目は互いを警戒する色を解いてはいない。
ソフィーはコリンへと向き直る。
「コリン。この情報、本当に私がもらっていいのね」
ソフィーが腕に抱えた書類の束を見やりながら問うと、少年は肩をすくめてうなずいた。
「うん。このまま持ち帰ったってしょうがないしね。この際、ソフィーに全部あげるよ」
「コリンはこれからどうするの?」
「ぼくは早馬で帰るとするよ」
「ほう、貴様も馬に乗れるのか」
グウェナエルが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「まあね。こう見えて器用だからさ」
コリンは軽く手を振り、「それじゃ、ぼくは失礼するよ。みんな気をつけてね」と言い残して駆けていった。小柄な背が角を曲がるまで、ソフィーは黙ってその後ろ姿を見送る。
「グウェナエルさん、急ぎましょう」
「何かあったのか?」
「今夜、襲撃が来るんですって。コリンが言ってました」
グウェナエルの表情が引き締まる。
「……帰るぞ。乗れ」
ソフィーは書類を鞄に収め、鞍に飛び乗る。
二人を乗せた馬は冷たい海風を切ってブレストへと駆けていった。
昼の薄明かりが執務室の窓を淡く染める中、ソフィーはコリンから受け取った書類の束を抱えてマクシムのもとへ戻ってきた。息を整えながら、彼女は静かに口を開く。
「隊長。酒場での話、報告しますね。手紙の主はコリン。五人組の一人、コリンから詳しい情報をもらいました。彼らは今夜、ブレスト城を襲撃するつもりです」
マクシムは無言のままソフィーの差し出した報告書を受け取り、じっと目を通し始めた。ページをめくる音だけが室内に響く。やがて顔を上げ、マクシムの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「実は、一つ提案があります」
彼は資料を指差しながら言った。
「この報告書を書いたのは東洋人のリー・ウェンです。筆跡に見覚えがありますね」
ソフィーは少し眉をひそめる。
その脳裏には、夜中に彼が穏やかな笑顔と共に突然現れて「お土産です」と言いながら自分にあの毒を預けてきた光景が蘇ってつい頭を抱えた。
「またあの人ですか……ほんと、どこにでもいますよね。じゃあリー・ウェンは五人組とも繋がっているってことですか?」
マクシムは頷いた。
「ええ、そういうことになります。」
彼の目は遠く過去の記憶を映し出すように揺らいだ。
「数日前、彼がここへ来たでしょう? 僕が彼に依頼を出して、使いへ送るためです。やはり彼は海賊陣営でも引っ張りだこですね」
軽く肩をすくめて微笑む。
「まあこの際ですから。リー・ウェンにはお仕置きとして、君の代わりに罪を被ってもらいましょう。上層部への報告は僕に任せてください」
ソフィーは困惑したままも静かに了承の頷きを返した。
「わかりました……隊長にお任せします。」
すると間もなく執務室の窓が軽くノックされた。
窓の向こうにはすでに準備を終えたグウェナエルが馬に跨って立っていた。
「早馬でこの手紙を、今すぐ本部に届けてくれ」
マクシムはグウェナエルに手紙と報告書を手渡す。
グウェナエルは一瞥すると、馬に跨ったまま短く頷いた。
「わかった。今夜のために準備は万端だ」
窓が閉まると同時に執務室には静寂が戻った。外では潮風が吹き抜け、蹄鉄と遠く波の音が不気味に響いている。
マクシムはじっと窓の外を見つめながら、戦いの夜の到来を静かに待っていた。
「僕たちも直ちに向かいましょう。時間がありません」
「了解です!」
ソフィーは敬礼し、すぐさま医務室へ向かった。
昼下がりの光が大きな窓から差し込み、執務室の中を柔らかく包んでいた。
重厚な机の前に座るエリオットは穏やかながらも鋭い眼差しで二人を迎える。
アルフォンスとグウェナエルは少し緊張した面持ちで、マクシムから託された手紙と資料を手にしていた。アルフォンスが口を開く。
「大元帥殿、マクシミリアン隊長より託された情報を持参しました」
続けてグウェナエルが報告を始める。
「我が部隊と親交の深い東洋人、リー・ウェンという商人が港で海賊と思しき人物たちの会話を目撃しました。その内容と関連する報告書も入手しています」
グウェナエルは資料を机の上に置きながら視線をエリオットに向ける。
「手紙に書かれていた通り、今夜ブレスト城を襲撃する計画があるようです」
エリオットは静かに頷き、資料に目を落とす。
「リー・ウェンの名前か……。確かに信頼できる情報源だ。マクシミリアン・ブーケ隊長の迅速な対応に感謝したい」
部屋の空気が一瞬、引き締まる。
「今夜の防衛体制を強化し、全隊に警戒を徹底させよ。何があっても城を守り抜くのだ」
エリオットの言葉にアルフォンスとグウェナエルは顔を見合わせ、強く頷く。
「承知いたしました、大元帥殿」
窓の外、穏やかな昼の風景とは裏腹に城内では緊迫した空気が静かに広がっていた。
グウェナエルが執務室を出ていくと、アルフォンスは少し間を置いてからエリオットに声をかけた。
「大元帥、リー・ウェンってどんな人物なんですか?」
エリオットはゆっくりと顔を上げ、窓の外を見やるように視線をさまよわせた。
「東洋の商人だ。生業は交易だが、その名声は広く幾つもの貴族の邸にも招かれるほどの著名人だ。そうか、マクシミリアンとも親交があったとはな……それは知らなかった」
エリオットはテーブルに置かれた報告書に目を落とし読み進めていく。
「……やはりな。エドガー海賊団に手を貸す者がいるとしたら、あそこしか考えられん」
アルフォンスは眉をひそめ、問いかける。
「……それは、一体どこなんでしょうか?」
エリオットはしばし沈黙し、重い口調で告げた。
「旧ブルボン派だ」
この言葉にアルフォンスの顔が一瞬引き攣ったのを、エリオットは見逃さなかった。
「アルフォンス、すぐに戦闘準備だ。全ての者に告げよ」
空気が一変し、窓の外の明るい陽光の下でも部屋は鋭い緊張に包まれた。




