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第九話

マサルは、動かなくなっていた。

呼吸はしていない。

頭を下ろし、うなだれているような姿勢。



その少し離れたところでユリは呼吸を整えていた。

震えた手には包丁が握りしめられていた。


ガチャ


ユリの後ろにある扉が開く音。

そこから小さな声が聞こえた。


「……パパ?」



目をこすりながらヒヨリが、小さく呼ぶ。

ユリの肩がわずかに動く。

咄嗟に包丁をヒヨリに見えない角度に持ち変える


「パパー!」

ヒヨリは走り出した。


「待って…!」

とっさに出た声は、思ったよりも弱かった。


ユリは手に持つ刃をどうするか一瞬戸惑う。

ヒヨリはユリの横を駆け抜けていた。


その声で、【マサルだったもの】は

ゆっくりと顔を上げた。

生きているはずがないのに…

関節が、引っかかるように動く。

乾いた音が、首の奥で鳴った気がした。

目は濁っている。焦点も合っていない。

それでも確かに“何か”を捉えたように動きが止まる。


それにヒヨリは一歩近づいた。

震えている。けれど止まらない。

ユリが包丁を強く握り直し

動き出そうとした時


掃き出し窓に、何かがぶつかる音がした。

次いで、ガラスが砕ける。

低いうめき声が、いくつも重なって

部屋の外から滲み込んでくる。


【マサルだったもの】の視線が、わずかに揺れた。

ヒヨリから、うめき声のする方へ


そしてまた戻る。

本能のようで、迷いのようでもある動き。


次の瞬間、ガラスが内側へ弾け飛んだ。

壊れた隙間から、腐った腕がいくつも伸びてくる。

皮膚は剥がれ、肉が覗き、骨が軋んでいる。


それでもその腕たちは動いていた。

まっすぐに、ヒヨリのほうへ。


「ヒヨリ!」


ユリの声が、今度ははっきりと出る。

駆け出そうとした、その瞬間…




【マサルだったもの】が、一歩、前に出た。


ヒヨリと【それら】のあいだに立つ。

最初に飛び込んできた【それ】の首を

【マサルだったもの】は掴んだ。

指が、肉に沈む。骨ごと、ねじる。

鈍い音と一緒に、首があり得ない方向へ曲がった。


ユリは、動けなかった。

逃げるなら今しかない。

それでも目を逸らすことができなかった。

ただ見ている。


それが“何か”を確かめるように。

次の一体が【マサルだったもの】に食らいつく。

皮膚が裂ける音がした。


【マサルだったもの】は振り払わない。

ただ、ヒヨリの前から動かない。




やがて、部屋は静かになった。

複数の【それら】の残骸。

水滴が滴り落ちる音だけが小さく響く




【マサルだったもの】

は、しばらくその場に立っていた。

やがて、ゆっくりと振り返る。


ヒヨリと、目が合った。

「……ありがとう、パパ」

小さな声だった。


【マサルだったもの】が、一歩

ヒヨリへ近付いた。


血を踏む音が、やけに大きく響く。


「……ヒヨリ」

ユリが、低く呼ぶ。


止めるつもりだった。

止めなければいけないと、分かっていた。


その手が、ヒヨリの頭へ伸びる。

途中で、一瞬だけ止まる。


噛みつくには、ちょうどいい距離だった。


ユリの喉が、ひくりと鳴る。

【マサルだったもの】の手はそのまま

ヒヨリの頭の上に落ちた。


撫でるような動きにはならない。

ただ、そこに置かれるだけだ。


重く、冷たい感触。

ヒヨリは、目を閉じた。


ユリは、その光景から目を離せなかった。

理解しようとしている。

これは何か。

あれは何なのか。


【マサルだったもの】の手が、わずかに震える。

理由は、分からない。


ユリの中に、言葉にならない問いが沈む。


それでも【マサル】のその手は

ヒヨリの頭の上にあった。

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