野生の|身体操作《システム》と、七年の|絶望《ディスペア》
ガシャリ、と足元の砕けた吸魔の檻の鉄格子を踏み鳴らし、僕は一歩、外の世界へと踏み出した。
「さあ、おじさんたち。僕、すごく急いでるんだ。大好きな相棒を助けに行かなきゃいけないからね。──この密林の最短ルート、効率よく教えてくれるかい?」
僕が爽やかな笑顔のまま問いかけると、腰を抜かしていた二人の原住民の戦士は、まるで獰猛な肉食獣に睨まれた羽虫のようにピシリと身体を硬直させた。しかし、彼らの恐怖が限界に達した瞬間、それは野生特有の過剰防衛へと変貌した。
「ウ、ウガアアアアッ!!」
「死ね、化け物のガキがぁああっ!!」
二人は泣き叫びながら、動物の骨でできた鋭利な槍を同時に突き出してきた。
魔力は一切まとっていない。しかし、厳しい大自然を生き抜いてきた彼らの突きの速度と、獲物の急所を正確に捉える軌道は、先ほどの訓練された魔導騎士たちよりも遥かに実戦的だった。
──だけど、筋肉の力みに頼った攻撃であることには変わりない。
(大胸筋と三角筋に力が入りすぎだ。僕の『緩解』で魔力ノイズが消えたこの身体なら、そのベクトルの向きをそらすのは、赤ん坊の腕をひねるより簡単だよ)
僕は突き出された二本の槍の刃先に対し、スッと自分の両手を添えた。
力で押し返すのではない。相手の突進のエネルギーを、そのまま僕の『軸定』の骨格を通して斜め後ろの地面へと受け流す。同時に、二人の手首の関節に向けて、指先を軽く弾いた。
(──『緩解・微小浸透撃』)
「あがっ!?」
「がはっ!?」
骨を伝って脳へと直接響く微小な浸透衝撃。二人の戦士は、まるで落雷にでも打たれたかのように白目を剥き、その場に激しく転倒して完全に失神した。
「やれやれ。だから、話し合おうって言ったのに──」
「──見事な身のこなしだな、異邦の小倅」
その瞬間、僕の背筋に、前世の地下鉄の事故以来となる強烈な戦慄が走った。
背後の鬱蒼とした茂みから、一人の男が音もなく、本当に完全な『無音』で姿を現したのだ。
現れたのは、一際大きな獣の牙の首飾りを胸に下げた、浅黒い肌の屈強な男だった。
その構えは、前世の僕が知るどの武術の型にも当てはまらない。しかし、その立ち姿を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
(なっ……なんだ、あの身体のまとまり方は……!?)
男の身体には、一切の力みがない。それどころか、彼の骨格は、密林のうねるような重力と、完全に調和して一体化していた。
彼こそが、この密林を統べる原住民の戦闘リーダー──|トアだった。
「我が部下の無礼を許せ。だが、最高位の檻を素手で壊すような化け物だ、こちらも相応の対応をさせてもらうぞ」
トアの身体が、不意にブレた。
速い、なんていう次元ではない。彼は地面を『蹴って』いないのだ。
ただ、自らの重心を前に倒す挙動だけで、一瞬にして僕の眼前に肉薄していた。
(──『軸定・定位の型』!)
僕は瞬時に背骨の軸をミリ単位で垂直に整え、迎撃の体制を取った。
しかし、トアは僕の直線的な『軸定』の打撃が放たれるよりも早く、蛇のようにしなやかなステップで、僕の視界から完全に『消えた』。
(しまっ──『転位』が、先を越された!?)
「お前の軸は確かに綺麗だ。だが、型に囚われすぎて、自然の重力のうねりを味方にできていない。荒削りだな」
耳元でトアの声が聞こえた瞬間、僕の視界が大きく反転した。
トアが僕の腕を軽く払うような動きをしただけなのに、僕の『軸定』の完璧なはずのバランスが、根底からひっくり返されたのだ。物理的な力で投げられたのではない。僕自身の自重のバランスを、トアの野生の身体操作によって完全にハッキングされたのだ。
ドサリ、と僕は泥の上に背中から叩きつけられた。
前世も含めて、僕の技術がここまで完璧に、手も足も出ずに完封されたのは初めてのことだった。
「……くっ、あはは! 魔法なんかじゃない……これ、本物の『技術』だ……!」
僕は泥まみれになりながら、仰向けに寝転んだまま、脳内に突き抜けるような歓喜を覚えて笑い声を上げていた。
世界は広い。ステータスや魔力に頼らない、純粋な身体操作の達人が、この未知の密林には存在していたのだ。
「ほう。投げられて笑うか。大物の器だな、小倅」
トアは不敵に笑うと、僕に手を差し伸べて起こしてくれた。どうやら、僕に敵意がないことを理解してくれたらしい。
その後、僕はトアに連れられ、密林の奥にある彼らの集落へと赴き、一族の長である白髪の老人の前に通された。そこで僕は、自分が不思議な白き衣の男によって、別の場所から強制転移させられたこと、そして相棒のエルを助けるために元の場所へ帰りたいのだと、包み隠さず全てを翻訳して伝えた。
僕の話を静かに聞いていた長は、深い溜息をつきながら、残酷な現実を口にした。
「異邦の少年よ。お前の境遇には同情する。……だが、諦めることじゃな。ここはお前が元いた大陸から、果てしない海と、さらに二つの巨大な大陸を挟んだ、世界の最果ての地じゃ。大人が死に物狂いで歩いて帰ろうとしても──最低でも『七年』はかかる道のりじゃよ」
「……なっ」
七年──。
その言葉の重みに、僕の心臓がドクンと冷たく跳ねた。
今、僕は七歳だ。帰る頃には、十四歳の青年になってしまう。それだけの長い時間、エルの安否も分からず、ただ孤独に旅を続けなければならないのか。
圧倒的な距離という名の絶望が、僕の目の前に立ち塞がる。
「ジン、ここで一族の仲間として生きる道もあるぞ。お前のその技術のセンスなら、我が一族の戦士としても歓迎──」
「──いや。僕は行くよ、トア」
トアの慰めの言葉を遮り、僕は泥を払ってすっくと立ち上がった。
顔はまだ少し青ざめていたかもしれない。だけど、僕の瞳の奥の武術家魂は、一ミリも死んではいなかった。
「何もしないで諦めて後悔するくらいなら、何か行動を起こして後悔した方が、何倍もマシだからね。……それにさ、よく考えたら、七年かけてこの世界の未知の武術や、トアみたいな達人の技術を学びながら旅ができるなんて……武術家として、これ以上の贅沢な人生はないよ」
ニッと、僕は爽やかに笑ってみせた。
その僕の言葉を聞いた瞬間、長も、トアも、周囲にいた原住民の精鋭戦士たちも、全員が言葉を失って僕を凝視した。
「……ククッ、ハハハハハ! 気に入った! やはりお前は最高のバケモノだ、ジン!」
トアが腹を抱えて大爆笑した。
「長、僕にこいつの旅の護衛を許してください。このジンの技術が、世界の果てでどこまで通用するのか、僕のこの目で確かめたくなりました!」
長の許しを得て、トア、そして集落の精鋭戦士数人を伴った、僕の『七年におよぶ世界横断の旅』が、今ここに決定した。
*
一方その頃。
空間の裂け目に落ちたエル──エレノア・ヴァレンシュタインが目を覚ましたのは、僕のいる密林とは全く異なる、不気味な灰色の石造りの巨大都市だった。
「……ここは? ジンは……ジンはどこにいるの……!?」
エルは涙を流しながら周囲を見渡すが、ジンの姿はどこにもない。
絶望に打ちひしがれる彼女を助けてくれたのは、その都市に住む貧しい平民の優しい人々だった。しかし、その都市の様子は明らかに異常だった。誰もが魔法を使うことができず、重い病気にかかったかのように活気がないのだ。
都市のリーダーから話を聞くと、この都市には、過去に何者か──おそらくはあの『神の信徒』どもによって、都市の地下全域に、広域のマナの稼働を完全に停止させる|『魔力封殺の大魔法陣』《アンチ・マナ・サークル》が深く刻まれているのだという。
「魔法が……使えない呪いの都市……」
エルは、自分を助けてくれた親切な平民たちのために、そして何より、離れ離れになってしまった最愛の相棒ジンの言葉を思い出し、その小さな拳を握りしめた。
『力を外にぶっ放すな。体内で循環させろ』
「……ジン。君のくれたあの技術の感覚があれば、この都市の呪いなんて、僕の頭脳で絶対にハッキングしてみせる……。待っていて、ジン。必ず君の元へ行くから……!」
魔法の使えない呪われた都市で、一人の天才美少女が、数年がかりにおよぶ『世界の術式改変プロジェクト』へと、孤独に、しかし強い執念を胸に歩みを進め始めた。
*
そして。
エルの実家であるヴァレンシュタイン公爵家の『黒曜影衛隊』、およびジンの父親ガルク率いる元レジェンド冒険者パーティ『鋼鉄の狼』による捜索は、文字通り『最悪の難航』を極めていた。
「クソッ……手がかりが、これだけじゃどうしようもねえな」
ガルクは、ジンがバルトを倒した瞬間の庭の光景が刻まれた、わずかな『記憶の魔法章石』と、エルの姿が描かれた数枚の『映し絵』をデスクに並べ、苦渋の表情で頭を抱えていた。
世界のシステム側によって、二人の存在の『情報勾留』と記憶改変が行われているため、どれだけ公爵家の財力とガルクたちの戦闘力をもってしても、二人の転移先の手がかりが全く掴めないのだ。
それでも、親たちの愛は諦めない。
「どれだけ時間がかかろうが、世界の果てまで這ってでも、我が子を見つけ出すぞ」
ジン、エル、そして2人を追う親たち。
それぞれの場所で、数年の月日が、静かに、しかし激しく流れ始めようとしていた──。




