入館
腕の中のビスクドールとポスターの中のビスクドールは、何度も見比べてみても同じものだった。頭の中で軽い混乱が起きる。
幼い頃の灯の声が聞こえる。
「フランスに住んでる親戚が贈ってくれたの。一つ一つ手作りだから、このお人形は世界中にこの子しかいないんだって」
ビスクドールをぎゅっと抱きしめて嬉しそうに笑う灯の姿に胸が詰まる。
僕はきっと、この美術館の中に入らなければならない。
映画館のチケット販売ブースのようなガラス張りの向こうに人がいる。目の前に立つと抑揚のない声で「おひとりですか」と問われる。
「はい」
その人は一瞬だけ視線を僕に向けてから「学生一枚1200円です」と言った。
艶やかな金髪が光を帯びて華やかなのに、黒地に赤い彼岸花の刺繍が施された羽織がどこか薄暗い印象を与えてくる。美術館の受付という場所からは浮いた感じの人だなと思いながらチケットを受け取る。
ふとガラスに貼られている小さな物販用のチラシが目に入った。
売られているのは一種類だけ。ミルクキャンディだ。僕が探していたあの、灯のミルクキャンディが展示に準えた物品として売られている。
「あの、この…」
チラシを指差すと、金色の男はだるそうに視線を上げて「あぁ」と言った。
「ミルクキャンディ400円です」
どことなく背筋にぞくぞくした寒気を感じながらキャッシュトレーに小銭を置いた。差し出されたミルクキャンディは、記憶の中で灯の母親が持っていたものと同じ透明なガラスの瓶に入っている。しかし、手に取ってみると思っていたよりも小さかった。違う。僕が灯と離れている間に体が成長したのだ。
手の平の上のミルクキャンディの瓶を見つめた。
嫌な感じがする。灯のビスクドールに灯のミルクキャンディ。この二つの象徴は何を意味しているのだろう。知ってはいけない。知るべきだ。二つの意見が僕の中で交差して危険信号のアラートを鳴らす。
感じているのは恐れだった。明らかに怖い。怖さを誤魔化すために、僕はミルクキャンディを一粒、口の中に入れた。ミルクのとろりと濃厚な甘さが舌の上を転がる。
「あまーい。おいしーい」と笑ういつかの灯の声が耳の奥で聞こえた気がした。
その瞬間、背中から柔らかな風が吹いて髪を揺らした。
おいで、早くおいでと誘われているような。
美術館の中は無音だった。他の来館客の気配も、空調の音すらも何もしない。
キィンという小さな耳鳴りとリノリウムの無機質な床を踏む、ドクターマーチンのゴム底のひしゃげた音が頭の遠くで聞こえる。歩いている感覚なんてないのに、その音のせいで自分の足が前に前に進んで行くことがわかってしまう。
その世界は、呼吸を忘れるような美しさだった。




