無能2人の秘密基地と、迫り来る世界の壁
静まり返った廃屋の床には、気絶した家庭教師バルトが、まるで打ち捨てられたボロ雑巾のように転がっている。
先ほどまでこの部屋を支配していた圧倒的な熱量と炎の残滓は完全に消え去り、代わりに窓から差し込む夕暮れの斜光が、宙に舞う埃をキラキラと照らしていた。
「……本当に、倒しちゃったんだね」
エルが、ぽつりと呟いた。
自分の小さな手のひらを見つめ、それから床にびっしりと書き殴られた炭の数式を見つめる。その表情は、まだ自分の頭脳がもたらした奇跡の現実感が湧いていないようだった。
「うん。エルの数式による魔力制御の最適化が完璧だったおかげだよ。僕の『軸定』だけじゃ、大人の本気の炎をあそこまでノーダメージで受け流すことはできなかった。君の理論があってこその勝利だ」
僕は、焦げた衣服の袖をはたきながら爽やかに笑いかけた。
お世辞でも何でもない。前世の地球では、どれだけ『緩解』を極めても、刃物や打撃の衝撃を受け流すのが限界だった。しかしこの世界には『魔力』という神秘のエネルギーがある。エルの理論は、その魔力を肉体のクッションとして極限まで引き出す数式だった。感覚を言語化し、誰でも再現できるようにする──これこそが、僕の求めていた武の進化系だ。
「僕の……僕だけの力じゃないよ。ジンが、僕の頭の中にしかなかった妄想を、本物の技術として体現してくれたからだ。……あ、そうだ! ジン、大変だよ!」
エルが急に何かに気づいたように顔を青くした。
「どうしたの?」
「バルト先生は、本家ヴァレンシュタイン家から遣わされた正規の魔導師なんだ。いくら僕を監視するためだけの三流とはいえ、平民の……いや、ハルバート家のジンにボコボコにされたなんて本家に知られたら、君の家まで巻き込まれて大変なことになるかもしれない!」
エルの指摘は、この異世界の貴族社会の縮図を思えば極めて真っ当な懸念だった。
いくら僕が正当防衛を主張したところで、相手は特権階級の貴族だ。「無能の平民が貴族を殴った」という事実だけが一人歩きすれば、元騎士である僕の父親、ガルクの立場も危うくなる。
「大丈夫だよ、エル。彼は自分から通報したりはしないさ」
「え? どうして?」
不思議そうに首を傾げるエルに、僕は苦笑混じりで説明を付け加えた。
「考えてもみてよ。誇り高き大名家の魔導師がだよ? 『魔力ゼロの、わずか七歳のガキに、呪文も魔法陣もなしのただの素手で一撃で失神させられました』なんて、本家に報告できると思う? そんな恥を晒したら、それこそ一瞬でクビになって、魔導師としてのキャリアは完全に終わりだ。それに、さっき逃げ出した彼の息子だって、父親の情けない姿を周囲に言い触らすわけがない」
そう、リアルな人間心理の力学だ。
プライドが高ければ高いほど、自分にとって都合の悪い理不尽な敗北は隠蔽したくなるものだ。ましてや、相手は自分が「無能」と見下していた子供なのだから。
「あ……そ、っか。確かに、バルト先生なら『エレノアの不気味な妖術にハメられた』とか、自分に都合の良い嘘をついて、すごすごと本家に帰るか、この村から逃げ出す確率の方が高いね。ふふ、ジンって、戦う時だけじゃなくて、そういう大人の嫌な心理を読むのも得意なんだね」
エルは安心したように、胸をなでおろしてクスクスと笑った。
その笑顔を見て、僕は再び心臓が小さく跳ねるのを感じた。本当に、女の子だと分かってから見ると、仕草の端々が男装で隠しきれないほど愛らしい。
(いやいや、僕は身体操作のオタクであって、恋愛オタクじゃない。落ち着け、僕)
「それよりエル、このバルト先生、放っておくわけにもいかないから、廃屋の裏の木陰にでも移動させておこうか。目が覚めたら、自分で勝手に帰るだろうしね」
「うん、手伝うよ!」
2人でバルトの身体を抱えようとしたのだが、ここで再びエルの『弱点』が露呈した。
大人一人の体重を支えようとした瞬間、エルの細い腕がガタガタと震え、彼女の体内の魔力回路が拒絶反応を起こして、激しく咳き込んでしまったのだ。
「ゴホッ、ゴホッ……! うう、やっぱり、少し力を入れようとするだけで、胸の奥の魔力軸が、熱くなって……」
「エル、無理しちゃダメだ。君の身体は、まだ筋肉や骨格が、その膨大な脳内演算と魔力波形に追いついていない。僕が一人でやるから、君は座って休んでいて」
僕はエルを木箱に座らせると、一人でバルトの襟元を掴んだ。
ここでも筋力は使わない。『軸定』によって自分の骨格を一本の強固なクレーンへと変え、自重の移動だけで、大人の男の身体をずりずりと引きずって廃屋の裏へと運んだ。
部屋に戻ると、エルは悔しそうに自分の細い脚を叩いていた。
「悔しいな……。自分で作った数式なのに、自分の身体じゃ再現できない。ジンみたいに、思い通りに身体を動かせたら、どんなに楽しいだろう」
その言葉には、病弱ゆえに世界から孤立してきた彼女の、深い絶望と渇望が詰まっていた。
僕は彼女の前にしゃがみ込み、その冷たい手を優しく包み込んだ。
「エル。君の身体は、病気なんかじゃないよ。ただ、君の頭が良すぎて、魔力の波形が鋭すぎるだけだ。既存の魔法が『ガチガチに固めるブレーキの技術』だから、君の身体が拒絶反応を起こしていたんだ。──だったら、作ればいい」
「作る……?」
「そう。君の鋭い魔力波形を、そのまま肉体の内側に浸透させて、インナーマッスルを直接ハッキングして駆動させるような……誰も傷つかない、誰もが健康に強くなれる、新しい身体操作のシステムだ。君の頭脳と、僕のこの身体があれば、数年で必ず完成する。君も、自分の足で、全力で走れるようになるよ」
僕が断言すると、エルの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
嘘つきと罵られ、実の親からも見捨てられた彼女の前に現れた、自分のすべてを肯定してくれる少年。エルの心の中で、ジンという存在が、もはや世界の何よりも重い『絶対的な軸』へと変わっていく瞬間だった。
「うん……! やろう、ジン! 僕たちの、2人だけの秘密の道場だね!」
エルの顔に、この日一番の、最高に眩しい笑顔が咲いた。
*
それから、僕たちの怒濤の『秘密の特訓』の日々が始まった。
昼間はセリアのお使いをこなし、ガルクの剣術や筋トレに付き合いながら、夕方になると、村のはずれの廃屋──僕たちが『誰もが強くなれる研究室』と名付けた秘密基地へと集まる。
やるのと語るのでは大違いの武術の世界。
前世の道場で僕がやっていた、一見すると何の意味もない地味な稽古を、僕はエルに見せていった。
「ねえジン、今何をしてるの? ただ僕に両腕を下から全力で抑え込ませて、足の裏をモゾモゾと動かしているだけにしか見えないんだけど……」
ある日の稽古中、エルが僕の腕を上から体重をかけて抑え込みながら、不思議そうに尋ねてきた。七歳の少年の力なら、同い年のエルが上から体重をかければ、普通は腕を上げることはできない。
「これはね、無意識に相手に抑え込まれた状態から、足の指や足底の感覚だけで床を掻くことで、反発力を骨盤に伝える稽古なんだ。筋肉で力任せに押し返そうとすると、エルの腕の筋肉と衝突してブレーキがかかる。でも、足の裏からベクトルを誘導してあげると……ほら」
言った瞬間、僕は腕の筋肉を一切使わず、足の裏の微細な挙動だけで床からのエネルギーを腕へと通した。
「わわっ!? な、なんで!? ジンの腕、全然力が入っていないのに、僕の体重がそのまま上に押し上げられていく……! 数式で見ると、魔力のベクトルが、僕の腕の防衛本能を完全にすり抜けて、支点を消失させているよ!」
「そう。これを軸定・反発伝播と呼ぼう。相手と戦う前に、まず自分と床、そして相手の身体を一本のシステムとして『繋げる』んだ。やるのと語るのでは大違いだけど、君ならこれを完璧に数式化できるだろ?」
「できる……! できるよジン! この『接触面の摩擦抵抗の完全中和数式』を組み込めば、僕の細い腕でも、大男の拘束を一瞬で解除できる!」
エルは興奮して、ノート(バルトの遺留品からくすねた上質な紙だ)にペンを猛烈な勢いで走らせる。
姿勢を整える『軸定』。
ブレーキを外す『緩解』。
最適解へ位置する『転位』。
そして──。
「よし、次は4つ目の極意、意識を空間に広げる『圏境』の実験だ」
僕はエルの手を握り、静かに目を閉じた。
認識を、自分の中から、この廃屋の空間全体、そして村を囲む広大な森、さらには夜空に広がる無数の星々へと拡大していくイメージ。スピリチュアルで胡散臭く聞こえるが、人間の脳の認識力を極限まで広げるメンタルトレーニングだ。
「……あ、あ……」
エルの小さな手が、ぎゅっと僕の手を握り返してきた。
目を開けたエルの顔は、驚愕に満ちていた。
「ジン、いま、何をしたの……? 君を中心に、空間のすべての魔力波形が、完全に『調和(同期)』している。それだけじゃない、僕の胸の奥の、いつもなら痛むはずの魔力回路が……ジンの優しい『意識の愛』に包まれて、嘘みたいに痛みが消えていく……。あ、身体が、動く……!」
エルの身体を苛んでいた病弱の呪いが、ジンの『圏境』による精神の拡大と慈しみの波形によって、一時的に完全に中和されたのだ。
エルは自分の足で、廃屋の床をタン、と力強く踏み鳴らした。初めて感じる、自分の身体が自分の意思で完璧に動くという、圧倒的な全能感。
「すごい……すごいよジン! これなら、僕も君と一緒に戦える! 君の隣に、ずっと立っていられる!」
2人だけの秘密の研究。それは、確実に世界を塗り替える『新世代の武術魔法』として、その形を成しつつあった。
しかし。
僕たちがそんな希望に満ちた日々を送っていた頃、外の世界では、僕たちの預かり知らぬところで、巨大な『世界のシステム』の歯車が、不穏な音を立てて回り始めていた。
魔力ゼロの無能と、病弱な落ちこぼれ。
2人の天才の存在が、やがてこの世界の『ステータス至上主義』という歪んだルールそのものと、真っ向から衝突することになるのを、今の僕たちはまだ知る由もなかった──。




