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第五話

誰も、すぐには動かなかった。

いや、動けなかった。

風の音だけが、通り過ぎる。


ユリの視線は、マサルの肩に釘付けになっている。

噛まれた跡。

血が、じわじわと広がっている。



「……消毒、しないと」


やっと出た言葉は、それだった。


「家までもうすぐだ。」


マサルが言った。

いつも通りの口調に戻そうとしていた。


「でも……」


「大丈夫だ」


ユリの声に

被せるようにマサルが言った。


少し間が空いてマサルはもう一言。。


「……大丈夫だから」


その言葉に、根拠はない。

でも、今はその言葉しか出てこなかった。


ユリは頷いてから

ヒヨリの手を握り

先ほどよりもペースを落として

3人は走り出した。



人の姿が少ない。

さっきまでいたはずの気配が、消えている。

遠くで、また何かが壊れる音がしていた。



マサルの足取りが、少しだけ重い。

ユリはそれに気づいていた。


「ねえ、パパ」


ヒヨリが見上げる。


「どうした?」


「ほんとに大丈夫?」


「…ああ。」


ぎこちない笑顔を浮かべて

マサルは答えた。


その笑顔からユリは目を逸らした。






いつもと同じ、見慣れた玄関。

そのはずなのにやけに遠く感じた。


鍵をかけていないドアを開けて中に入り

外の音を遮断した。



靴は履いたままでと

ヒヨリをリビングに促した。 

マサルは、その場に少しだけ立ち尽くす。


体に鞭を打ちリビングへと向かった。


「………肩見せて」


ユリが言った。



マサルは襟ぐりをひっぱって

肩の傷をユリにみせた。


思ったより深い、

そして誰が見てもわかる噛み跡だった。


「……これ、病院」


「行ける状況じゃないだろ」


当たり前の今の状況、当たり前の返事。

それでもユリは動かずにはいられなく

救急箱を取りに向かった。


テレビはついたままだった。


画面の色に違和感を覚えた。

赤い帯。


はじめて見るテロップだ



『家から出ないで!Don’t go out.!』


ユリの手が止まる。


『現在、各地で暴力的行動を伴う集団事案が発生しています』


『原因は不明ですが、接触による被害が拡大しており――』


ヒヨリが、画面を見る。

「……なにこれ」


″ショッキングな映像が流れます″の

テロップの後

モザイク越しからでもわかる

人が、人に噛みついている。

倒れた人が、また立ち上がる。

誰かが叫ぶ。



『絶対に外出しないでください。』






ユリの呼吸が浅くなる。

振り返り

マサルの肩、マサルの顔を見た。


マサルは、テレビを見ている。

そしてゆっくりと、目を閉じて

深く息を吐いた。


「……そういうことか」



マサルは小さく、呟いた。

ユリの中で、何かが崩れる。


「……ちがう」


反射的にユリが発した。


「ちがうよね?」

今度は祈るかのように……


マサルからの返事はない。

ヒヨリがマサルに近づこうとする。


「来るな!」


マサルの聞いたことがないような強い声が

部屋に響いた。


マサルが、顔を上げた。

その目にほんの一瞬だけ、違う色が混じる。



「ごめん。ちょっと、頭冷やす」


2人と視線を合わさず立ち上がろうとしたが

足に力が入らない。

マサルはふらついて壁に手をついた。


ユリは支えよう一歩前へ出るが

次の一歩が出なかった。



ーーー三人の距離が、ほんの少しだけ開く。ーーー





テレビの音だけが、続いている。



『繰り返します。感染の疑いがある場合――』


耳にいれなければいけない情報なのに

その音は虚しく響くだけだった。


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