彼女の見ていた世界
「美術館に入った瞬間から、耳鳴りがしたんです」
歩みを進めるに連れその甲高い音の耳鳴りは形を持つかのように人の声になった。
「お花きれいねぇ」
「あかりのあめとこうかんしよ」
「ね?おにんぎょうかわいいでしょ?」
舌っ足らずな幼い頃の灯の声だ。最初は思い出が脳内で再生されているのだと思った。けれど、思い出にしては耳に鮮明な音で『聴こえる』。
灯の声がもっと聴きたくて、足が進んだ。
そして次第に、僕が知るはずのない声が聞こえてきた。そう、僕が灯を避け出した後の声だ。
「ひさちゃん忘れ物かな。鞄とか机の中とかずっと探してる。何忘れたのかな。貸すよって言ったら嫌な顔するかな」
「ひさちゃん寝不足?運動会の注意事項も聞かないでそっぽ向いてあくびしてる。夜更かしの理由、あるなら知りたいな」
聞こえてくる灯の声。知らない灯の声。
綺麗な綺麗な灯の、心の声。それらのほとんどは、僕に向けられたものだった。
「ひさちゃん、笑って」
最後の展示。生前の灯が一度も見たことがないはずの僕の満面の笑顔には、そんな声が聞こえた。
笑えるわけがないじゃないか。君がいなくて、世界中のどこにももう君がいなくて、どうやって笑えばいい。
心の中身が全部ひっくり返ってしまったような心地だった。
近所の可愛い女の子だったはずの灯はいつの間にか美しく、聡明で優しいスペシャルな女性になっていた。そのことが受け止められなかったから僕は逃げたのだ。
こんな自分が近くにいるのは灯のマイナスにしかならないとかなんとか、言い訳をたくさん作って、ただ、輝くような女の子の隣に立つ自信と勇気がなかったんだ。
そしてそのための努力すらも放棄して逃げたのだ。
逃げただけの臆病者の僕に「笑って」なんて。
遠目から見る、誰かに笑いかける君を盗み見るしか出来なかった。あの美しい笑顔が僕に向けられないことが悔しかったのに。
僕は何もしないまま君を永遠に失ってしまった。
「あれが、灯の走馬灯…」




