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第二章⑧ ソフィーとグウェナエル

 夜明け前の冷え切った空気を切り裂くように、ソフィーは誰にも告げずに宿舎を飛び出した。

 まだ闇の名残を帯びた海辺に、すでに馬を準備して待つグウェナエルがいた。

 まだ馬に乗らず、リー・ウェンの黒馬の側に立って首を撫でている。彼の腰のサーベルが暗闇の中でわずかに光を反射している。

「俺の後ろに乗れ。しっかり掴まれよ」

 グウェナエルがそう言った直後、ソフィーは迷いなく鐙に足をかけて一人で馬に乗ろうとした。

「おい、待て。無理に乗ろうとするな、俺が支えてやる」

 慌てて声を上げるグウェナエルに、ソフィーは振り返らずに淡々と返す。

「大丈夫です。乗馬の訓練は受けていましたので」

 ソフィーの一言に、グウェナエルの表情が一瞬固まった。

「……は?」

「あなただけが馬に乗れると思わないでくださいね」

 澄ました声で言い切ったソフィー。その背に、男装時代の彼女の影がちらりとよぎる。

 彼女はかつて訓練で幾度も馬を駆ったのだ。

 しかし、助けを拒まれた形になったのが気に障ったのか、グウェナエルの眉がぴくりと動いた。

「……へえ」

 グウェナエルが低く呟いた次の瞬間、彼の腕がソフィーの腰に回る。

「きゃっ!?  な、なにを!」

 抗議の声を上げる間もなく、ソフィーの身体は宙に浮いていた。まるで羽根のように軽々と抱え上げられ、気づけば彼の胸の中に横抱きの形で収まっている。

「いや、下ろしてください!」

 必死に足をばたつかせるソフィーだが、彼女を軽々と抱えたグウェナエルはそんな小さな抵抗を気にも留めず悠然と歩を進める。

「暴れるな。みっともないぞ」

「みっともないのは、こんな格好をさせるあなたです!」

 猫が全身で威嚇するたび、虎は肩をすくめて鼻で笑う。

「おろせってば!恥ずかしいでしょう!」

 腕の中でじたばた暴れるソフィーは、必死に爪を立てる仔猫のようだった。だが彼女を抱え込んだままのグウェナエルは大きな虎のごとく微動だにせず、余裕の笑みすら浮かべている。

「暴れるな。落としたらどうする」

「落ちる前に降ります!」

「……理屈になってないな」

 小さな牙と大きな牙の噛み合う口論は、もはや喧嘩というよりじゃれ合いにしか見えない。

 その様子を繋がれていたリー・ウェンの馬がちらりと横目で見やり、長い鼻息をひとつ。

 まるで「やれやれ」と呆れているかのように。

「さあ、乗せてやるから」

 鞍の前に立ったグウェナエルはソフィーを抱えたまま一歩踏み出す。だが、そこでふと動きを止めた。

「……あれ? どうして止まるんですか」

 不審そうに見上げるソフィーに、グウェナエルは口元だけで笑みを浮かべる。

「いや。罰として、このまま抱えてるのも悪くないと思って」

「なっ……!」

 ソフィーの顔に怒りと羞恥が一気に広がる。

「なんで今それ思いつくの!?」

「おや、その態度でいるなら、ずっとこのままだぞ?」

 挑発的に目を細めるグウェナエルの笑みに、ソフィーはぐっと言葉を詰まらせて結局、唇を噛んで小さく吐き捨てた。

「……いじわる」

 ソフィーの小さな抗議に、グウェナエルは喉の奥で低く笑った。だがその表情もすぐに引き締まり、声色はいつもの冷静なものに戻る。

「冗談はここまでだ。しっかり掴まれ」

 そう言うと、彼は迷いなく彼女の身体を軽々と持ち上げ、鞍へと座らせた。

 その所作に余計な揺れはなく、戦場で幾度も仲間を救い上げてきた者ならではの確かな力強さがあった。

 ソフィーは思わず彼を睨み上げたが、その瞳に宿る真剣さを見て言葉を飲み込む。

 やがてグウェナエルは自らも馬に跨がり、短く言い放った。

「——行くぞ」

 グウェナエルの強い手が手綱を握り締め、鋭い鞭音が夜空を裂いた。

 一瞬の静寂。次の刹那、馬が爆音のような蹄の響きを轟かせて砂浜を突進する。

 潮風が唸りをあげて二人を打ち、乱れ飛ぶ髪も衣も容赦なく引き裂かれる。

 波しぶきが飛沫となって頬を叩き、水平線は嵐のような速度で迫ってきた。

 馬の鼓動はまるで雷鳴のようにソフィーの胸に響き、背後から伝わるグウェナエルの体温と力強さがただならぬ現実を突きつける。

 ソフィーは必死にグウェナエルの背にしがみつき、呼吸すらままならぬ疾走の中で「生きている」という実感を噛みしめていた。馬の影が海辺を引き裂く閃光のように伸びる。

「進め——止まるな、命の限り!」

 無言の二人はただ疾風となり、海岸線を駆け抜けていった。


 やがて荒波を背に馬は勢いを落とし、徐々に闊歩のリズムに変わっていった。潮風は依然として冷たく、海の匂いが二人の間に漂う。

 グウェナエルの手綱さばきは落ち着き、ソフィーも自然と体の力を抜いた。

「やっぱり、馬に乗ると気持ちいいな」

 ソフィーが小さく笑う。

「俺もだ。……ただ、お前を乗せてると重いんだよな」

 グウェナエルが冗談めかして返す。

 ソフィーはクスリと笑いながら「じゃあ、次はもっと鍛えておきますね」と返した。

 グウェナエルが少し間を置いて、「ああ、頼む」とだけ答え、ふたりの間に穏やかな空気が流れた。足元の砂を踏みしめる音、遠くで波がさざめく音。これまでの緊張が少しだけ溶けていくようだった。

 やがて、グウェナエルがふと思い出したように問いかけた。

「……にしても、お前、なんで乗馬の訓練なんか?」

 ソフィーは一瞬迷ったが、海を眺めながら静かに言葉を紡ぐ。

「実家の跡継ぎ問題で、男装していた時期がありました。その頃に、訓練を受けていたんです」

 彼女の声は淡々としていたが、どこか過去の重みを帯びていた。

 グウェナエルはそれ以上深くは聞かず、しばし沈黙の後に低く言葉を落とした。

「……自分ではない誰かを、しかも性別を越えて演じるなんて、相当なプレッシャーだったろうな」

 ソフィーは少しだけ目を伏せ、そして小さく首を振った。

「でも——馬に乗っている時だけは自由でした。監視の目も届かないし、演じる必要もない。風を受けて走っているときだけ、本来の自分に戻れたんです」

 言葉の端にかすかな笑みが混じった。

 自由。それは彼女がずっと渇望してきたもの。

 グウェナエルはその響きを噛みしめるように黙したまま、しばらく潮風を共に受け止めていた。やがて低く問う。

「……今も同じように、自由を感じられているのか?」

 潮風がふたりの間を吹き抜ける。問いは強制でも詮索でもなく、ただ静かな確認だった。

 ソフィーは短く息を吐き、夜の海に視線を落とした。

「……昔と違って、今はひとりじゃないんです」

 彼女の声は波音に溶けそうなほど静かだったが、確かな熱を帯びていた。

「仲間がいて、支えてくれる人がいて……そして、あなたがいる。だからこそ、本当の意味で自由を感じられるようになったんだと思います」

 グウェナエルは答えず、ただ一瞬だけ手綱を引き直した。その仕草は無言のうちに彼女の言葉を受け止めるもののように見えた。彼は沈黙したまま蹄の音と波のざわめきに耳を傾けていたが、低い声でぽつりと口を開いた。

「自由、か……。俺にとっては、縛られずに戦えることだな。命を懸ける相手も、やり方も、俺自身が選べる。たとえ王命であろうと、自分の信じる道を外れるくらいなら、剣を折った方がましだ」

 彼の横顔は、潮風に切り取られて夜空の黒に浮かび上がる。

 ソフィーは彼を見上げ、ほんの少し首を傾げた。

「……私とは違いますね。私の自由は、戦わなくていいこと、でしたから」

 言葉の端にかすかな寂しさが滲んだ。だが次の瞬間、ソフィーは笑みを浮かべる。

「でも、不思議です。戦場に出るあなたが……戦いから解放された自分を自由と呼ぶ、そんな私を認めてくれるなんて」

 グウェナエルの口元に微かな笑みが刻まれた。

「認めない理由はない。自由ってやつは、人の数だけ形があるもんだろう」

 彼は短く言い切ると、海辺を進む馬の鬣を撫でた。

「……お前の言う自由が俺には眩しく見えることもある。戦いに慣れすぎた俺には、手の届かないものだからな」

 ソフィーはその言葉に胸を突かれ、思わず言葉を飲んだ。

 彼の瞳に一瞬だけ宿った翳りが、夜の海よりも深く見えたからだった。

 ソフィーは海の匂いを含んだ風を吸い込み、少し考え込むように視線を落とした。

「……でも、戦い続けることは、あなたを不自由にしているんじゃないですか?」

 彼女の問いかけに、グウェナエルはわずかに眉を寄せた。

「いや。俺にとっては逆だ。戦っている時こそ、生きてるって実感がある」

 彼の低い声には、確固たる響きがあった。

「血を流し、痛みを知ってなお立つ。そうやって初めて、俺は『俺自身』でいられる。だから俺にとって自由は——生きることそのものだ」

 グウェナエルの言葉に、ソフィーはハッと顔を上げた。

「……生きること、が自由……」

 ソフィーが呟いた声は波音にさらわれ、夜に溶けた。

 グウェナエルはちらりと後ろを振り返り、ソフィーの瞳を射抜くように見据える。

「お前が言った『自分に戻れる自由』。それも、生きていなきゃ手に入らないだろう。だから結局、俺とお前の自由は同じ根っこにあるんだ」

 ソフィーは一瞬、言葉をなくした。

 彼の言葉はあまりにまっすぐで、荒削りな分だけ胸に突き刺さる。やがて、ソフィーは唇の端をわずかに上げる。

「……あなたって、言葉は粗野なのに、時々ものすごく正直ですよね」

 グウェナエルの口元に、にやりとした笑みが浮かんだ。

「正直じゃなきゃ、生き残れねえ」

 二人の笑い声が、夜の海岸にかすかに溶けていった。

 ソフィーは彼の言葉を噛み締めながら、胸の奥で小さく揺れる思いを形にした。

「……でも、ただ生きるだけじゃ、足りないんです」

 グウェナエルがわずかに目を細める。

「ほう?」

「生きる中で、何をするか。どんなふうに在るか。それを自分で選べることが——本当の自由だと思います」

 ソフィーの声は静かだが、その瞳には確かな熱が宿っていた。

 一瞬、夜風の中で沈黙が落ちる。やがてグウェナエルは鼻で笑い、肩を揺らした。

「ずいぶん贅沢な自由を望むじゃねえか」

「贅沢でも、望むのは自由ですから」

 ソフィーはあくまで真顔で言い返した。

 グウェナエルはしばし彼女を見つめ、やがて口の端を上げる。

「……いい目だな。まるで獲物を狙う猫みてえだ」

「あなたは虎でしょう? 私が相手でも容赦しない」

「当然だ」

「……ふふ、やっぱりいじわる」

 二人の声は波に溶け、重なり合う潮騒に混じって消えていった。

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