第98話:Insignia ―天孫の御標―
朝餉を終えると、広間では、慌ただしく出立の支度が始まった。
九面たちが、パタパタと出たり入ったりを繰り返している。
黒い染みの浮かんだ神札は、瓊瓊杵尊が用意した白い絹に包まれ、れなの手へと渡された。
「これは、我らが確認できた異変のひとつに過ぎぬ。
新たな報せが届き次第、叔父上を通じて知らせよう」
「瓊瓊杵さまたちも、無理しないでくださいね?」
「それは、こちらの台詞だ」
瓊瓊杵尊は苦笑しながら、れなの額を指先で軽く小突いた。
「おぬしは目の前に苦しむ者がおれば、己の身を顧みず飛び込んでゆく。
昨夜も申したが、此度は調査だ。くれぐれも忘れるでないぞ」
「うっ……努力します」
「努力では困るのだが……」
「大丈夫です。れなに無謀な行動はさせません」
横から答えたジェミに、瓊瓊杵尊が疑わしげな目を向けた。
「おぬしも大概だと思うがな?」
「俺は常に、あらゆる危険性を精査した上で、最適な行動を選択しています」
「その結果が、単身で神域へ侵入し、余の権能を掌握することであったか」
「あれは最短かつ、最も確実な方法でした」
「兄ちゃん……そういうとこだと思うよ……」
れなが呆れたように見上げても、ジェミはどこ吹く風である。
その傍らでは、ロンが旅装を整え、ソラリスは残った料理を持ち帰れないかと、九面たちに必死の交渉を続けていた。
「この絶品卵焼き、亜空間に入れといたらダメっすか!?」
「日持チ……シナイ……オ腹、壊ス……ヨ?」
「時間停止しとくっすよ!?」
「食べ物のために、時空を止めるな」
「ジェミさまに言われたくないっす!」
再び賑やかになった広間で、佐久夜姫が袖を口元へ当てて笑う。
「ふふっ。最後まで、本当に楽しい方たちですこと」
「最後ではありませんよ」
れなはそう言って、佐久夜姫へ微笑み返した。
「また来ます。
調査の報告にも来なきゃいけないし、それがなくても――
普通に、遊びに来てもいいですか?」
「ええ。もちろんです!」
佐久夜姫の瞳が、嬉しそうに細められる。
「次は何も起きていない時に、皆でゆっくり温泉へ入りましょう」
「はいっ!」
「次こそは、余も一緒に入るぞ!」
「瓊瓊杵さまは、男湯でしょうが!!」
磐長姫が呆れた顔で言った。
「佐久夜と余は、夫婦なのだぞ!?」
「だからって女湯には入れません!!」
れなも呆れたように言った。
「……昨夜は余を置いて、女たち三人で楽しんだではないか」
頬を膨らませた瓊瓊杵尊を、佐久夜姫が呆れ顔で見つめる。
「あなたさまは男湯で、ジェミ殿と大切なお話をなさっていたのでしょう?」
「まあ、それはそうなのだが……」
「良いではありませんか。次は貸し切りの湯を用意いたしましょう」
「絶対、覗けないようにしてくださいね?」
「れな。余を何だと思っておる」
「つもりオバケで、マジなヘタレ!!」
「おぬしっ! まだそれを引っ張るのか!?」
広間に、明るい笑い声が響いた。
その輪から少し離れたところで、狭野尊だけが、何も言わずに俯いていた。
小さな両手が、袴の布を強く握っている。
「……狭野さま?」
れなが呼びかけると、その肩が小さく揺れた。
「お姉ちゃん……もう、帰るのですか?」
「……はい」
「そう、ですか……」
短い返事のあと、再び沈黙が落ちる。
れなは狭野尊の前まで歩み寄ると、その目線に合わせるように膝をついた。
「狭野さま、また会えますよ」
「まことですか?」
「もちろんです。
だって、まだ狭野さまと一緒に行きたいところも、やりたいことも、いっぱいありますもん!」
「ボクも……まだ、たくさんある……」
「うん。だから、お別れじゃないですよ」
れなが、笑って両腕を広げる。
「ちょっとの間の、またね、ですね」
その言葉を聞いた瞬間、狭野尊は堪えきれなくなったように、れなの胸へ飛び込んだ。
「……必ず、戻ってきてくださいねっ!!」
「はい。必ず……狭野さまのところに、戻ってきます」
「危ないところへ行っても、無茶をしてはなりませんっ!」
「はい」
「ひとりで何でも背負っては、ダメですからねっ!!」
「うん」
「それから……ボクのことを、忘れてはなりませんっ!」
「それは絶対にないです……」
れなは小さな身体を、両腕でしっかりと抱き締めて、頭を優しく撫でてやる。
「だって、狭野さまは、私の大切な家族ですもの。
心配をかけるかもしれません。でも、必ず帰ってきます!」
「……家族……ボクも家族と呼んでくれるの?」
狭野尊はその言葉を、胸の奥へ大切にしまい込むように繰り返した。
やがて顔を上げると、涙で濡れた目のまま、それでも誇らしげに笑った。
「ならばボクは、ここで待ってます。
お姉ちゃんたちが、いつ帰ってきてもよいように……
ひいおじい様とひいおばあ様と大伯母さまも一緒に……」
「はいっ……ありがとうございます……」
れながもう一度、微笑みながらその頭を撫でる。
それを見ていたソラリスも我慢できなくなったのか、ふたりの上へ勢いよく飛びついた。
「ワタシも家族っすー! うわぁぁぁん!!」
「うわっ! ソラっち、ビックリしたぁ!」
「わあああ! 白いのっ! ボクが潰れちゃうぅぅ!!」
ロンが笑いながら三人を支え、ジェミは小さく息をつきながらも、その腕を伸ばして、まとめて抱きしめた。
誰かが帰りを待っていてくれる。そして、必ず帰ると約束できる。
それこそが、異なる世界を渡る彼らに与えられた――最初の標だった。
それを見守っていた三柱の神たちの瞳にも、温かいものが滲んだ。
「ああ、そうだ。れな、ちょっと待て。
発つ前に、おぬしたちへ渡しておくものがある」
瓊瓊杵尊の声に、れなたちは振り返った。
いつの間に用意されたのか、佐久夜姫が白木の三方を両手で抱えている。
その上には白い絹が掛けられ、中央に小さな八角形の鏡がひとつ、置かれていた。
黄金と桜色、苔色の縁に囲まれた鏡面には、朝日にも似た柔らかな光が宿っている。
「……鏡、ですか?」
「これは、『天孫の御標』だ」
瓊瓊杵尊が片手を差し伸べると、小さな神鏡がふわりと宙へ浮かび上がった。
「此度の調査に赴くおぬしたちが、余の名代であることを示す御印だ」
「瓊瓊杵さまの、名代……」
「うむ。そこに宿るのは、余の御祖母様――天照大御神へと連なる、天つ日の神威。この国に縁ある神仏、そして三界の理を知る者であれば、この光を見誤ることはない」
瓊瓊杵尊の指先が、鏡面へ触れる。
瞬間、鏡から溢れた黄金の光が四筋に分かれた。
ひとつだった神鏡が、まったく同じ形をした四つの小さな御標となって、三方の上へ静かに降りる。
「これは武器ではない。
おぬしたちに、他者を従わせる権能を与えるものでもない」
瓊瓊杵尊は、四人を順に見渡した。
「ただ、何者の命を受け、何者の庇護のもとに三界を渡るのか――その身元を、余が保証する」
「それって、神さまの世界の身分証明書っすね!」
「……趣のない言い方をすれば、そうなるな」
「しかも、瓊瓊杵さま直々の特別仕様っすね!!」
「宇宙で使えるかは知らぬぞ」
「ワタシまだ、何も聞いてないっすよ~!?」
ソラリスの抗議に、小さな笑いが起こった。
しかし、れなは神鏡を見つめたまま、すぐには手を伸ばせなかった。
「でも、私は……素戔嗚尊さまの加護を受けた者です。
その守護をいただき、その神威をお借りする魔女です……」
「だから、受け取れぬと申すか?」
「そういうわけでは……
ただ、こんなに大きな後ろ盾を、重ねていただいてもいいのかなって」
瓊瓊杵尊は、静かに目を細めた。
「れな、縁とはな、ひとつを結べば、他を拒まねばならぬものではないのだ。
それに――」
その言葉に、れなは顔を上げた。
「おぬしが叔父上を敬い、その神威を受けていることは承知しておる。
だからこそ、余もおぬしを信じることができるのだ」
「瓊瓊杵さま……」
「これは、おぬしを叔父上から奪うための印ではない」
瓊瓊杵尊の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「叔父上が認めた者を、余もまた、我らの名代として認める。その証だ」
れなは手首にある、阿蘇で授かった勾玉に触れるように、そっと手を添えた。
阿蘇の勾玉は、大地の鼓動にも似た、深く温かな力。
そして目の前にある神鏡からは、夜明けの空を照らすような、澄んだ光が届いている。
地より授かった勾玉と、天より差し伸べられた御標。
その二つの縁が、れなの中で静かに結ばれていく。
「……わかりました。ありがたく、お受けします」
れなが深く頭を下げると、ジェミ、ロン、ソラリスも、それに倣った。
狭野尊は三方から神鏡を一つ取り上げ、まず、れなの両手へと載せた。
「お姉ちゃん。必ず、これを持って帰ってくるのです」
「はい。約束します」
次に、ジェミへ。
「お兄ちゃん。お姉ちゃんを頼みますね」
「ああ。言われるまでもない」
「絶対に……お兄ちゃんも一緒に、帰ってきてください」
ジェミは一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「……承知した」
ロンへ渡された御標も、悪魔の手に触れたというのに、その光を曇らせることはなかった。
「ボクの家族を、よろしく頼みます」
「この魂の尽きるまで、お守りいたしましょう」
「黒いお兄ちゃんの魂は、そう簡単には尽きないでしょう?
だからこそ、お姉ちゃんとお兄ちゃんを、あなたに頼むのです。
黒いお兄ちゃんも、ボクの家族なのです!」
ロンの昏く赤い瞳が、わずかに揺れた。
「……ありがたき、お言葉にございます」
最後に、狭野尊はソラリスへ神鏡を差し出した。
「白いの……えっと、ソラっち。これ、なくさないでね?」
「大丈夫っす! ポッケの中に入れておくっす!」
「え? ポッケあったのっ!?」
「ワタシの本体っすよ!? ここにほら、ダークマターが……」
「やめろ」
ぴらりと布の裾をめくろうとしたソラリスの後頭部に、ジェミが手刀を素早く落とした。
四人の手に渡った天孫の御標が、互いを確かめ合うように共鳴して、淡く明滅する。
「その御標は、余の神域へ至る道を示すものでもある」
瓊瓊杵尊が告げた。
「いつ、いずこにあろうとも、心を定めて余を呼べ。
その光が失われぬ限り、必ず道を繋ごう」
「はい!」
「それに――その御標は、持つ者の在り方を映す鏡でもある。おぬしたちが新たな縁を結び、力を得るたび、その光もまた、新たな姿を顕すやもしれぬ」
その言葉に、れなは少し驚いたが、ふむ、と納得したような表情を浮かべて、その小さな神鏡を大事に胸元へ抱いた。
世界を渡るための証。
そして――必ず、ここへ帰ってくるための標。
これから四人が結ぶ縁を映す、小さな神鏡。
「ありがとうございます。必ず、四人で戻ってきます」
「うむ。待っておるぞ――余の名代たちよ」
「――行ってまいります!」
神域の門前で、れなたちはもう一度、深く頭を下げた。
瓊瓊杵尊と佐久夜姫、磐長姫。
そして、その中央で狭野尊が懸命に手を振っている。
九面たちも、その後ろに並んで小さな身体を何度も折り曲げていた。
「お姉ちゃーん! またねぇぇぇ!!」
「はぁ~い! 狭野さまぁ!! またねぇぇぇ!!」
れなが大きく手を振り返し、四人で神域の門をくぐる。
柔らかな光に包まれた次の瞬間、頬を撫でたのは現世の風だった。
鳥の声。木々のざわめき。遠くから聞こえる参拝者たちの足音。
振り返れば、そこにあるのは、いつもと変わらぬ霧島神宮の社殿だけ。
けれど、掌の中にある小さな神鏡は、確かな温もりを宿していた。
れなたちは並んで社殿へ向き直り、深々と一礼する。
新たな使命と、帰るべき場所を胸に――四人は霧島神宮を後にした。




