「ひさちゃん」
「ひさちゃーん」
僕が灯からそう呼ばれていたのは何歳くらいまでだっただろうか。徒歩3分の距離にお互いの家があって、同じ幼稚園に通っていた。保育園に比べて幼稚園は帰宅時間が早いので、僕たちは帰りの道すがらそれぞれの親に連れられてほぼ毎日一緒に公園で遊んでいた。砂遊び、滑り台、ごっこ遊び、追いかけっこ。
僕は灯のことならなんでも知っていたし、灯は僕のことをなんでも知っていた。まるで自分の半身のように感じていた。そう思っていたのは、僕だけじゃなかったはずだ。
まるで走馬灯のように、僕は灯のことを思い出していた。
灯が可愛いかどうかなんてどうでも良かった。そんなことより一緒にいて楽しいかどうかが最優先だったはずだ。そして僕たちはお互いが、一緒にいると一番楽しい相手だったから一緒にいた。そのはずだった。
中学校の入学式。当たり前のように一緒に登校した僕たちは、クラス分けで別々になった。ホームルームも終わり、後は灯を迎えに行って帰るだけだった。その時、
「あの子さ、3組の高尾さんと付き合ってるのかな」
「え、無いでしょ。ジャンル違うじゃん」
「でもさ、朝一緒に来てたよね」
「しかも、距離近めだったよね」
女子たちのひそひそ声と、男子たちからの湿度を帯びたような視線。
僕はそれを身体感覚として受け止めてしまった。
「高尾さんてあのめっちゃ可愛い子でしょ?肌白くって目が大きくて細くってフランス人形みたいだよね!」
誰かの声。フランス人形。そうだ。灯は、あの、美しいビスクドールと、いや、それ以上に、灯は、灯は。
くしゃ、と小さな音がしてふと我にかえった。
音のした方を見ると、ビスクドールと目が合う。ここに至るまでの記憶が朧げだ。
僕は灯のビスクドールを抱えて、道端に突っ立っていた。くしゃ、という何かが潰れたような音は、僕がビスクドールのドレスを強く握りしめた音らしい。
どうして僕はここにいるんだっけ。
明確に思い出せる最後の記憶は、灯の入った棺が炉の中に入っていく様子だ。灯の棺の中はたくさんの花や手紙、思い出の写真で溢れていた。灯の人望と、求心力が具現化したような棺だと思った。
でも、出来ることならその棺の中に入りたかった。
ペラペラした花びらや手紙より、僕の肉体一つの方が、よっぽど灯に寂しい思いをさせないで済む。そんな風に思ったのだ。
僕を、一人にしないでずっと一緒にいてくれた灯が、どうして棺の中でたった一人で燃やされなくてはならないんだ。
僕が、一緒に逝くのに。
頭の中ではそうやってぐるぐると灯のことを考えているのに、僕の体はほんの少しも動かなかった。炉の中に灯の棺が入っていくその瞬間も、僕の体はほんの少しも動けなくて、呼吸をすることすら忘れ、固く閉ざされた金属製の炉の扉を見つめていた。
骨上げまでの時間を控室で待っていろという指示の声が聞こえて、やっと自分が呼吸ー酸素を吸って吐くという単純な生命活動―を忘れていることに気づいた。脳みそはとっくに酸欠を起こしている。僕はふらふらになりながらとりあえず炉のある部屋から出てしゃがみ込んだ。
今、まさに今、灯の体は灼熱の炎に焼かれている。灯だったはずの血が、肉が、無に帰そうとしている。
「ひさちゃん…?」
酸欠で目眩を起こしている僕の耳に、灯の声が聞こえた。
もう何年振りかに聞く、僕を呼ぶ灯の声。
そうか、やっぱりそうか。やっぱり灯が死んだなんて、灯の体が焼かれているなんて趣味の悪い冗談だと思ってたんだ。
灯、と呼んで振り返ると、そこにいたのは灯のお母さんだった。華奢な体を包む喪服の黒。思い出よりもさらに痩せた華奢な腕に抱かれているのは、場違いなほどに鮮やかなドレスを身に纏った一体のビスクドールだ。
この親子はとっても声が似ていて、高尾家のインターフォンを押した時にはどっちが応答したのか毎回わからなかったんだった。
「ひさちゃん…。今日あなたに会えたら渡そうと思っていたの。灯のビスクドール。あの子が大事にしていたものだから。男の子のあなたに渡すようなものではないと思うけれど、あの子がいつも話しかけていたのよ。『ひさちゃんと今日も話したかったな。今日も話せなかったな。なんて話しかければいいのかな』って。きっと、ひさちゃんへのあの子の気持ちが一番詰まっているものだから。…もらってあげてくれないかしら」
灯のお母さんはそこまで言うともう耐えきれないと言うように掠れた声で泣いた。耳をつんざくような悲しみの声に僕はもう限界を感じていた。
灯のいない世界の孤独が、耐えられない。




