第十話
壁には血がつき
床には動かない影がいくつも転がっている。
ユリは、足音を立てないようにヒヨリのもとへ
近づき、
小さな体を守るよう前に立った。
まだ、完全には終わっていない気がした。
動くものは、もうない。
ただ、マサルだけはそこに立っている。
さっきまでと同じように。
前を向いたまま。
剥き出しになった外界に視線を固定している。
……マサル
少し離れた位置でユリが、声をかけようとした。
が、できなかった。
ヒヨリが、ユリの服を掴む。
小刻みに震えているのがわかる。
ユリは視線を彼に向けたまま
ヒヨリの手を引き
静かに一歩、また一歩と下がった。
彼の手が届かない距離を目指して
ユリがマサルに全神経を集中していると
ヒヨリが前に出る。
「ヒヨリ!」
ユリが止めようと声を出した。
ヒヨリは、止まらない。
マサルとヒヨリは
手の届く距離だった。
「……パパ」
小さな声だけが部屋に響く。
マサルは、動かない。
ヒヨリが、もう一度呼ぶ。
「パパ」
一瞬。
マサルの指が、わずかに動く。
ユリのはその動きを見逃さなかった。
ヒヨリは気づいていない。
考える間もなく
彼とヒヨリの間に入るユリ。
彼に背中を向けヒヨリを庇うように
抱きしめて目を強く閉じた。
お願い……
せめて、ヒヨリだけは一瞬で……
こんな状況だからこそ
浮かぶ残酷な願いだった。
マサルの首が、わずかに傾く。
ゆっくりと音の方へ
その濁った目線の先には
大切なものを抱える″女″の背中があった。
マサルの手がぎこちなくユリに向いた。
獣のようなぎこちなさではなく
“何かを抑えている”みたいに。
ユリは何かを決断したかのように
ゆっくりと立ち上がり前を向いた。
そしてヒヨリの手をぎゅっと握り直し
彼の濁った目を見つめた。
「……マサル」
ユリがマサルの名を呼んだ。
その声は何かを諦めたような
そんな声だった。
その声に反応したかのように
マサルの視線がユリに動いた
ユリの中で、何かが引っかかる。
「……聞こえてるの?」
まるで自分に言い聞かせるように
彼に声をかけた。
ヒヨリはそれを何も言わずに見ていた。
「………マサル?」
ユリがもう一度彼に声をかけた。
マサルの体が、わずかに揺れる。
“迷い”のような動き。
ユリにはそう見えていた。
やがてその″迷い″のような動きは
両腕を横に広げるような動作へと変わり
すぐに下に落ちた。
ユリの心臓が、大きく鳴る。
ユリの中で、説明ができない何かが生まれる。
(この人は――)
(まだ、“マサル”だ)
根拠のない答えが
ユリの頭によぎる
ヒヨリが震えた声、次に少し大きな声で
「パパ……パパ!」
ユリは、
マサルを見ていることしかできなかった。
3人の
目の前で起きている事実
それが、すべてだった。




