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第一章⑦ マクシム

 廊下の窓から差し込む夕闇は、まだ青みを帯びていた。

 港の方角から、帆布を締める音と遠くの鐘が響く。

 夜が降りてくる前の、わずかな静けさ。しかし、マクシムの胸の奥に広がるのは澄んだ蒼ではなかった。

「……ベルナルド、シルバ」

 口の中でその名を転がすたび、黒いものがじわりと染み出してくる。

 怒りとも憎しみともつかないそれは熱を帯びて膨張し、骨の内側まで満たしていく。歩みを進める足音さえ、鈍く響いた。


 ──あの夏の日の匂いが蘇る。


 照りつける陽光から逃れた船底の医務室は、鉄と血と汗の匂いが充満していた。

 薄暗がりの中、軍服の青年がかすかに震える手を止めず、包帯を巻き続けている。

 ベルナルド・シルバ。まだ二十そこそこの軍医見習い。額の汗を袖で拭うことも忘れ、唇だけが動いていた。

「……もう、包帯が……足りない……いや、まだだ。あきらめるな……つ」

 担架の上の候補生は浅い呼吸を繰り返し、その度に血の色が布を浸していく。

 生と死の境目は指一本ほどの幅しかないように見えた。そのとき、傷だらけの自分が扉を押し開けた。

「ベルナルドさん! これを使ってください」

 手にしていたのは、さっき破れた帆の端切れ。風雨を避けた場所に落ちていたのを拾い上げ、胸に抱えたまま戻ってきた。

「水は通してません、まだ使えます!」

 ベルナルドの目が一瞬だけ大きく見開かれ、その布で命が繋がった。

「……水を通していない……助かる……!」

 彼がその布を使い、少年の傷口を覆った。血がゆっくりと収まり、呼吸が戻っていく。船の外では、まだ砲声が響いていた。だが、その小さな命が戻る音のほうが何よりも鮮明だった。


 ——あれが、初めてだった。自分の判断で、誰かの命が繋がったのは。

 ……そして今。


 マクシムは自室の扉に手をかけたまま、深く息を吐く。

 血の気を失ったソフィーの顔が、あの夏の候補生と重なって見えた。

 扉に手をかける。重い音とともに、マクシムの自室が開いた。広くもなく、飾り気もない部屋。壁も床も海風に晒されて色を失い、置かれた机と椅子は長年の使用で角が丸くなっている。

 窓は閉ざされ、昼であるはずなのに、光はひどく鈍い。空気はどこか船底のように湿っていて、わずかに塩の匂いが混じる。部屋の扉を閉めた瞬間、わずかな金属音が壁に響き、沈黙が落ちた。薄暗い室内の真ん中で立ち止まると、窓の隙間から吹き込む風がカーテンをわずかに揺らし、その布擦れが波の音に変わっていく。


 ——そして視界は、月も星もない夜の海へと塗り替えられた。


 背筋を舐めるような、あの光景を思い出した。

 かつて艦は嵐を抜けた直後に浸水し、航行不能に陥った。

 隔壁を閉じなければ、船は沈む。しかし、それは向こう側にいる仲間を見捨てることを意味していた。

 甲板は傾き、潮は足元を洗い、誰もが互いの顔色を伺っていた。

「彼を救えば、彼女が死ぬ。そんな状況で僕に選べと? ……なら、全員を救う方法を考えるのが僕の役目です」

 その言葉を吐いた時、自分の声がやけに冷たく響いたことを覚えている。

 だが結果は、全員を救えたわけではなかった。

 漂流の日々、夜の海は静かに狂気を孕んでいった。

 波も音もなく、ただ星々が凍りつくように輝く闇。

 人の息づかいさえ、あの無音の中では異物のように思えた。


 座礁したのは、三日後の朝だった。

 波に押し上げられるように、船底が浅瀬に擦れる感覚。

 あの時、マクシムは呟いた。

「……海に生かされたんだ」

 帰還後、ベルナルドはマクシムを静かに見つめて言った。

「君は命を選んだわけじゃない。『誰を見捨てなかったか』を考えた。それが君の優しさだ。でも、それは時に破滅の引き金になる。覚えておけ、マクシム」

 その声が、今も耳の奥に残っている。


 扉の蝶番が、低く軋んだ。その音をきっかけに、マクシムの耳に遠い海鳴りのような記憶が蘇る。視界に広がるのは今と同じ、飾り気のない部屋。だが、あの日はもっと狭く、息苦しく感じた。窓の外で降っていた雨の粒が、硝子に細かな音を刻んでいたのをやけに鮮明に思い出す。


 ——あれから三年。


 マクシミリアン・ブーケ隊が発足して六年経った頃。

 この部屋で、ベルナルドに自分の秘密を打ち明けた。

 理解してもらえると信じていた。いや、信じたかった。

 だが返ってきたのは、頑なな拒絶だった。胸の奥に、重く冷たいひびが走った瞬間だ。

「君が命を救ってくれた夜を、俺は一生忘れない。でも……人の命を背負う覚悟があるなら、それを奪う側に行くな。俺は君を信じたいから、止める」

「……あの夜、僕は人を救った。でも今度は、人を殺さなければ救えない命があるんです」

「その理屈を信じるなら……君はもう、あの夜のマクシムじゃない」

 ベルナルドの声は静かだったが、その静けさが刃のように深く突き刺さった。

 あのとき、二人の間に落ちた沈黙の重みを今も忘れられない。


 ベルナルドの言葉が、胸の奥で鈍く反響する。

 ——わかってくれない。どうしてだ。あれほど信じていたのに。

 胸の奥に渦巻く苛立ちが、熱を帯びて全身を駆け巡る。息が荒くなり、握った拳が震えた。

「……ッ!」

 木の天板に拳を打ちつけた衝撃音が、しばらくの間、部屋の壁や天井を叩き返した。その後、音は次第に遠ざかり、部屋は再び重い静寂に包まれる。

 マクシムの胸は激しく上下し、荒い呼吸が薄暗い室内にこだまする。握りしめた拳の熱が冷めていく一方で、胸の奥にはまだ、炎のようにくすぶる怒りが残っていた。

 闇の中、彼はゆっくりと手を机から離し、目を閉じた。

 全てを理解してほしいという叫びは、今も心の中で消えずに燃え続けている。


 ベルナルドと決裂した、同じ年。

 フランス海軍はフランソワたちの私掠免状を剥奪し、サン・マロを拠点としていた海賊団を街から一掃すべく、マクシミリアン・ブーケ隊にも襲撃司令を下した。

 司令を受けてすぐベルナルドが忽然と姿を消した。

 彼の安否は不明のまま、刻一刻と襲撃の日時が迫る中、マクシム達はサン・マロに到着した。


 そして、襲撃命令の当日。


 隊は任務を遂行しながらも、ベルナルドの所在を探すことを忘れなかった。

 情報班から届いたのは、襲撃開始の喧騒の中での目撃情報だった。

「ベルナルド・シルバと思われる人物が、街中に姿を見せた」

 ——そんな知らせに、隊の誰もが息を呑んだ。

 隊員たちはそれぞれ別々のルートでベルナルドの行方を追い、港や街角に分散して探索を続けていた。だが、混乱する現場で誰一人として彼の姿を捉えることはできずにいた。

 一方、マクシムだけは任務の合間を縫いながらも注意深く情報を整理し、小さな港へと足を運んだ。


 薄暗い路地を抜けてたどり着いたその場所には一隻の海賊船が静かに停泊し、数人の海賊が甲板に佇んでいた。その岸壁側に、ベルナルドと思しき男が海賊たちとひそひそ話す姿があった。

 マクシムは身を潜めてじっと観察しながら、「ここにいたか……」と胸中で呟いた。

 任務と探索が交錯するなか、唯一彼だけが旧友の存在を捉えたのだった。

 ベルナルドは振り返りざまに低く警告するような声で言った。

「君たちも早く逃げたまえ。そのうち、海軍もこの場所を見つけるだろう」

 その言葉を聞いた瞬間、マクシムの胸に激しい違和感が走った。

 ——あの男が……海賊たちと、まさか……協力しているのか?

 信じていた仲間が裏切りの影に染まっているのかと頭の中が混乱し、心臓が激しく打ち始めた。

 甲板にいる数人の海賊たちが、何事もなかったかのように口々に感謝の言葉を口にした。

「軍医さんよ、何から何までありがとうな」

「海軍にも君みたいな人がいたなんてね」

「優しくしてくれてありがとうー!」

 そこにいるのはジャスパー、ニール、コリン、マテオ、そして外套で顔を隠した男、おそらくルキフェル。

 この時のマクシムの目には、まだ彼らの名も素性も分からなかった。

 ただの海賊の一派だとしか思えず、今思えば背筋が凍る思いだった。

 当時のマクシムの視線は固まったまま、彼らをただの海賊の一団として見つめていた。だが、ベルナルドの言動が頭の中で何度も繰り返され、その裏切りの現実が重くのしかかった。

 甲板から放たれた美青年の鋭い声が冷たい空気を裂いた。

「なあ、あんた! 仲間に隠れてオレたちに情報を流したんだろ? オレたちは無事でも、あんたは無事じゃ済まないぜ!」

 ベルナルドの答えは静かで、それが余計に冷たく響いた。

「そうだな。もし鉢合わせたら、その時はその時だ」

 その瞬間、マクシムの胸は激しく波打った。怒りと裏切りの感情が渦巻き、理性が崩れ落ちていくのが分かった。

「じゃあさ、オレたちと一緒に来るか?」

 美青年の挑発が続く。

「……え?」

 ベルナルドの短い返答に、マクシムの視界は揺れ、心が乱れた。怒りが爆発寸前で燃え盛る。

 そして、闇に包まれた外套の男が静かに言葉を放つ。

「お前は危険を顧みず、襲撃の情報を俺たちに届けてくれた。フランソワ船長も感謝している。わざわざここに来たということは、海軍組織に不満があるのだろう?」

 その声は冷徹で、同時に甘い誘いのようにも聞こえた。

「悪いようにはしない。歓迎するとも。だが選択はお前次第だ」

 その時、マクシムの視界に突然、地面に落ちている短剣が飛び込んだ。

 間違いなくベルナルドのもの。彼がここに現れる際、すべてを捨てる覚悟で置いていった刃だった。

 その刃が、マクシムの胸に突き刺さるようだった。

 感情は憎悪へと変わり、熱く沸騰していく。

 何度も裏切られ、傷つけられた思いが洪水のように溢れ出す。


 そして、最も許せないのは——あの秘密を知られてしまったことだ。


 ベルナルドが秘密を口にした瞬間、すべてが終わる。

 部隊も、彼自身の信念も、未来も。


 その恐怖が、怒りと絶望を同時に押し寄せてきた。


 マクシムの手が震えながらも、冷たく重い短剣を地面から掴み取った。

 鋭い刃の感触が、彼の血液に火をつけるように全身を貫いた。

 その刹那、ベルナルドのかすれた声が響いた。

「俺は——」

 その声が胸に届くよりも早く、マクシムの内側で渦巻く憎悪が理性を呑み込み、心の奥底で何かが激しく叫んだ。

「待て」ではなく、「進め」と。ためらいも躊躇もない。

 目に映るすべてが赤く染まり、世界は歪み、鼓動は雷鳴のように轟いた。

 マクシムは隠れていた闇から猛獣のように飛び出した。

 ベルナルドの言葉が続く前に、彼の身体はまっすぐに疾走した。

 刃は肌を切り裂き、熱く湿った肉を貫き、骨の手応えが手元に震えとなって跳ね返る。

 冷たく鋭利な刃先からは、鈍い震動と生の痛みが伝わった。

 ベルナルドの体が跳ね上がり、呻き声が空気を震わせる。

 その瞬間、マクシムの視界は怒りの焔に包まれた。

 怒り以外、何も存在しない。

 鼓動は爆発寸前の轟音を奏で、世界は炎の中を駆け抜ける。

 裏切りへの憎悪が彼を押し流し、理性の鎖は粉々に砕け散った。

 ただひたすらに、前へ。その一瞬の衝動だけが、彼の存在を鮮やかに刻み込んだ。


 甲板から悲鳴が轟いた。風に乗り、凍りつくような声が辺りを震わせる。

 マクシムは一瞬も躊躇わず、刺さった短剣を勢いよく引き抜いた。

 その顔は、もはや人のものとは思えない鬼の形相に染まっていた。

 ベルナルドはその場に倒れ込む。だが、唇の端には薄らと不敵な笑みが浮かんでいた。

「やっぱり来たか……」

 その声は、どこか諦めにも似た響きを帯びていた。

 マクシムは荒い息を吐きながら、その冷たい瞳をベルナルドに向けた。

「なぜだ……なぜ裏切った?」

 ベルナルドは微かに肩をすくめた。

「裏切りとは言わん。選択だ。君には君の信念があったように、俺には俺の道がある」

「道? お前の道が何を奪ったか、分かっているのか!」

 マクシムの声が震えた。

 二人の対峙は凍りついた時間の中でなお続いていた。

 夕暮れの冷たい風が港の空気を震わせる。

 潮の匂いと混ざり合う血の匂いが、じわりと鼻をついた。

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