第二章⑨ ソフィーとグウェナエル 続き
波音と馬蹄のリズムが心地よく響く中、ふたりはしばし言葉を失っていた。けれど、沈黙は重苦しいものではなく、どこか穏やかで清々しい。
ソフィーはそんな空気に背を押されるようにふと口を開いた。
「戦いといえば……グウェナエルさんって、大きな怪我しませんよね」
不意打ちのような問いかけに、グウェナエルは片眉を上げて振り返る。
「ん? ああ、そうだな」
「それに、乗馬の腕も良いです。さっきから体幹が一切ブレてませんよ」
ソフィーの純粋な敬意がこもった声音に、グウェナエルはわずかに表情を固くした。
「……急に褒めてくるな。一体なんだ?」
彼の警戒めいた声音に、ソフィーは思わず笑みをこぼす。
「え? 素直に言葉を伝えただけですよ」
肩をすくめながら、無邪気にそう言う彼女。その屈託のない笑顔に、グウェナエルは少しだけ目を逸らし、唇の端を引き結んだ。
「……なんか怖えよ」
照れ隠しのような彼の呟きに、ソフィーの笑みはますます明るさを増していった。
馬の背に揺られながら、ソフィーの視線はふとグウェナエルの横顔に吸い寄せられた。
グウェナエルの双眸は暗闇を裂く剣のように鋭く、深いラピスラズリの青が夜気の中で冴え渡っている。
一瞬、畏怖に近い感覚が胸を締めつける。だが次の瞬間、その瞳の奥に燃える静かな炎がなぜか心を離さなかった。
髪は肩まで届く長さのストレートで、灰色がかった銀色が淡く光を受け、微かに揺れるたびに冬の夜の冷たい光を映す。同じく肩まで伸びた前髪は額を軽く覆い、顔の横で自然に分かれて立ち上がる。
長い前髪と首の後ろで緩やかに結ばれた後ろ髪が風にそよぐたびに柔らかな波を描き、静かな輝きを帯びていた。
その姿は冷徹に見えて、秘めた激情を孕んでいるようで、ソフィーの胸に微かな熱を残した。
怖さと同時に、目を離したくないという衝動。それがどこから湧くのか自分でも説明できなかった。
潮風が頬を撫で、海岸線を駆ける二人の間にふと静寂が訪れた。
グウェナエルの瞳が遠くを見つめ、低く口を開く。
「俺の生まれはイタリア。地方貴族の家柄でな、昔はグスターヴォ・ベルティという名で呼ばれていた。元は陸軍志望で、二年で士官学校を卒業した」
ソフィーは彼の言葉にじっと耳を傾ける。グウェナエルの声は静かだが、その奥に複雑な影が潜む。
「だが、戦場で俺は一度死んだ。比喩じゃなく、文字通りだ」
言葉の重みにソフィーの胸がざわめく。
「……死んだ? でも、こうして生きているじゃないですか」
グウェナエルは短く吐息をつき、続けた。
「ありのまま話すと、死んだ俺の元に『空から来た』という連中が現れてな、俺を生き返らせた。だが、それから俺は研究に使われた。詳しいことは覚えていないんだ」
波音に混じって、彼の語る過去が不思議な余韻を残す。
「その後、俺は海に放り出された。漂流していたところをフランス海軍に拾われたんだが、言葉もわからん異邦人でな。まだ士官候補生だったシャルルが通訳になってくれた」
ソフィーが問いかける。
「まだ?」
グウェナエルは苦笑を浮かべる。
「まあ、気になるよな。で、俺はシャルルに助けられてフランス語を覚えて、帰化して海軍士官学校へ。それから月日は経って今に至る」
潮風が頬を撫で、海岸線の波のざわめきが静かに二人の間に響く。
ソフィーの瞳が真剣に光った。
「じゃあ、グウェナエル・ブランシェは帰化したときの名前なんですね?」
「そうだ。シャルルが命名してくれたんだ。ただ……俺には大きな疑問が残っていた」
グウェナエルの声は低く、波音に溶け込むように静かだ。
「俺が戦死してから漂流して救出されるまでの間、何十年も空いていたことだ」
ソフィーの胸がざわめく。
「え、どういう意味ですか?」
グウェナエルの声には、知らなかった過去に触れる緊張感が滲む。
「……卒業後の俺は第四部隊で、シャルルと士官候補の後輩たちに教鞭をとっていた。二人で休暇を利用して、祖国イタリアで自分がどんな扱いを受けているのか調べるために行った。だが……」
その言葉とともに、彼の瞳に影が落ちる。
「そこで改めて知った真実は、俺にとって耐え難いものだった。やはりグスターヴォ・ベルティは何十年も前に戦死扱いになっていた。前の俺は、今も死んだままだ」
ソフィーは息を呑んだ。波の香りに混ざって、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚が走る。
彼の言葉の重みが砂浜に打ち寄せる波のリズムのように、静かに心に刻まれた。だが、グウェナエルは止まらない。
「俺としては、ずっと時が止まったままの感覚だった。体感では短くても、現実では長い時間が経っていたらしい……。だから、今も自分の年齢がよくわからない。戦死した時、俺は二十六だった。今でも二十六で止まっているのか、ちゃんと歳を重ねているのか……全くわからん」
ソフィーはその言葉を胸の奥に抱え、目の前の人物の背負ってきた時間の重さに言葉を失う。
「……そんなにも長く、孤独な時間を」
波の音にかき消されるように、彼女の声は小さく零れた。瞳に映るグウェナエルの姿は荒海を生き抜く虎のように孤高で強く、どこか痛みを秘めたものだった。
それからグウェナエルは神妙な顔でどこか自嘲気味に言葉を紡いでいく。
「そんなわけで、そこから海軍内に変な噂が流れた。『あいつ、身元不明の異邦人なんだ』と。だから、素性の知れない奴には軍籍を与えられない」
ソフィーはグウェナエルの言葉に胸を打たれ、波のざわめきの中で静かに思いを巡らせた。
「こんなにも命を懸けてきた人が、たった一枚の書類や出自のせいで評価されないなんて……」
彼の瞳に宿る哀しみと孤独を思うと自然と胸が締めつけられる。けれど同時に、彼が戦場で生き抜き、仲間を守り、己の力を信じて立っている姿に尊敬と畏怖が入り混じった感情が湧き上がった。
「……それでも、ここにいる。誰にも認められなくても、俺は俺であり続けている」
グウェナエルの言葉を胸の中で反芻しながら、ソフィーは小さく息を吐いた。
「強い人……だけど、孤独な人……」
その感情を噛み締める間も、潮風は二人の間に静かに流れ続けた。
戦場で生きる虎のようなグウェナエルに、畏怖と同時に心が吸い寄せられていく。それは彼女自身も戸惑うほどの自然な感覚だった。
その後、グウェナエルの表情が再び陰る。
「ペネロペやジョルジュのような孤児には階級が与えられても、俺には勲章すら一生無理だろうな」
その時、ソフィーの言葉が強く響いた。
「そんなの、不公平です。あなたは一番部隊のために命を張ってるのに」
「心配かけて悪いが、俺は平気だ」
遮るように言い切った彼の瞳には、決して消えない哀しみと覚悟が宿っていた。
それからグウェナエルは一瞬、闇の中で鋭く光るその瞳をソフィーに向けた。
まるで長年戦場を生き抜いてきた獣のように、確かな重みと冷たさを湛えた目だったが、どこか翳りもあってその奥に秘められた痛みがちらりと見え隠れする。
「悪いことばかりじゃない。俺は回復が普通の奴よりずっと早いんだ。空から来た連中——あいつらの研究のせいかもしれないがな」
グウェナエルの声には無機質さとどこか誇らしげな響きが混じっていた。
彼の過去の凄絶さを思わせる、その語り口には無意識に自分の力を示したいという欲求があった。
「陸軍士官学校時代から戦場に引っ張り出されたが、一度死んでからは重傷も負わずに済んでいる。……それに、戦況もよく見えるようになったんだ」
静かな口調で語る彼の背筋はピンと伸び、手にした手綱を力強く握り締める。その目は闇の中でも、明晰に動きを捉える狩人のそれだった。
「暗闇でもよく見える。敵の動きもゆっくり、鮮明に見える。俺はこの眼をまるで武器のように使っている」
前髪の下でラピスラズリのような瞳が静かに輝いた。
ソフィーはそんなグウェナエルの姿に思わず息を飲み、じっと見つめ返した。
彼の言葉の重みだけでなく、背負ってきた過去も感じ取っていた。
「自分の武器を最大限に発揮できるなんて……なかなかできることじゃないですよ」
そう伝える彼女の声は穏やかながらどこか強さを秘めていた。相手を認めると同時に励まそうとする優しさが滲んでいる。
「やっぱり、グウェナエルさんは良い人です」
ソフィーの言葉にグウェナエルのいつもの冷たい剣のような視線がわずかに揺らいだ。眉間に一瞬だけ皺が寄り、不意に照れくさそうに苦笑したようにも見える。
「は? 今の会話の流れで、なんでそれ言うんだ」
彼の口調は少し困惑し、どこか素直になれない様子が滲み出ていた。
ソフィーは微笑みを浮かべ、少しだけ顔を傾けて静かに言った。
「私はね、人のことは全部ひっくるめて見るんです。いいところも悪いところも。全部合わせて、トータルで」
ソフィーの瞳は優しく、真剣にグウェナエルを見つめていた。
「そして、感情も五感を使って余すところなく感じ取れる。……医者として、必要な特性かもしれませんね」
彼女の声には自分の力に対する誇りと、同時にその重さを背負う覚悟も感じられた。
グウェナエルはゆっくりと頷いた。表情は和らいでいるが、どこか物悲しさを帯びている。
「羨ましいことだ。だがな、受け止めるものが大きすぎて壊れちまうなよ。お前、前に倒れたばかりじゃないか」
彼の声には心配と時折見せる男らしい優しさが混じった。
ソフィーはふっと笑みを返し、肩の力を少し抜いて柔らかく答えた。
「ご忠告、ありがとうございます」
その後、少し沈黙が流れる。そして、彼女は静かに言った。
「グウェナエルさん、あなたは自分が思っているよりずっと良い人なんですよ」
暗い海風が二人の間にそっと吹き込み、重たかった空気がほんの少しだけ和らいだように感じられた。
互いに背負うものは違えど、ここにほんの少しだけ心の距離が縮まった瞬間だった。
「着いた。ここだな」
強風に煽られた海辺の道を疾走し、ようやく手紙に記された酒場にたどり着いた。
昼下がりの空はまだ明るく、陽光が波間を煌めかせている。
潮の香りと強風を背にグウェナエルは馬のたてがみに手をやりながら静かに立っていた。瞳の奥には鋭い警戒心が光るが、その表情はどこか落ち着きを保っている。彼の長く束ねられた髪が風になびき、薄曇りの昼空に揺れていた。
一方、ソフィーは一瞬深く息を吸い込んだ。まだ手のひらに熱を残す緊張感を感じながら、足元の砂利を踏みしめる。馬の蹄の音が遠ざかり、彼女の胸はひそかに波打った。
ここは見知らぬ場所、酒場の扉の向こうには未知が待っている。
重厚な木製の扉を前にして、ソフィーの心臓はどこか遠くで鼓動を刻んでいるように感じられた。
「ここで何を見つけるのだろう」
その思いが胸にひっそりと息づき、彼女は覚悟を固めた。
誰にも告げなかった決意の一歩。未来への扉は今、彼女の前で静かに開かれようとしている。
グウェナエルは馬のたてがみを軽く撫でながら、鋭い瞳でソフィーを見つめた。
「何かあったら、すぐに叫べ。気をつけろよ」
彼の声は低く、けれども確かな重みを帯びている。闇の中で幾度も戦いを潜り抜けてきた男の言葉には、ただの忠告以上のものが込められていた。
ソフィーはその言葉に感謝を込めて、静かに頷いた。
「わかりました。気をつけます」
彼女の瞳には覚悟と決意が揺らめき、しかしどこか温かな安心感も宿っていた。
そのまま、ソフィーは深呼吸してから酒場の重い扉を押し開けた。
昼下がりの陽光が差し込む店内は、意外にも閑散としていた。木製の床はところどころに古びた傷跡を残し、壁の角にはかすかな埃が積もっている。暖炉の火も消え、いつもなら活気で満ちているはずのこの場所は、まるで眠りから覚めていないかのようだ。
カウンターの向こう、酒場の奥に目をやると、そこには昼間からグラスを傾ける一人の少年の姿があった。
無造作に乱れた黒髪、あどけない表情。
見覚えのあるその姿は……五鬼衆の一人、コリンだった。
ソフィーは一瞬息を呑み、そして静かに足を踏み入れた。




