16 リュート
「リュート、来い!」
朝に、ミレシアを送った自宅から帰ってきたヴィンセントが僕を勢いよく引っ張った。
「何処に連れていく気なんだ、ヴィンセント! ミレシアは平気なのか……!?」
状況が読めないけど、ミレシアのことだけは知りたかった。
「平気じゃないんだ……」
ヴィンセントが聞こえないくらいの声でつぶやいた。
「へ、平気じゃない!? ミレシアが……!?」
ヴィンセントが立ち止まる。
「いや、平気なんだとは思うけど、お前に会いたがっていて……」
「僕に?」
ミレシアが会いたいと言うなら、いくらでも会いにいくけど……昨日別れたばかりで、丸一日も経っていないのに……。
昨日、別れた時のミレシアはそんなにすぐに僕に会いたがるようには見えなかったけど……。
いや、僕だって、もうミレシアには会いたいけど、ヴィンセントが言ってるのはそう言うことじゃないんだよな?
「食事が終わったらすぐ行くぞ、リュート」
ヴィンセントの焦った様子に、食事の味がしなかった。
——ミレシア……。
フェルスター侯爵家のミレシアの部屋に行く。
ミレシアが僕を見るとすぐに抱きついてくる。
「リュート様……!」
ずっと会えなかったような歓迎のされ方だ。
黙って抱きしめていたけど、ずっとこうしているわけにもいかない。
ヴィンセントは僕を案内して、僕たちが抱き合っている様子を見たら、そのまま扉を閉めてどこかへ行ってしまう。
ミレシアがじっと僕に抱かれながらヴィンセントを見ていた。
……そして、何か口が動く。
ありがとう。
そう言っている気がする。
僕を連れてきてくれて、ありがとうって、ヴィンセントに言いたかったのか……?
だったら直接言えばいいだけなのに……ミレシアが変だ。
「……ミレシア?」
ミレシアの部屋を訪ねてくるものがいた。
僕とミレシアはずっと抱き合ったままで、どれくらい過ごしただろう。
「カタリナ!」
ミレシアが僕から離れる。
扉の方を見て呼びかける時の軽く丸めた指先が猫みたいで可愛い。
いつものミレシアの動きだと思う。
カタリナが扉を開けて入ってる。
「初めまして、リュート様」
カタリナはヴィンセントの妹でミレシアと同じ侯爵令嬢だった。
礼儀が完璧で、僕は少し気圧された。
「ミレシアが、リュート様とマドレーヌを食べたいと言っていたから、お持ちしました」
メイドが入って来てテーブルにお茶とマドレーヌをセットする。
そのマドレーヌに見覚えがあった。
「前にヴィンセントに聞いて、ミレシアと一緒に食べたね。家にも置いてるなんて本当に好きなんだね」
そう言ってミレシアを見ると、顔が真っ青だった。
「……リュート様は……ヴィンセントに聞いて、このマドレーヌを買ってきてくれたの……」
「うん……それがどうかしたの……」
……ミレシアは食べたかったんじゃないのか?
テーブルに向かい合って、ミレシアとマドレーヌを食べたけど、美味しくなかった。
前に一緒に食べた時は、もっと美味しくて……、
『ミレシアと似てるね、このお菓子』
そんな事を言って食べたっけ……。
ミレシアに似てるなんてどうして思ったんだろう。
今の重苦しい状況で食べるマドレーヌは全然ミレシアに似ていない。
丸くて軽くて甘くて優しい味が、幸せな雰囲気をまとうミレシアと同じだったんだ。
何故、今日のミレシアは不安そうにしているんだ。
フェルスター侯爵家に何か悪い思い出があるのか?
ミレシアがヴィンセントの家と呼んでいた場所なのに——。
え……ヴィンセントの家……?
そしてこのマドレーヌは僕がヴィンセントから教えてもらってミレシアに買っていったものだ。
その時には、ヴィンセントはまだ僕の妻がミレシアだったなんて知らないんだ。
それなのに、僕はヴィンセントから教えて貰ったお菓子がミレシアと似てるねと思っている。
こんな偶然があるんだ……。
いや、偶然じゃないかもしれない……。
ヴィンセントもマドレーヌを、ミレシアだと思っていたら……?
同じミレシアなのだから、同じ人物に別々の人間が同じイメージを持つ事はあるだろう。
同じイメージを持つ事自体は必然だったのかもしれないけれど。
偶然に——ヴィンセントがミレシアを知っていると知らずに、ヴィンセントに聞いてしまったのは偶然だけど……。
——ッ。
そうか……ここはヴィンセントの思い出が多すぎるんだ……。
ミレシアが不安になるのも分かる……。
——僕と出会う前のミレシアには、僕とは別に大切な人がいたんだ……。
僕との契約結婚はその人とミレシアを引き裂いてしまったんだ。
きっと、そういうことはあるんだ。
誰かに勝手に決められた、契約結婚なら、元々ミレシアが持っていた気持ちなんて関係なく、無理矢理連れて来られるんだから。
僕はずっと自分の家にいたから、元々の年月の積み重ねの中にミレシアが入ってきて、圧倒的に大きな存在感をはなっている。
僕がミレシアと積み重ねた年月は三年じゃない。
君に出会う前の僕の人生全てに君が重なってる。
でも、君は僕と出会った三年分しか思い出がないんだ。
別の場所に行けば別の思い出の方が強くなる。
ミレシアはこの場所で……ヴィンセントの家で僕を忘れてしまいそうなんだ……。
僕との三年間がヴィンセントととの十年間に上書きされてしまう……。
ミレシアを見ると、僕を見ていた。
何か訴えたい事があるようなのに何も言わない。
不安に瞳だけを揺らしている。
何かを語ると、そこで、自分の気持ちが決められてしまう。
ミレシアは、それを恐れているんだ。
迷いだとしても、「リュート様よりヴィンセント様が好きかもしれません」と聞いてしまったら、迷いだと分かっていても、ミレシアを前と同じように見ることが出来ない……。
だから、何も言わない……。
でも、沈黙はいまの気持ちの肯定なんじゃないのか……?
——違う。
ミレシアは黙っていない。
僕に会いたがって、マドレーヌを一緒に食べたいと言ってくれた。
ただ、僕がマドレーヌをヴィンセントから勧められていたことを知らなかっただけ。
そして、ミレシアは何処にも行く宛がないから、ヴィンセントの家にいるしかないんだ。
選べることが少ない中で、出来ることは僕を選んでいるんだ——。
僕を好きでいたいとミレシアが選んでる。
なら、僕が出来ることは——。
「行こう、ミレシア。僕たちのヴァルセイン子爵家へ帰ろう」
僕がそう告げると、ミレシアは止まった。
そして、笑った。
涙を溢しながら。
「リュート様……どうして、私のして欲しいことが分かったんですか……?」
「それはずっと大好きで、ずっとミレシアの事を考えているからだよ……」
僕はミレシアの手を取って外へと歩き出す。
ヴィンセントがいて僕とミレシアを見て驚いていた。
けれど、すぐに理解したみたいだ。
僕の馬を連れて来てくれる。
「きっと、そこが一番ミレシアに合う場所なんだろう」
寂しそうに笑って見送ってくれた。
『それはずっと大好きで、ずっとミレシアの事を考えているからだよ……』
きっと、ヴィンセントも……。
昼過ぎに僕の実家のヴァルセイン子爵についた。
思っていた反応ではなかった。
「リュート様……」
ミレシアの父のヴェルディア侯爵は処分はされないが、失脚したも同然で、その娘と結婚する事への世間の風当たりは強くなるだろう。
そんな事は分かっていて、家族にも反対されるのは分かっていた。
それを説得するつもりだったから、この態度は折り込み済みだった。
僕の心は折れてはいない。
でも、ミレシアは、僕の家族のこの反応は折り込めなかった。
ずっと仲良くしていた婚家の態度の変化にショックを受けている。
覚悟はしていた僕もミレシアの様子はショックだった。
さっきのヴィンセントの家——フェルスター侯爵でも、心の中を掻き回されるような体験をしたんだ。
ミレシアの精神が限界に達しているのが分かった。
だから、連れて来てはいけないとは思ったが、騎士団の寮に戻ってきた。
慣れた場所で休めばミレシアも元気になる。
しかし、やはりここでも断られてしまう。
ミレシアを置いておけるなら、そもそも、フェルスター侯爵家に行けなどと言われない。
そろそろ僕とミレシアも覚悟を決めないといけない時が来た。
フェルスター侯爵家に行っても、僕をずっと好きでいて欲しい。それが素直な僕の気持ちなんだ。
ミレシアが不安になっている根拠はあるんだろう。
「ミレシア……僕が毎日、ヴィンセントの家に会いに行くよ。絶対にヴィンセントに君を渡したくないから、絶対に毎日、会いに行く」
……それでも、ミレシアがヴィンセントを好きになるなら、仕方がない。僕はミレシアが幸せならいいんだ。
「リュート様……」
ミレシアは目にいっぱいの涙を溜めている。
「何してるの! ミレシア」
騎士団のすぐそばの道の前にいたら、王宮に戻る王太子ジュリアンの馬車にあった。
馬車と並んでヴィンセントが馬と一緒にいた。
ヴィンセントにはさっき応援されて、別れて半日も経っていない。
でも、ヴァルセイン子爵家に歓迎されなかったんだ、戻って来るしかない。
「とりあえず、王宮に来なよ」
ジュリアンが軽く誘う。
行く場所がないけど、さすがに王宮は……。
「ジュリアン様は騎士団の寮から出る時も、ミレシアに挨拶して帰ると言って聞かなかったんだ。これ以上時間が遅れても困るから、とにかく来てくれ」
ヴィンセントは逆に僕たちに王宮についてきて欲しい様子だった。
王宮に泊めて貰うのは何も問題を抱えていなければ断ったが、実際に、今は非常に助かった。
馬車にミレシアをジュリアン様と乗せて、僕は護衛に加わった。
王宮に着くと僕とミレシアは別々の部屋が用意されていた。
王宮にお客として泊まるなど……。
これもミレシアのおかげだけど、ミレシアの事は解決した訳じゃない。
僕はまたヴァルセイン子爵家に行ってみんなを説得しようか?
しかし、ミレシアが不安そうだし、多分、今は子爵家でいくら話しても説得はできないと思う。
ミレシアの側に少しでも長くいたい。
まだ、ミレシアが僕を好きでいてくれるうちは——。
僕はそんな後ろ向きな気持ちになっていた。




