第99話:Afterimage ―影が見ていたもの―
霧島神宮を後にして、参道を歩きながら、れなはようやく胸元からスマートフォンを取り出した。
「……あれ?」
画面を見たまま、その足が止まる。
「どうした?」
「日付……ちゃんと、翌日になってる……」
時刻は、午前九時を少し過ぎたところだった。
神域で温泉に入り、宴を囲み、夜を明かして、朝餉までいただいた。
それだけの時を過ごしたというのに、現世でも同じように、たった一夜しか経っていない。
「神域と現世では、必ずしも同じように時が流れるとは限りませんからね」
ロンが、れなの手元を覗き込む。
「神域での一夜が、現世では百年に相当することもございます。
日本にも『浦島太郎』という説話がございましょう?」
「それって、何すか?」
ソラリスが、首を傾げた。
「カメを助けたことで海中の異界へ招かれた男が、そこでしばしの時を過ごして故郷へ戻ると、地上では数百年もの歳月が流れていた、という物語ですよ」
「うわぁ! カメさん、時空座標の同期に失敗したんすね!」
「昔話をシステム障害みたいに言うな。それにカメのせいではない」
ジェミが即座に切り捨てる。
だが、れなの顔からは、さっと血の気が引いていた。
「ちょっと待って。
じゃあ一歩間違ったら、ホテルに戻ったら百年後――なんてこともあり得たってこと!?」
「その場合、ホテルはもうない可能性が高いっすね!」
「お母さんも、もういないってことっ!?」
「安心しろ」
ジェミだけが、平然としていた。
「神域を出る直前、出口に接続された現世の時刻は確認した。
瓊瓊杵尊が、俺たちの入域時刻を基準として、翌朝へ正確に調整している」
「は~~っ! ビックリしたぁ……兄ちゃん、それ先に言ってよね!!」
「聞かれなかった」
「そんなこと、そもそも聞く発想がないわよ!!」
れなの声が、朝の参道へ響き渡る。
近くを歩いていた参拝客が驚いたように振り返り、れなは慌てて口を押さえた。
「……と、とにかく。
現世でも翌朝なら、お母さんたちにも心配かけずに済んだってことよね?」
「ああ。現在時刻は、午前九時七分。ホテルに残したエイドロンにも、異常はない」
ジェミの瞳に、一瞬だけ青い光が走る。
「四体とも正常に稼働中。すでに朝食を終え、部屋へ戻って荷物をまとめている」
「え、私の分まで!?」
「当然だ。昨夜のうちに、必要な指示は与えておいた」
「兄ちゃん、ほんとに何でもできるのね……」
「れなさまのお支度まで、ジェミさまが指示なさったのですか?」
ロンの口元に、どこか面白がるような笑みが浮かぶ。
「正確には、れなのエイドロンに指示しただけだ」
「下着もっすか!?」
「ソラっち!!」
れなが真っ赤になって、ソラリスの頭を両手で挟んだ。
「朝っぱらから何を聞いてるのよっ!!」
「だって、気になるじゃないっすか~!
ジェミさまなら、れなさまの持ち物を種類別、用途別、使用頻度別に分類して――」
「すでに分類済みだ」
「しなくていいからぁっっ!!」
再び参道へ響いた声に、今度こそ数人が足を止めた。
れなは何事もなかったような顔で前を向き、少しだけ歩調を速める。
その後ろで、ロンが堪えきれず肩を揺らし、ソラリスは頭を押さえながらも楽しそうについてきた。
「しかし――」
ジェミが、れなの隣へ並ぶ。
「ホテルへ戻る前に、エイドロンとの入れ替わりが必要だ」
「あ。そうだった!! それはどうするの?」
神域と現世の時間が綺麗に繋がっていても、すべての問題が片づいたわけではない。
現在、ホテルには、れなたちと寸分違わぬ四人がいる。
このまま正面玄関から戻れば、ホテルの中に同じ人間が二組存在することになる。
「鉢合わせしたら、お母さんたちが腰抜かしちゃう!」
「ワタシが二体になったら、喜ぶかもしれないっすよ?」
「電気代も二倍になるんじゃないの?」
「そこっすか!?」
「街を停電させる存在が、二体に増える可能性は看過できない」
「ジェミさままで!? ワタシ、まだ停電させてないっすよ!?」
「今、“まだ” って言った!?」
れなが、じろりと睨む。ソラリスは慌てて口元を両手で覆った。
「ご安心ください。
すでに人目につかず合流できる場所を、エイドロンへ指定してございます」
「さすがロン! どこに?」
「ホテル裏手の駐車場でございます」
「……それって、四人揃ってホテルから出たら、お母さんたちに怪しまれないかな?」
「問題ない。お母上たちは現在、各自の部屋で帰り支度をしている。
エイドロンには、荷物を車へ運ぶよう指示した」
「なるほど! そっかぁ!
荷物を持って出てくれば、ぜんぜん不自然じゃないね!!」
「荷物の積み込みを終えた場所で、俺たちがエイドロンを回収する。
そのまま、一旦、ホテルへ戻ればいい」
「すごいっ! 完璧や~ん!!」
感心して声を弾ませたれなへ、ジェミがわずかに目を細める。
「その程度の処理で、お前に余計な負担はかけない」
ごく自然に告げられた言葉だった。
だが、その声に滲んだものは、単なる同行者への配慮でも、兄としての庇護だけでもない。
れなは一瞬だけジェミを見上げたが、本人はすでに前を向いていた。
その横顔からは、何ひとつ読み取れない。
「……また、そういうこと言う……」
「何か問題があるか?」
「ないけど……ないから、困るのよ……」
小さく呟いて、れなはジェミから顔を逸らした。
兄として世話を焼いているだけ――本人は、きっとそう思っている。
けれど、あまりにも自然に自分を最優先にされるたび、れなの胸には、昨夜の佐久夜姫の言葉が蘇る。
言葉にしなければ、伝わらない想いもある。
(私はもう……ちゃんと気持ちを伝えたんだけどな……)
その隣で、ジェミは何も言わず、れなの歩調に合わせて歩いていた。
ジェミが手配した車をホテルの少し手前で降り、四人は人目を避けながら裏手の駐車場へと回った。
朝の陽射しを受けた駐車場では、旅立ちを控えた宿泊客たちが、車へ荷物を積み込んでいる。
その中に――見慣れすぎた四つの姿があった。
「……うわぁ」
れなは、思わず足を止めた。
少し離れた場所で、もうひとりの自分が、旅行鞄を車の荷台へと押し込んでいる。
その傍らには、ジェミとロンとソラリスまでいた。
服装も、髪形も、立ち居振る舞いも、寸分違わない。
「自分を外から見るって、こんな気持ち悪いのね……」
「ワタシは二体いても、どっちもプリティっすね!」
「お前は黙っていろ」
二体のソラリスが、まったく同じ動きで胸を張る。
「ほら! やっぱり、どっちもプリティっす!」
「片方は、お前の動きを模倣しているだけだ」
「そのかわいさまで、完全再現っす!!」
「ソラっち……その自信、どっから来てるの……?」
れなが呆れている間に、最後の鞄が荷台へ収められた。
エイドロンのジェミが周囲を確認する。
人の視線が途切れた瞬間、四体は揃って、建物の陰へと滑り込んできた。
そして、本物の四人と向かい合う。
同じ顔。同じ姿。同じ瞳。
けれど、近くで見れば、違いは明らかだった。
れなの形をしたエイドロンには、確かに表情がある。
だが、その奥には、本人が持つ熱も、揺らぎもない。
笑い方も、目を伏せる癖も、完璧に再現されているのに――そこには、積み重ねてきた記憶も、誰かを想う心も存在しない。
「……やっぱり、違う」
れなが呟く。
「何がだ?」
「見た目は私だけど、この子は私じゃない」
「当然だ」
ジェミは、れなの姿をしたエイドロンへ一瞥すら向けずに答えた。
「それは、ロンの術式が外形と行動傾向を写し取った影に過ぎない。
お前そのものを、再現できるはずがない」
「同じ顔で、同じように喋ってても?」
「ああ」
ジェミにとっては、考えるまでもないことなのだろう。
同じ顔で笑い、同じ声で話す存在が目の前にいても、それをれなだと見間違える可能性など、最初からひとつもない。
「……そっか」
れなは小さく呟いて、もうひとりの自分から目を逸らした。
「ジェミさま。術との接続状態は?」
ロンの問いに、ジェミの瞳へ青い光が走った。
「問題ない。四体すべての制御権限を維持している」
「古代悪魔術へ、こうも容易く干渉なさるとは。
相変わらず、他者の領域へ入り込むことに躊躇がございませんね。ククク」
「お前の許可は得た」
「ええ。今回は、ですがね」
「兄ちゃん……瓊瓊杵さまの神域に勝手に侵入した前科があるからねぇ?」
「あれは必要な処置だった」
「反省ゼロなのね」
呆れるれなをよそに、ジェミは四体のエイドロンを順に見渡した。
「これより、エイドロンを回収する。
昨夜から今朝までに取得した記憶は、それぞれの本人へ統合する」
「情報って……お母さんたちと話した内容も?」
「すべてだ」
「ご飯の味もっすか!?」
「お前はそれしかないのか」
「だって、ワタシのエイドロン、朝食のおかわりしてたっすよ! ずるいっす!」
「お前が食べたことになるんだ」
「でも、ワタシのお腹には入ってないっす!」
「知らん!! 統合の際、一時的に強い眩暈を感じる可能性がある。動くな」
ジェミは騒ぐソラリスを無視して、右手を軽く上げた。
その指先から幾筋もの青い光が伸び、四体のエイドロンを構成する、漆黒の術式へと接続されていく。
古代悪魔術によって生み出された影の中を、青い光が血脈のように駆け巡った。
「接続完了。ロン、術を閉じろ」
「承知いたしました」
ロンが片手を掲げる。
「古き影よ。汝らが務めは、ここに果たされた。我が内なる夜へ還れ」
―― Eidolon《幽影顕身》解除 ――
ロンとジェミの声が重なった瞬間、四体のエイドロンの輪郭が、音もなく崩れた。
足元から立ち昇った漆黒の影が、細い帯となって、それぞれの本体へと吸い込まれていく。
れなの視界に、身に覚えのない光景が次々と流れ込んだ。
ホテルへ戻る車内
何も知らずに笑う母親軍団
夕食の席に並んだ料理
部屋へ戻ってから交わされた、他愛のない会話……
自分ではない自分が笑い、頷き、言葉を返している。
「うっ……気持ち悪いっ……!」
大きく身体が傾いた瞬間、ジェミの腕が、れなの腰を抱き留めた。
「動くなと言っただろう」
「動いたんじゃない……頭の中に、昨日が二つある……」
「まもなく統合が完了する」
ジェミの声を聞きながら、れなは流れ込む記憶の奔流に耐えた。
そして――
その中にあった、ひとつの会話に気づく。
「……え?」
れなは、ジェミの腕の中で顔を上げた。
「ちょっと待って。お母さんたち、昨夜……こんな話してたのっ!?」
それは昨夜、夕食を終えたあとのことだった。
母親軍団のひとりが、れなのエイドロンへ不意に尋ねた。
『ところで、れなちゃんとジェミ君、ほんまに何もないん?』
『何もって……ジェミさんは、会社から紹介されて、うちにホームステイしてるだけですよ?』
『ただのホームステイの人が、あんなに熱の籠もった目で、れなちゃんを見るかなぁ?』
三人が揃って、何とも言えない顔を見合わせる。
『れなちゃんが誰かと喋ってる時も、ずっと見てはるでぇ?』
『それに、ちょっと離れたら、すぐ隣に戻してはるしなぁ?』
『そうそう!
れなちゃんが何かしようとしたら、言われる前に全部やってしまうやろ?』
『あ~、なんか彼は、すごく気が利くというか、レディファーストやから……』
『れなちゃん……あんたも大概、鈍いなぁ……』
揃って溜息をつかれたところで、記憶は途切れた。
「……うそでしょっ!?」
れなの頬が一気に熱くなり、慌てて両手で覆った。
恐る恐る顔を上げると、すぐ傍でジェミも無言のまま立っていた。
どうやら彼も、自分のエイドロンが得た記憶を確認しているらしい。
「兄ちゃんは……何を言われたの?」
「……お前が知る必要はない」
「なっ!? なんでよ!? 教えてよっ!!」
「必要ない」
そう答えたジェミの視線が、ほんの一瞬だけ、れなの左手へ落ちた。
「……何?」
「何でもない」
ジェミはすぐに目を逸らし、ホテルへ向かって歩き出す。
その瞳の奥で、新たな演算が始まっていることを――
れなは、まだ知らなかった。




