聞こえない声
境界美術館の中はまだ灯の走馬灯が展示されている。灯が死の直前に思い浮かべた風景は穏やかな色合いで優しく、灯という女の子の人間性をそのまま写しているようで心が痛い。
リノリウムの床をドクターマーチンが擦るたび、灯の優しさに押しつぶされていくような気持ちになった。
ふと、展示の中盤あたりで角を曲がった時に『声』が聞こえてきていないことに気がついた。
「あれ?」
ごく小さな声で呟いたはずが、前を歩く真珠の耳にも届いていたらしい。
「どうした?」
真珠は、くるりと細い首を回して僕を振り返った。
「あの、声が…聞こえないなと…思って」
「ふぅん…?」
真珠は体ごと僕に向き直って、顎に手を当ててしばし考えた。
うっかり正直に話してしまった僕は、このままじゃ展示されていない灯の走馬灯を見せてもらえないかもしれないという可能性に気づき、「あの、でも…っ」となんとか言い訳をしようと、オロオロした。
「まぁいいや。とりあえず付いてこい」
さっと背中を向けて歩き出す真珠に安心しつつ、このまま走馬灯を見ても『声』が聞こえないのであれば、灯のことを知ることが出来ないのでは無いかと、僕の心から不安はなくならない。
二つ目の角を曲がって少し歩くと右手側に白いカーテンで隠されたドアがあった。中に入るとまたすぐ右側にドアがあり、「ここ」と真珠が言いながらドアを開ける。
美術館の保管庫など立ち入ったこともないのでどういう場所かもわかっていなかったが、ぱっと見た感じでのイメージでは、図書館のようだと思った。
部屋に入ってすぐに大きな書机が二つ、人が通れるくらいの間隔をあけて左右に置かれている。その奥には書棚が十台ほど立ち並んでおり、書棚の横には年代を示す数字を書いた紙が貼られている。
真珠は迷うことなく左奥から六つ目の書棚に進んでいく。僕もその後に続いた。
六つ目の書棚には過去の展示物がまだ半分ほどしか置かれていない。空いた部分から左奥を見ると、展示品は端から端まで埋まっているようだ。対して僕から右方向の書棚には何も置かれていない。がらんどうだ。「境界美術館は自死者の走馬灯を展示する」不意に昨日聞いた真珠の声が脳内で蘇り、僕はゾッとした。つまり、僕の左側には自死者の走馬灯が詰まっている。右側はこれから自死者となる人の走馬灯のために空けられているのだ。
「おい」
「ひっ。はいっ」
急に声をかけられて思わず変な声を出してしまった。真珠はそんな僕を見て、一瞬呆れたような顔を見せたがすぐに「量が結構あるから、順番に渡してく。書机の方に運んでけ。慎重にな」と言って脚立に登ると、埃除けのざらついた布に包まれた灯の走馬灯を数点取り出して僕に渡した。ずしりとした重みに灯の命を思う。
あの華奢な体の中にたくさんの想いや記憶を抱えて、灯は最期に何を考えていたんだろう。
何回かに分けて運んだ、展示されていない灯の走馬灯は二つの書机を埋め尽くした。
布を取り払って現れた灯の走馬灯たちはすべて、シャボン玉だった。
ふわふわと風に乗るたくさんのシャボン玉、シャボン玉の虹色をごく近距離から見たもの、弾ける瞬間のシャボン玉。
「こんなにたくさんのシャボン玉の絵ばかり飾ったら、シャボン玉の展示になっちまうだろ」
脚立を片付けた真珠が出てきて言った。
小さい頃に灯とシャボン玉をした記憶はある。何度も公園で遊んで、どっちのシャボン玉が大きいか競ったり、灯の母親が作ったシャボン玉を二人で追いかけたり。けれど、死ぬ直前の走馬灯にこんなにたくさん思い出すほどの大きな出来事だったとは思えない。
灯の声が聞きたい。教えて欲しい。どうしてこんなにシャボン玉を思い浮かべたのか。このシャボン玉は灯にとっての何なのか。
「やっぱり聞こえないか?」




