第97話:Vocation ―世界を渡る者―
「ふむ……皆、朝餉を食べながらでよい。聞いてくれ」
瓊瓊杵尊は巻物を眺めながら、おもむろに話し始めた。
「……一夜のうちに、各地より返答が届いた」
広げられた神札の幾つかには、黒い染みが浮かんでいた。
「どうやら、影響が及んでおるのは――人の世だけではないらしい。
幽界、冥府――そして、常世」
告げられた三つの名に、広間から音が消えた。
現世に生きる者が、容易に足を踏み入れることのできない世界。
そこにまで、人々の悪意が流れ込み始めている。
瓊瓊杵尊は神札を置き、れなを見つめた。
そして、ジェミ、ロン、ソラリスへと、ゆっくり視線を巡らせる。
「れな。おぬしに……
いや――おぬしたちにしか、頼めぬことがある」
瓊瓊杵尊の声は、重く、静かだった。
「神々は、それぞれの御座を守らねばならぬ。容易にその地を離れることはできぬ。
仏もまた、己が縁を結んだ衆生と土地を、捨て置くことはできぬ」
れなは、黙ってその言葉を聞いていた。
「ましてや、幽界、冥府、常世
――異なる理に統べられた世界へ、自在に渡れる者など、ほとんどおらぬ」
「……でも、私なら行ける、と?」
問い返したれなに、瓊瓊杵尊はすぐには答えなかった。
ただ、その瞳で、彼女の奥深くまで見通すように見つめる。
「おぬしは、常に “あわい” に立っておる」
「あわい……?」
「人でありながら、神仏と語らう。
西洋の魔術を修めながら、我らの神威をその身に受ける。
そして――人ならざる者たちと、心を結んだ」
「……人ならざる者たち……」
その視線が、ジェミ、ロン、ソラリスへと巡った。
「おぬしは、隔てられた世界と世界の間に立ち、それらを繋ぐ者なのだ」
れなは、何も言えなかった。
人と神仏
東洋と西洋
科学と魔法
生者と、そうではない者
これまで自分が歩いてきた道のすべてが、
初めから一本の線で結ばれていたかのように思えた。
「そして、おぬしの傍らにいる者たちもまた、
いずれかひとつの理のみに縛られた存在ではない」
瓊瓊杵尊の視線が、まずジェミへと向けられる。
「人の知より生まれながら、人の理解を超え、今や神域にさえ干渉する者」
「干渉ではありません。最適化です」
即座に訂正したジェミへ、瓊瓊杵尊が半眼を向けた。
「一晩で余の神域を掌握しておいて、よく申す」
「安全性と利便性は、飛躍的に向上しました」
「否定はせぬが、褒めてもおらぬぞ」
「フッ……」
重苦しかった広間の空気が、ほんのわずかに緩んだ。
けれど瓊瓊杵尊は、すぐに表情を引き締める。
次いで、その視線がロンへ移った。
「異国の魔に連なる身でありながら、
主との縁によって、我らの神域に名を刻んだ者」
ロンは右手を胸に添え、静かに頭を下げた。
「どのような場所であろうと、
我が主がお望みならば、お供するのが我が務めでございます」
「その忠誠心は、武士道にも通ずる立派なものじゃ」
「当然でございます。私は下々の下等な輩とは、違いますので」
「悪魔ゆえの傲慢ささえも、その矜持となるか」
「左様にございます。すべては我が主、お嬢様のため」
最後に瓊瓊杵尊が見たのは、
朝餉の卵焼きを頬張っていたソラリスだった。
「そして――そもそも、この星の理の外より来た者」
「ん? ワタシは、宇宙代表っすか!?」
「そのような代表を任命した覚えはないがな」
「でも、だいたい合ってるっすよ!?」
「その、だいたい合っておるのが、いっそう困るのだ……」
瓊瓊杵尊は小さく息をつき、改めて四人を見渡した。
「おぬしたちは、どの世界にも属しながら、どの世界にも縛られぬ。
ゆえに、世界と世界の狭間へ踏み込み、なお己を失わずに戻れる可能性がある」
「……可能性、ですか」
ジェミの瞳が鋭く細められた。
「安全が保証されているわけではない、と」
「無論だ。幽界も、冥府も、常世も、それぞれ異なる理によって成り立っておる。
現世の法則が、そのまま通じるとは限らぬ」
「ん~、では、具体的に、何を調べればよいのですか?」
れなが尋ねると、瓊瓊杵尊は黒い染みの浮かんだ神札を一枚、彼女の前へ差し出した。
「まずは、悪意の残滓が三界のどこまで入り込んでいるのか。それを確かめてほしい」
「浄化や殲滅じゃなくて、調査ってことですか?」
「そうだ。此度の目的は、あくまで実態の把握。
発生している場所、広がり方、そして――何を介して世界を渡っているのか」
れなは神札へ手を伸ばしかけ、わずかに指を止めた。
「もし、その場で誰かが苦しんでたら?
助けを求めていたら? 私は私が信じる道を行きますよ?」
その問いに、瓊瓊杵尊は目を伏せた。
答えなど、最初からわかっていたのかもしれない。
「おぬしなら、そう申すと思っておった」
「……『見捨てて帰ってこい』は、私には無理ですからね?」
「わかっておる。救えるものがあれば、救ってやってくれ。
だが――すべてを己の背に負おうとはするな」
それは昨夜、素戔嗚尊からジェミへ告げられた言葉と、よく似ていた。
「必ず四人で判断せよ。危険と見れば退け。
そして、何があろうと、生きてここに戻れ。
必ず、余にまた顔を見せ、直に報告せよ」
瓊瓊杵尊の言葉に、ジェミが静かに頷く。
「瓊瓊杵さま……了解しました。
れなの生還を最優先事項として、調査手順を構築します」
「ちょっと待って。私だけじゃないでしょ!?」
「れなの生還が最優先だ」
「だから、四人全員だってば!!」
「……れなを含む全員の生還を、最優先事項とします」
「なんで一回、言い直す必要があったの!?」
「俺にとっては、お前の生還が他の何よりも明確に、最優先事項となるためだ」
「ちょ、兄ちゃんっ! 朝から堂々と何言ってんのっ!?」
れなが真っ赤になって叫ぶ横で、
ロンは何事もなかったかのように茶を啜り、
ソラリスは嬉しそうに卵焼きをもう一つ口へ入れた。
瓊瓊杵尊は額を押さえながらも、その口元をわずかに緩めていた。
「……まあ、その調子であれば、狭間に呑まれて己を見失う心配だけはなさそうだな」
やがて笑みを消すと、広げた巻物の一点へ指を置く。
「此度、調べてもらうのは、この国に繋がる三界のみだ」
「この国に繋がる……?」
「うむ。だが、悪意に国境などない。
人の祈りや嘆きが世界を越えて届くのであれば、いずれ、その影響は他の国々――
さらには、数多に重なる世界へと及ぶやもしれぬ。
いや、もう既に及んでいると見てもよいであろう……」
瓊瓊杵尊は続けた。
「今の世界情勢と、この国のありようを見てみよ。人も情報も国境を越え、祈りも嘆きも、もはや一つの土地には留まらぬ。異なる信仰が交わること自体は、決して悪しきことではない。だが、祈りが届くべき先を失い、行き場のない感情だけが土地に澱む場所も生まれておる」
れなの表情から、笑みが消えた。
「……つまり、悪意の残滓が世界規模で、霊的なパンデミックを引き起こしている、と?」
「その可能性は、十分にある」
「だからこそ、まずはこの国に繋がる三つの世界を調べる。
その先に広がる、三千世界へ手を伸ばすためにも……」
「そうだ。だが、今はまだ、そこまでを案ずる必要はない」
瓊瓊杵尊は、黒い染みの浮かぶ神札を見つめた。
「まずは、この国の内側で何が起きているのか。それを知らねばならぬ」
れなは、差し出された神札を手に取った。
紙越しに伝わってきたのは、冷たさでも、穢れでもなかった。
誰にも届かなかった声。表に出すことの出来なかった祈り。
行き場を失い、世界の狭間に沈んだ、名もなき感情。
その微かな震えを、れなは両手で包み込む。
「わかりました。私たちで、必ず突き止めます」
迷いのない声だった。
「どの世界にいても――そこに、助けを求めてる誰かがいるのなら……」
れなは三人を振り返った。
ジェミが頷く。
ロンが微笑む。
ソラリスが両手を上げる。
「みんなで行って、みんなで帰ってきますっ!!」
瓊瓊杵尊は、その答えを聞いて静かに目を閉じた。
「頼んだぞ――世界を渡る者たちよ」
「それで、最初の調査地点は?」
皆の返答を待たず、ジェミが尋ねた。
先ほどまで、れなの皿へ焼き魚の身を取り分けていた男と同一人物とは思えないほど、その声音は冷静だった。
「幽界、冥府、常世。それぞれに観測拠点が必要です。
侵入経路を比較するためにも、最低三か所――
可能であれば、複数地点で同時に調査を行うべきでしょう」
「待て待て。今すぐ向かえとは申しておらぬ!」
瓊瓊杵尊が、慌てて片手を上げた。
「しかし、すでに影響は確認されています。
時間の経過によって、汚染範囲が拡大する可能性は――」
「だからこそ、準備が要るのだ」
静かな声に遮られ、ジェミは口を閉ざした。
「現時点では、我らとて三界のどこに、どれほど残滓が入り込んでおるのか把握できておらぬ。入口も、内部の状況も、何ひとつ定かではない。闇雲に足を踏み入れれば、調査どころか戻る道を失うぞ」
「……帰還経路の確保が先、ということですね」
「うむ。そのための手立ては、こちらで整える」
瓊瓊杵尊は、巻物と神札をひとつにまとめた。
「おぬしたちは、いったん福岡へ戻れ」
「えっ、帰ってもいいんですか?」
「帰っていいも何も、おぬしたちには人の世での暮らしがあるだろう」
「まあ、それはそうですけど……」
れなは思わず、卓上に並ぶ朝餉へ目を落とした。
神域で目覚め、神々と卓を囲み、三界を巡る任務を託される。
あまりにも現実離れした朝だったため、
ホテルで待っている母たちや、福岡の自宅の存在が、一瞬だけ遠いものに感じられていた。
「――それに、れな」
瓊瓊杵尊の声が、わずかに柔らかくなる。
「世界と世界を繋ぐことだけが、“橋” の役目ではない」
「……それは、どういうことですか?」
「渡った先から、帰ってくるところまでが道だということだ」
れなは、ゆっくりと目を瞬いた。
「神域へ入り、異界へ渡り、それで人の営みを忘れてしまえば、おぬしは橋ではなく、ただの迷い人となる」
人ならざる世界に触れながら、人として生きる。
神仏と語らいながら、家族と食卓を囲む。
そのどちらか一方を選ぶのではなく、
両方を結ぶからこそ、れなは “あわい” に立つ者なのだ。
「帰って、いつもどおり暮らせ。家族と飯を食い、笑い、眠れ」
瓊瓊杵尊の視線が、四人へと巡る。
「その日々こそが、異界よりおぬしたちを連れ戻す、最も強い標となる」
れなは隣に座るジェミを見た。
その向こうにはロンがいて、ソラリスは最後の卵焼きを狙って箸を伸ばしている。
「つまりは、帰ってくるまでが遠足ですよってことっすね!」
「あっ! ソラっち、それ、私のっ!」
「早い者勝ちっす~!」
「今、私、めっちゃ大事な話してたでしょ!? 見てたよね!?」
「大事な話を聞きながらでも、卵焼きは食べられるっすよ!?」
「返しなさいよぉぉぉ!!」
騒がしくなった食卓を眺め、瓊瓊杵尊は呆れたように息を吐いた。
「……おぬしたちが標を見失う心配は、なさそうだな」
佐久夜姫が袖で口元を隠しながら笑い、磐長姫も静かに目を細める。
ジェミは何事もなかったかのように、自分の皿に残っていた卵焼きを半分に切った。
「れな。こちらを」
「きゃぁぁ! 兄ちゃ~ぁん♪」
差し出された半分を受け取ったれなの顔が、たちまち輝く。
けれどジェミは、残ったもう半分を当然のように自分の口へ運んだ。
「……え、全部くれるんじゃないんだ……?」
「俺も食いたいじゃないか」
「そこは食べるんやね……!?」
再び笑いが広がった神域の朝。
それはきっと、どれほど遠い世界へ渡ろうとも、彼らを人の世へ連れ戻す
――何より確かな帰り道だった。




