新天地への航路《グランド・ルート》と、最初の異物
『神』が世界全体の|ステータス上限を強制解放したことで、世界中のあらゆる魔獣や敵対勢力の『数値』が倍化するという、最悪のルール改変が行われた。
だが、僕たちの『真理の技術結社』の歩みが、その程度の理不尽で止まるはずがなかった。
「うーん……ダメだね。僕のポータル魔法は万能じゃないよ、ジン」
レムリアの作戦室で、エルは大きな羊皮紙の地図を広げ、悔しそうに唇を尖らせていた。
「一度でも行ったことがある場所なら、空間の標本(座標データ)をハッキングして一瞬で『空間転移門』を開通できる。でも、一度も足を踏み入れたことがない未知の大陸には、接続するための『アンカー』が落とせないんだ。つまり……」
「つまり、最初はリアルに自分の足で進むしかない、ってことだね」
僕が干し肉を齧りながら言うと、ソファでパイプを燻らせていたウロボロスが、不敵な笑みを浮かべて地図の一点を指差した。
「だったらリアルに進むしかねえな、格闘技オタク。……神が本気で動き出した以上、俺たちが最優先で唾をつけるべき中立の怪物は、この広大な海を渡った先にある『東方大陸』に潜む一人目──『数理の魔女』、|アルテミシア・フォン・ノイマン《Artemisia von Neumann》だ」
「アルテミシア……確か、確率論で未来を弾き出すっていう、あのバグの女性学者だね」
エルの問いかけに、ウロボロスは深く頷き、パイプの煙を吐き出した。
「ああ。あいつの持つ『確率演算(未来予知)』の異能は、神のシステムからすれば喉から手が出るほど欲しい最凶のピースだ。もし神の執行者どもに先を越されてあいつが洗脳(駒化)されれば、これからの俺たちの行動の成功確率はすべて事前に先読みされ、文字通り『100%詰む』。神が世界の上限を解放した今、タイムリミットはそう長くねえぞ」
ウロボロスの言葉に、作戦室の空気がピリリと引き締まる。
しかし、地図を見ていたトアが、獣の牙の首飾りを鳴らしながら、険しい表情で腕を組んだ。
「だがウロボロス、東方大陸へ渡るには、この世界で最も凶悪な海獣たちが猛威を振るう暴風の海──『隔離海峡』を船で越えなければならない。
帝国最高の魔導船を使ったとしても、道中の補給や天候を考えれば、あの大陸に辿り着くまでに最低でも『一年』はかかるぞ」
「行くまでに、一年、か……」
エルが少しだけ不安そうに僕の顔を見た。
十二歳から十七歳の成人を迎えるまでの五年間という長期戦。その最初の第一歩に、いきなり『一年間の洋上サバイバル』という過酷な現実が立ち塞がったのだ。
だが──僕は、ニヤリと、最高に爽快な笑みを浮かべて立ち上がった。
「行くまでに一年、か。最高じゃないか」
「え? ジン、一年間も船の上に閉じ込められるんだよ? 退屈で死んじゃいそうだよ!」
「何言ってるんだよ、エル。その一年間の移動時間、船の上を『真理の動く洋上道場』にできるんだよ? 波の不規則な揺れ、不安定な重心の足場、常に変化する浮力……これって、僕たちの『軸定』や『緩解』、そしてトアの『野生のうねり』をさらに次の次元へ昇華させるための、究極のトレーニング環境じゃないか!」
前世の地球でも、不安定な足場での武術の稽古は最高の体幹トレーニングだった。この異世界の荒波の上なら、僕のリアル武術のキレは、一年で今の何倍にも化ける確信があった。
「ククク……ハハハハ! 流石は僕の認めた少年だ! 退屈しなくて済みそうだな!」
「ギャハハ! 言うと思ったぜ、この格闘技オタクめ!」
トアとウロボロスが、嬉しそうに武器を鳴らして大笑いする。
「お二人さんがやる気なのは結構ですが、一年間の航海に耐えるための『船』はどうするつもりですか?」
呆れたように眼鏡の位置を直しながら、レナードが部屋に入ってきた。その手には、一枚の巨大な売買契約書が握られている。
「……レナード、まさか君、もう用意してあるの?」
エルが目を丸くすると、レナードは「当然です。僕を誰だと思っているんですか」と不敵に微笑んだ。
「ジン様たちが魔導騎士のオヤジどもから毟り取った……失礼、アンチエイジングの会員費で稼いだ莫大な富を投入し、ヴァレンシュタイン公爵閣下の秘密ルートを使って、帝国最新鋭の巨大魔導軍船を、極秘裏に丸ごと一隻買い叩いておきました。船倉にはレムリアの最高級の食料と水、そしてエル様のポータルの予備魔導具が満載です」
レナードの完璧すぎる手回しに、僕たちは言葉を失った。お金のオタク、本当に優秀すぎて怖い。
「船の名は──『真理の揺り籠号』。出航の準備は、すべて整っていますよ」
*
その日の夕暮れ。
最北の港のドックには、漆黒の装甲に包まれた、城塞のように巨大な魔導軍船『真理の揺り籠号』が、静かに波に揺れていた。
港には、留守中のレムリアと各地の支部を守る『技術結社総監』のガルク、そして公爵家の影衛隊の面々が見送りに集まっていた。
「ジン。レムリアの防衛とガキどもの育成は、この親父に任せておけ。お前は世界の果てまで行って、その『理』を世界中に証明してこい」
「うん、行ってくるよ、お父さん。レムリアをよろしくね」
ガルクと力強い握手を交わし、僕、エル、ウロボロス、トア、そして原住民の精鋭戦士数人が、船の甲板へと乗り込んだ。
「面舵一杯! 『真理の揺り籠号』──出航せよ!」
エルの凛とした号令とともに、巨大な魔導主機が重低音を響かせ、船は夕陽が沈む広大な水平線へ向けて、静かに滑り出した。
十七歳の成人へ向けた、五年間におよぶ『世界ハッキング旅』の、これが本当の第一歩。
船が港を離れ、外海の荒々しい波に大きく揺られた、その瞬間。
「っとと……おっと、いきなり骨盤の軸が持って行かれそうになるね」
僕は甲板の上で、わざと『軸定』の力を抜き、船の不規則な揺れを足の裏から感知して、重力のベクトルを相殺するステップを試し始めていた。
「ギャハハ! 出航して一分で稽古開始かよ! よしジン、俺の不死の身体で、その船上での打撃の威力を試してやるよ、来い!」
ウロボロスが灰色のマントを脱ぎ捨て、大笑いしながら両腕を広げる。
行くまでに、一年。
立ち塞がるのは、神がリミットブレイクした凶悪な海獣たちと、神の執行者の影。
だけど、僕たちの乗った『真理の揺り籠号』は、荒波を切り裂きながら、新天地へと向かって力強く加速していく。この航海が終わる頃、僕たちの技術がどこまで化けているか、自分でも楽しみで仕方がなかった。




