ガラス瓶のミルク飴
葬儀に参列していた母に抱えられるようにして帰った。
そこからはほとんどを自室のベッドの中で過ごした。カーテン越しに感じる朝昼夜の訪れが信じられなかった。灯がいなくても時間が進んでいくことが、不思議で、もはや不気味なほどだった。
そうやって何日経ったのか、数えていなかったのでわからなかったけれど、久しぶりにスマホを開いたらバイト先から『解雇』というタイトルのメールが届いていた。
そっか、そうだよなと納得し、もう全てのことをどうでも良いと思っている自分に気づいた。
そんなことより、ほんの少しでも灯のことを考えて、感じていたい。
灯の母親に渡されたビスクドールはベッドサイドの窓際に置いてある。陶磁器でできたそのつるりとした肌を眺めていたらふと、小さい頃に灯と食べたミルク味の飴を思い出した。口の中の温度で少しずつ溶けて最後にはガムみたいに噛めるようになるやつ。小さい頃の僕たちはその飴が大好きで、公園からの帰り道、灯の母親にもらってよく食べていた。「灯は低血糖になりやすいから、飴を常備してるのよ」と言いながらガラスの小瓶からころりと手のひらに転がってくるミルク飴。小さい頃の灯からはいつもそのミルク飴の香りがしていて、同じものを口に含みながら家に帰っている道中は格別に、『灯と同じもの』になれた気がして幸せだった。
ふと、灯の遺体の横に転がっていた空っぽのガラス瓶を思い出す。
君はずっと、あのミルク飴の香りの女の子だったのか。
あんなに幸せだったのに、僕は自分から灯の手を離してしまっていた。
階段の下に、血を流しながら倒れていた灯を見つけた日からほんの少しも空腹を感じない。ゆるいゼリーのような膜で体の表面を覆われて、まるでそのゼリーが僕の体をまるご真空パックにしてしまったかのように、あの日のあの場所にいるままのような心地なのだ。
灯の死んだ日から僕の時間は止まっている。
食べることは生きることだ。このまま食事を拒否し続けて、緩やかに死んでいくのは少し素敵なことかもしれないと思った。
自殺なんてしたら、きっと灯は悲しむ。
優しい灯のことだから、遺された家族や友人や、もはや関係性の薄くなってしまった僕のような存在に対してもきっと『幸せに生きてほしい』とか、天国で思ってるんだろう。だから積極的な自殺はしない。
でもどうしようもなく、何に対しても動力が見つからないのだ。灯のいない世界で僕が幸せに生きることなど出来ないのだから。
死にたいわけじゃない。ただ、ここから消えてなくなってしまいたい。ペラペラの、あの棺に詰め込まれた花や手紙のように薄い存在になってしまえれば、僕も灯と同じ場所に行けるのかもしれない。そんな、甘美な妄想に取り憑かれている。
甘い甘いミルク味でもって灯を感じたい。久しぶりに感じる食欲だった。けれどそれは飢えからくるものではなく、あまりにも純粋な灯への想いの体現に感じた。あの甘いミルク味を舐めている間だけでも僕は、灯になっていたい。
どこにいても灯を感じていたくてビスクドールを抱えて家を出た。
そうだ、僕はずっと灯に触れたかった。初めて会った時からだ。白くて柔らかな肌が赤くなるほど強く掻き抱いて、首筋に鼻を埋めて噛みつきたかった。その血を舐めて啜りたいと、心の奥底で願っていた。
あの日、灯の頭蓋から流れた真っ赤な血を見た時、(あぁ、もったいない)と思ったんだ僕は。
ミルク味の飴を探して歩く、見慣れた街の道の上。頭の芯が静かに冷えていく。極めて冷静な状態で僕は、あの日あの時の自分の感情と向き合った。
大好きな、大好きな、世界で唯一僕に恋を教えたあの美しい女の子を構成していたものが、誰彼構わず踏みつけられてきた廊下に垂れ流されていたことが、そんなどうでもいいような扱いをされていることが、悔しかったのだ。灯はその美しさ、心根の優しさから崇められ、天上人のように扱われなければならないはずなのに、あの冷えた廊下で石ころのように転がって死んでしまった。
灯のその体はもう、この世界のどこにもない。焼かれて灰になった。どこを探してももう灯はいない。
ぎゅっと抱きしめたビスクドールの、笑っちゃうくらいに派手なドレスがくしゃっと音を立てる。
…そうだ、コンビニに行かないと。ミルク味の飴を舐めないといけないのだ。
そうして目線を上げた僕の目の前にビスクドールがあった。思わず腕の中のビスクドールを確認する。ここにある。僕の腕の中に確実にある。
もう一度視線を上げると確かに僕の腕の中にあるビスクドールと同じ人形が立て看板に貼り付けられたポスターとなっていた。
『境界美術館 新作展示品―思い出のビスクドール』
印刷されたビスクドールは無機質に仄かな微笑みを浮かべている。




