密林の若き龍《サバイバル・ドラゴン》
──あれから、五年の歳月が流れた。
世界の最果てと呼ばれる原生密林の、さらに奥地。
そこは、通常の冒険者ギルドが発行する地図では『侵入不可の極限地帯』と赤字でバツ印がつけられている、凶悪な魔獣たちの巣窟だった。
ズゥウウウウン!!!
突如、地響きとともに、生い茂る巨大なシダ植物をなぎ倒して現れたのは、体長十メートルを超える巨大な猪の魔獣──『暴虐の剛猪』だった。その皮膚は鋼鉄並みの強度を誇る岩石のような毛皮で覆われ、突進の一撃は城壁すら容易に粉砕する。
その凶悪な魔獣の前に、一人の少年が静かに立っていた。
年齢は十二歳。
七歳の頃の線の細い色白の印象は消え失せ、無駄な脂肪を極限まで削ぎ落とした、しなやかな野生の肉体へと成長している。
かつてハルバート家で着ていた服はとっくにボロボロになり、今は密林の猛獣の皮を器用に仕立てた、動きやすい戦闘衣をまとっていた。
少年──ジン・ハルバートは、迫り来る魔獣の地響きを前にしても、呼吸一つ乱していない。
(──『暴虐の剛猪』か。突進のエネルギーは凄まじいけど、前脚の着地の瞬間に、わずかに右側に自重のブレがあるな。うん、効率が悪い)
ジンは、構えを取らない。ただ、自然体のままトロンと全身の力を抜く。
五年間の密林サバイバル。それは、ジンにとって前世の地球では決して経験することのできなかった、究極の『武術最適化期間』だった。
突進してくる剛猪の鋭い牙が、ジンの鼻先に迫る。
次の瞬間、ジンは地面を『蹴る』のではなく、ただ自らの重心を滑らかに傾ける挙動だけで、剛猪の突進のベクトルから綺麗にその身体を消失させた。
(──|『転位・野生のうねり』《ワイルド・マトリクス》)
かつて原住民リーダーのトアに完封された時に学んだ、密林のうねるような重力と完全に調和する野生のステップ。ただ直線的に動く日本の武術の型に、大自然の不規則な重力移動をブレンドしたことで、ジンの『転位』は、もはや相手からすれば「物理法則を無視して横に滑った」ようにしか見えない次元に達していた。
「ぶひぎゃあ!?」
手応えのない空振りに、剛猪の巨大な巨体が慣性を制御できずに前のめりになる。
その岩石のような硬い毛皮の脇腹に、ジンはそっと、歩くついでに触れるかのように右の掌を添えた。
体内に超高密度で圧縮され続けているジンの魔力。
それは、五年間の呼吸法と『軸定』の徹底によって、今や外から感知することすら不可能なほどに細胞の最深部、骨の髄へと完全に同化していた。
(骨から骨へ。筋肉のブレーキをすべて外し、地球の重力の底からエネルギーを引き上げる──)
(──『緩解・壊骨浸透撃』)
──パンッ!
広大な密林に響いたのは、乾いた、驚くほど小さな破裂音だった。
剛猪の皮膚には、一筋の傷すらついていない。しかし、打撃が放たれた一瞬の後、十メートルを超える魔獣の巨体は、内部の骨格と内臓の全分子をバラバラに粉砕され、悲鳴を上げることすらできずにドサリと地面に頽れた。完全なる即死。
「ふぅ。よし、これで今日の晩ご飯の確保は完了だね」
ジンは額の汗を爽やかに拭い、十二歳らしい少年らしい笑みを浮かべた。
「おいおい……相変わらず出鱈目な打撃だな、ジン。我が一族の歴史を見回しても、あの剛猪をただの手のひら一つで中から腐らせるように殺す戦士なんて、聞いたことがないぞ」
茂みから、獣の牙の首飾りを揺らしながら、トアが苦笑交じりに姿を現した。彼もまた、この五年間でジンの技術が自分の想像を遥かに超える領域へと化けていくのを、最も特等席で目撃してきた男だった。
「トアの教えてくれた『重力のうねり』のおかげだよ。あれがなかったら、魔獣の不規則な突進のベクトルの芯を捉えることはできなかった。……それで、トア。ここまでの道のりの解析は終わったかい?」
ジンの鋭い眼光が、密林の向こうに広がる広大な大平原の境界へと向けられる。
「ああ、終わったぞ。長のばあさんは『帰るのに最低でも七年かかる』と言っていたが……お前が野生の魔獣を素手で屠りながら、一日も休まずに爆走で大陸を突き進んできたおかげで、道のりが大幅に縮まった。
──見ろ、あの平原の向こうにある巨大な山脈を越えれば、いよいよお前の探している相棒……エレノアのいる『中央大陸』の境界だ」
「……ついに、ここまで来たか」
ジンの胸の奥に、五年間ずっと絶やさずに灯し続けていた熱い火種が、激しく燃え上がった。
魔力ゼロの無能と蔑まれ、世界のルールによって引き離されたあの日から五年。
ジンは片時もエルのことを忘れたことはなかった。彼女のあの天才的な頭脳と、自分を必要としてくれたあの温かい涙。
「待たせてごめんね、エル。予定より二年早いけど、もうすぐ君の元へ行くからね」
密林の原住民たちから、今や『密林の若き龍』として神聖視され、立ち塞がる未開の地の魔獣や悪質な野盗どもをミリ単位の脱力打撃で一撃粉砕してきた少年は、トアや精鋭戦士たちを引き連れ、最終目的地である中央大陸へと向かって、さらなる爆走を開始した。
*
一方、その頃。
ジンが世界の果てから爆走しているとはまだ知らない、中央大陸の不気味な灰色に呪われた巨大都市──|『封殺都市・レムリア』《アンチ・マナ・シティー》。
その都市の中央にある、かつては豪華絢爛だったはずの領主館の最深部。
そこには、びっしりと敷き詰められた羊皮紙の魔術スクロールと、複雑に明滅する最新の演算魔導具に囲まれた、一人の『美しい少年』──いや、成長したエレノアの姿があった。
年齢は同じく十二歳。
男装の衣服を身にまとってはいるが、五年の歳月は、彼女の容姿を隠しきれないほどの気品と、誰もが見惚れるような儚くも美しい『美少女』のそれへと変貌させていた。
「──よし。ここの術式の第4階層、魔力因数の反転中和、完了。……これで全体の八割の回路改変が成功したよ、みんな」
エルが冷徹な知性の光を宿した瞳を上げ、周囲に控える都市の幹部たちに告げた。
「おおお……! 流石は『奇跡の賢者』エレノア様だ!」
「これで、我が都市を数百年縛り付けていた神の呪いが、ついに解ける……!」
都市の住人たちは、エルに向かって神を崇めるかのように一斉に跪いた。
五年間の孤独な戦い。
エルは自分を助けてくれた平民たちのために、ジンの「魔力を外にぶっ放すな。体内で局所循環させろ」という教えをベースにした、都市の呪いの大魔法陣の干渉を完全に無視する『新世代の気功魔導』を普及させ、都市の戦闘力を裏から爆発的に底上げしていた。
今や彼女は、この呪われた都市の絶対的なトップ──影の支配者にして、民衆から絶大な支持を得る『聖女』としての地位を確立していたのだ。
エルは窓の外の、重く垂れ込める灰色の空を見つめ、胸元に隠した、ジンがかつて使っていた焦げた衣服の切れ端をそっと握りしめた。
「ジン……君のくれた『緩解』と『軸定』の思想があったから、僕は、この世界の歪んだ神のシステムに負けずに、ここまで頭脳を研ぎ澄ませることができたんだ……」
エルの大きな瞳に、妖艶で、しかし狂おしいほどの執念の炎が宿る。
「世界のルールなんて関係ない。僕たちの技術で、この世界の神のシステムごと書き換えてみせる。……だから、早く僕を見つけてよ、ジン。僕は、とっくに世界をひっくり返す準備を終わらせているんだから」
技術を極めた『若き龍』と、世界のルールをハッキングする『奇跡の聖女』。
離れ離れになった二人の怪物が、それぞれの場所で世界の頂点へと昇り詰め、ついに運命の再会へ向けて、巨大な歯車が回り始めようとしていた──。




