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第一章⑥ マクシミリアン隊

 ソフィーの疲労は身体の隅々まで染み渡り、歩くたびに心が重く沈んでいくようだった。しかし、報告を果たすまではこの疲れを押し殺さねばならない。

 彼女の眉はわずかにひそみ、真っ直ぐに前を見据えていた。


 道中、宿舎の石造りの壁が柔らかく夕陽に染まり、窓からは隊員たちの笑い声や談笑が聞こえてきた。

 ソフィーはその声を聞き流しながら、すれ違う隊員たちに軽く会釈を返す。心の余裕はほとんどなく、言葉を交わす気力も湧かなかった。

 やがて宿舎の大きな扉が目の前に迫る。ソフィーは深く息を吸い込み、冷えた金属の取っ手を握って扉を押し開けた。中に一歩踏み入れると、温かな照明が彼女を迎えた。木の床が静かに軋み、廊下にはわずかな生活の気配が漂う。

 ソフィーは廊下の壁沿いを歩きながら、肩にのしかかる重圧を感じつつも、無言で執務室へと足を運んだ。なんだか視界がやけに揺れている気がした。歩きながら、頭の片隅に違和感がチクチクと刺さる。それでも、彼女は真っ直ぐにマクシムの執務室の扉へと向かい、軽くノックを打った。

「どうぞ」

 中から穏やかな声が返ってくる。扉を開けるとマクシミリアン・ブーケ隊長が机に向かい、手紙に目を落としていた。彼はいつも通りの落ち着いた笑みを浮かべ、ソフィーを迎え入れた。

「お疲れ様。大変でしたね」

 ソフィーはその穏やかな表情を改めて目にし、しばらく声が出なかった。

 こんな穏やかな顔を見るのは久しぶりだと思いながらも、彼の柔らかなまなざしに心の奥が揺さぶられた。

「ん? どうかしましたか?」

 マクシムが少し首をかしげて問いかける。

「……いえ、報告にあがりました」

 ソフィーはやっとの思いで口を開いた。この人は本当に、何もかもわかっているのかいないのかと思いつつも、言葉を選んで報告を始める。

「本来は口外禁止の案件でしたが、ボナパルト副司令官がマクシミリアン・ブーケ隊には話してよいと許可をいただきました。休み中にもかかわらず、私を貸してくださったこの部隊に感謝しているそうです」

 マクシムは静かに頷き、温かな声で返した。

「そうですか、それは光栄です」

 ソフィーは深く息をつき、改めて口を開いた。

「フェルナンドとベルリオーズさんが突然倒れた件ですが、診察の結果、原因は毒物であることが判明しました。詳しく調べたところ、海賊や暗殺者が用いる二段毒という手口が使われていました」

 マクシムは静かに頷き、メモをとりながら聞いている。

「彼らに配膳された食事に毒が混入していた疑いがありましたが、その人物は姿を消しており、現在も捜索中です」

 ソフィーの声には緊迫感がにじんでいた。

「荒治療によって二人は一命を取り留めましたが、明確にエドガー・ロジャースの指示によるものではなく、別の勢力が関わっている可能性があります。これは、エドガー海賊団にとっても想定外の事態のようです」

 マクシムの表情がわずかに険しくなった。

「現時点で判明しているのは以上です。今後も細心の注意を払い、動向を注視していく必要があります」

 マクシムは深く息をつき、静かに言った。

「わかりました。報告ありがとうございます。ソフィー、君の迅速な対応には感謝していますよ」

 ソフィーが報告を終えると、しばしの沈黙が室内を包んだ。マクシムは窓の外をじっと見つめ、ゆっくりと口を開く。

「今回の件は、単なる毒殺未遂以上の意味があるように思える」

 彼の声は落ち着いているが、その奥に強い危機感が滲んでいた。ソフィーは一歩前に踏み出し、真剣なまなざしで尋ねた。

「隊長は、この状況をどうご覧になっていますか?  私としては、次に何をすべきか判断を仰ぎたくて」

 マクシムは軽く頷き、ゆっくりとこちらを振り返った。

「まずは情報の整理と、味方内の警戒強化が必要でしょう。ですが、何より重要なのは冷静さを失わず、焦って動かないことです」

 彼の目が真っ直ぐにソフィーを捉える。

「君が今回見せた判断力と冷静さがあれば、この難局も乗り越えられると信じているよ」

 ソフィーは少しだけ安堵し、決意を新たにした。

「ありがとうございます。全力を尽くします」

 突如、ソフィーの視界が大きく揺れた。疑問に思う間もなく、周囲の色彩が歪み、ぐちゃぐちゃと混ざり合っていく。頭の中で激しい鈍痛が波のように押し寄せ、ガンガンと轟き始めた。

 マクシムはその異変には気づかず、思い出したように口を開いた。

「そういえば、僕からも話があってこの……」

 しかし、話の途中で彼が再び手紙に目を落とし、手を伸ばそうとした瞬間、突然、室内に重いものが倒れる音が響いた。振り返ったマクシムの視界に、ソフィーの姿が見えない。胸騒ぎを覚え、彼は即座に立ち上がり辺りを見回す。

「ソフィー!」

 声を張り上げ、マクシムは倒れている彼女の元へ駆け寄った。彼女は床にうつ伏せに倒れ、微かに動いてはいるものの意識は朦朧としていた。慌てて肩を揺すり、呼びかけを続ける。

「しっかりしろ! 誰か! 頼む、助けてくれ!」

 マクシムの声は執務室の外へと響き渡り、すぐに数人の隊員が駆け込んできた。

「隊長!どうしました!」

 ダヴィットが真っ先に駆け寄り、その険しい表情にすぐ異変を察した。

 リラは慌てた様子でソフィーの脈を確かめる。

「脈が乱れてる……すぐに手当てが必要です!」

 ダヴィットが素早くソフィーの体を支え、優しく抱きかかえた。

「しっかりしろよ、ソフィー。すぐに医務室へ連れて行きます」

 騒ぎを聞きつけた周囲の隊員たちが道を開け、ダヴィットは迷うことなく宿舎内の医務室へと足を速めた。一方、リラとグウェナエルは顔を見合わせると、即座に頷き合った。

「アニータを探しに行きましょう。彼女ならすぐに駆けつけてくれるはずです」

「了解。急いで見つけてくる」

 二人は慌ただしく廊下を駆け出し、宿舎内の他の隊員たちに声をかけながらアニータの居場所を探し始めた。マクシムはその様子を見送りつつ、なおソフィーの安否を気遣いながら医務室の方へと目を向けていた。

 シャルルが慎重に隊長の顔を覗き込んだ。

「隊長? 悍ましい顔をしてますよ。どうかしたのですか?」

 マクシムは険しい表情のまま、低く呟いた。

「さっき、ソフィーと二人で毒物の話をしていたんだ。フェルナンドとベルリオーズが倒れた原因は、毒を盛られたことだった」

 シャルルの目が見開かれ、声に緊張が混じる。

「なんですと!? 最悪だ……しかし、最悪の場合も想定しなければならない」

 マクシムの顔に更に影が差し、声に震えが混じった。

「なんとしてでも救え。彼女の身に何かあったら、僕は……」

 その鬼気迫る表情にシャルルは一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻し、口調を穏やかに変えた。

「隊長、まずは医師の判断に任せましょう。ブレスト内の医務局に赴き、すぐに医者を連れてきます」

 マクシムはわずかに息を整えながらも、焦燥を隠せない。

「刻は一刻も争うんだ」

 シャルルは腕を組み、強い口調で諭す。

「落ち着いてください。グウェナエルに行かせましょう。あいつは乗馬も得意ですし、迅速に動けます」

 マクシムはその言葉にうなずき、鋭い目でシャルルを見返した。


 医者は診察台の前で慎重にソフィーの様子を見つめ、しばらく考え込んだ末に言った。

「うむ……疲労ですな」

 その言葉に、マクシミリアン・ブーケ隊の面々はふうっと安堵の息を漏らした。

 宿舎の医務室には隊の全員が詰めかけており、鋭い視線を医者に向けていた。

 医者はその重圧に冷や汗をかきながらも、診察を続ける。

「ただし、高熱がひどい。風邪ではないが、しばらくは安静にしていたほうがいいだろう」

 マクシムは深く頭を下げ、感謝の意を伝えた。

「ありがとうございます。急遽の対応に感謝します」

 医者は柔らかな笑みを浮かべながら周囲を見渡し、部隊全員の表情をざっと眺めた。

「あなた方の表情を見るに、彼女は相当愛されているのですね」

 隊員たちの何人かは顔を見合わせ、思わず微笑みがこぼれた。医者は続けた。

「医者として信頼されているというのは、本当に羨ましいことですな」

 リラが冗談交じりに言う。

「先ほどの男が貴方を医務局まで送りましょう」

 医者は苦笑しながら首を振った。

「いや、私は馬車で失礼しますよ。馬に直乗りするのは、想像以上に大変なものだと実感しましたからね」

 そう言うと医者は鞄を手に取り、一礼して医務室を後にした。

 ジョルジュは肩の力が抜けたように背を伸ばし、にこやかに笑った。

「いやー、ひとまず安心したよ」

 疲れがにじむ顔だが、今だけはほっとした空気をまとっている。

「最近、みんな働き詰めだったからなあ」

 その声は温かく、仲間への思いやりが滲み出ていた。

 ペネロペは腕を組み、額にかかる髪を軽くかき上げながら言った。

「最悪、また軍医を失うかと思ったよね」

 その声には鋭さと緊張が混じっている。顔にはやや疲労の色が見えるが、口元にほんのわずかに笑みを浮かべた。

 シャルルは険しい目つきでマクシムをチラリと見た。その視線は言葉にできない心配を語りかけている。彼の口調はいつも冷静だが、今はその裏に隠された焦燥が透けて見える。

 マクシムはソフィーから目を離さず、その顔には深い憂いが刻まれていた。

 その時、メリッサが元気よく身を乗り出し、眉をひそめて尋ねる。

「それより、グウェナエルさんはいつ馬を飼い始めたんですか!?」

 彼女の明るい声が場の空気を一瞬和らげる。好奇心旺盛で無邪気な雰囲気が漂う。

 グウェナエルは腕を組み、無表情で答えた。

「……今日からだ」

 その冷静な声には、あまり興味がないような素振りが混ざる。視線は中庭の黒い馬に向けられていた。その馬は東洋人リー・ウェンが残していったもので、隠されていたが今は堂々と闊歩している。

 ダヴィットは眉をひそめ、不安げに問いかける。

「許可は取れてるのか?」

 彼の真面目な性格が顔に表れている。周囲の様子を気にかけつつ、慎重に言葉を選ぶようだった。

 サミュエルは肩をすくめて笑みを浮かべる。

「まあまあ、そのおかげで早く診察してもらえたんだ。ありがとうな、グウェナエル」

 飄々としていて、場を和ませるムードメーカー的存在だ。ロザリーは控えめに微笑みながら呟いた。

「相変わらずね」

 その言葉には軽いからかいが含まれているが、温かさも感じられた。

 アニータは少し前に出て、大きな声で指示を出した。

「ほら、そろそろ帰った帰った! みんな解散!」

 統率力のある態度で、場をまとめることに慣れている。

 マクシムは重苦しい表情を崩さず、ソフィーの様子を気遣いながらも内に抱える不安が滲む。彼の眼差しは深く、心の奥に隠した弱さが垣間見えた。

 アニータが静かに声をかける。

「隊長? どうかしましたか?」

 マクシムは答えを濁しながら、かすかに呟く。

「ここで彼女を失ったらという最悪のことを考えていました」

 彼は自身の無力さに苦しみ、言葉を続ける。

「ソフィーが倒れたとき、僕は他人に助けを求めることしかできませんでした。自分の無力さが胸に突き刺さります」

 アニータは静かな声で諭すように言った。

「隊長。……その言葉を、ベルナルドに向けてほしかったです。なぜソフィーには、その目を向けるのですか?」

 マクシムは目を伏せ、静かに言った。

「……失礼します」

 そのまま医務室を後にした。医務室にはその場に立ち尽くすアニータと、額に汗をかいて眠り続けるソフィーだけが残っていた。

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