親たちの|暗躍《あんやく》と、骨の|理《ことわり》
その日、帝国でも一、二を争う最高名門、ヴァレンシュタイン公爵家の本家執務室は、凍りつくような静寂に包まれていた。
「……報告は以上です、公爵閣下。エレノア様を監視していたバルト殿、および現地に派遣した魔導騎士隊は全滅。生存者の証言によれば、エレノア様は『世界の秩序を乱す不届き者』として、突如現れた謎の白き衣の者に連れ去られ──同時に、現地にいた平民の小倅もまた、空間の裂け目に消えたとのことです」
膝をつき、冷や汗を流しながら報告を終えた隠密の部下を、公爵──オーギュスト・ヴァレンシュタインは、感情の消え失せた冷酷な瞳で見下ろしていた。
「そうか。下がれ」
「はっ……!」
部下たちが逃げるようにして執務室を退出し、重厚なオークの扉が閉まった、その刹那だった。
──轟ッ!!!
オーギュストの身体から、部屋全体の空気を一瞬で希薄にさせるほどの、凄まじい魔力放射が爆発した。
「どいつもこいつも……無能めがァアアアアアッ!!!!」
普段の冷徹な仮面をかなぐり捨て、オーギュストは咆哮した。
彼の放った魔力の衝撃波により、机の上に整然と並べられていた数千枚の重要書類や、純金製の高級な筆記用具、部屋に飾られていた高価な調度品が、まるで嵐に吹き飛ばされる木の葉のように、一瞬にして部屋中にバラバラと派手に吹き飛んだ。
「あなた、落ち着いて……っ!」
部屋の隅に控えていた妻のエルフレデが、夫の胸元にすがりつく。彼女の美しい顔もまた、我が子を奪われた母親の深い絶望と怒りで激しく歪んでいた。
「落ち着いていられるか! 我が娘、エレノアが……! 本家の血生臭い権力闘争から守るため、あえて『男装の無能』として辺境に隠居させ、牙を隠させていた我が最愛の娘が、正体不明の『神の使い』を騙る不届き者に連れ去られたのだぞ!!」
そう、ヴァレンシュタイン夫妻は、エルを冷遇していたのではなかった。
エルのあまりにも突出した異能(脳内魔法演算能力)が本家の老害どもに知られれば、都合の良い『政治の道具』として擦り潰される。だからこそ、冷酷な親を演じて彼女を遠ざけ、守っていたのだ。
「それに、あのバルトを、そして我が家の精鋭騎士団を呪文もなしに一撃で粉砕したという、あの平民の少年……ジンといったか。エルの術理を完璧に体現してみせたあの少年こそ、我が娘の最高の伴侶として、そして我が公爵家が密かに求めていた『新時代の技術』の主として、裏から手厚く保護する手筈だったというのに……!」
オーギュストは拳を机に叩きつけ、みしりと音を立てて木を凹ませた。
「あの白き衣の連中……おそらくは教会の根底に潜む、この世界のルールを牛耳る『神の信徒』どもの仕業だ。エレノアの頭脳とジンの技術が、世界のシステムを脅かすと判断して排除に動いたのだろう」
「……どうするのです、あなた」
エルフレデが涙を拭い、鋭い瞳で夫を見据える。オーギュストは衣服を整え、再び冷酷な公爵の顔に戻ると、影に向かって低く命令を下した。
「決まっている。我が公爵家最高の隠密部隊──『黒曜影衛隊』を全基稼働させよ。神の信徒どもに決して気づかれるな。世界を敵に回してでも、我が娘エレノア、そして我が公爵家が認めた唯一の男──ジンを、総力を挙げて極秘裏に捜索、奪還せよ!」
ヴァレンシュタインの牙が、世界に向けて静かに剥かれた瞬間だった。
*
一方その頃、辺境のハルバート家。
庭には、教会によって施された強烈な『広域記憶改変魔法』の残滓が漂っていた。村人たちは皆、「ハルバート家には最初から子供などいなかった」と、都合の良い偽りの記憶に書き換えられていた。
だが──我が家のリビングで、父親のガルク・ハルバートは、じっと自分の太い手のひらを見つめていた。
「……忘れるわけねえだろうが、クソッタレが」
ガルクの脳内には、ジンの教えが刻まれていた。
かつてジンが語った極意。自分の認識の軸を脳の最深部に固定し、外からのあらゆる精神的干渉を弾く『軸定・意識定位』の術理。
ガルクは無意識にその「癖」を実践していたため、世界のルールによる記憶改変を完全に弾き落としていたのだ。
「俺のバカ息子を、無かったことにされてたまるかよ」
ガルクは壁に掛けられた、かつて戦場を血で染めた大剣を掴み取ると、街の薄暗い酒場へと向かった。
酒場の奥の扉を蹴り開けると、そこには、かつてガルクと共に修羅場をくぐり抜けた、今は引退して偏屈な武器職人や酒場経営に収まっている、伝説の元Aランク冒険者パーティ──『鋼鉄の狼』のオヤジたちが集まっていた。
「おい、ガルクじゃねえか。どうした、そんな物騒な剣を引っ提げて」
「……お前ら、腕は鈍ってねえだろうな」
ガルクは大剣をドン、とテーブルに突き立て、かつての戦友たちを睨みつけた。
「俺の息子が、世界のバグだか神の使いだか知らねえ化け物に、世界の果てまで飛ばされちまった。……悪いが、お前らの命、もう一度だけ俺に預けろ。あの生意気で最高の俺の息子を、迎えに行くぞ」
オヤジたちは一瞬呆気にとられたが、次の瞬間、誰もが凶悪な、かつての戦士の笑みを浮かべて立ち上がった。
「ハッ、面白えじゃねえか。神様が相手だろうが、俺たちのリーダーの息子を奪ったってなら、そのクソ高い鼻をへし折ってやるよ!」
大人の、本物の戦士たちの捜索隊が、ここに結成された。
*
──場面は戻り、未知の原生密林。
「おい、あのガキ、本当に『魔力ゼロ』なのか? この最高位魔獣用の檻に入れられて、もう一時間だぞ」
「普通の人間のガキなら、魔力枯渇によるショックで、五分と経たずに内臓が壊れて泡を吹いて死ぬはずなのに……」
黒い鉄格子の外で、泥の化粧をした密林の原住民の戦士たちが、槍を片手に気味悪そうに僕を凝視していた。
彼らの言う通り、この黒い鉄で作られた檻は、触れるだけで体内のあらゆるエネルギーを強制的に吸い尽くす『吸魔の檻』だ。魔法に依存して身体を強化しているこの世界の住人にとっては、これ以上ない絶望の処刑台だろう。
だが──。
(うん、素晴らしいね。本当に素晴らしい環境だ)
僕は檻の中で、深く静かに『軸定』の呼吸を繰り返していた。
満身創痍だった肉体のダメージは、余計な魔力が檻にすべて吸い出されたおかげで、逆に『筋肉の無駄な力み(ブレーキ)』が完全に排除され、驚くほどクリアな身体感覚へと戻っていた。
(魔法使いにとっては絶望だろうけど、僕にとっては、これ以上ないほど純粋な『物理の骨格操作』に集中できる最高の実験場だ。魔力というノイズがないからこそ、骨と骨の噛み合い、自重が床に落ちるベクトルの向きが、ミリ単位で手に取るように分かるぞ)
やるのと語るのでは大違いの武術の世界。
僕はそっと立ち上がり、エネルギーを吸い取り続けている黒い鉄格子に、右手の指先を触れさせた。
(エルの解析を思い出そう。どんな物質にも、分子の結合の隙間──『構造的な弱点の軸』が必ず存在する。この檻はあらゆる魔力を吸収するけど、純粋な物理の、筋肉のブレーキを完全解放した『緩解』の浸透衝撃には、対応するシステムが組み込まれていないんだ)
僕は構えない。力を入れない。
ただ、足の裏から床の反発力を拾い、仙骨から背骨へとロスなく通す。そして、右手の指先を、パチンと、本当にただ蚊を払うような微小な挙動で、鉄格子に向けて放り投げた。
(──『緩解・微小浸透撃』)
カツン、という、小石が当たったかのような軽い音が響く。
「ハッ、無駄な抵抗を──」
原住民の戦士が嘲笑おうとした、その瞬間だった。
──|パリ、パリパリパリパリッ!!!《・・・・・・・・・・・・》
僕が指先を触れさせた鉄格子を中心に、不気味な白い亀裂が、まるで氷が割れるかのような速度で上下一杯に広がっていった。
魔力を吸い尽くすはずの無敵の鉄格子が、僕の放った「純粋な物理の振動エネルギー」を内部に限界まで浸透させられたことで、分子結合を内側から完全に破壊されたのだ。
──ガラガラガラッ!!!
次の瞬間、最高位魔獣を閉じ込めるはずの『吸魔の檻』が、まるでただの乾燥した豆腐のように、脆くも音を立てて粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
「お、檻が……素手で、崩壊した……!?」
原住民の戦士たちの脳が、恐怖と驚愕で完全に破壊された。彼らは槍を落とし、腰を抜かして地面にへたり込む。
僕は砕けた鉄格子の破片を踏み越え、檻の外へと一歩を踏み出した。
線の細い、色白の七歳の少年。魔力は完全にゼロ。
だけど、僕の肉体は、今この瞬間、前世の達人の領域すら超えて『完全に最適化』されていた。
「さあ、おじさんたち。僕、すごく急いでるんだ。大好きな相棒を……エルを助けに行かなきゃ行けないからね。──この密林の最短ルート、僕に効率よく教えてくれるかい?」
夕闇の原生密林に、ジンの爽やかで、しかし絶対的な強者のオーラを放つ声が響き渡る。
ステータス最底辺の無能による、世界を敵に回した本当の『逆襲劇』が、ここから幕を開ける。




