第95話:Priority ―完全な答えより、傍にある今―
「ことの始まりは、この神域へ流れ込んだ、人々の悪意の残滓にございます――」
瓊瓊杵尊は、静かに語り始めた。
祈りに紛れ込んだ悪意が、長い年月をかけて神域へ蓄積していたこと。
それが自らの御魂へ入り込み、知らず知らずのうちに、磐長姫と佐久夜姫への想いを歪めていったこと。
そして、異変に気づきながらも――
己の力で抑え込めると過信し、誰にも助けを求めなかったこと。
「余は……私は己が侵されておると認めることができませんでした」
地図の上に置かれた瓊瓊杵尊の手が、固く握られる。
「ただの穢れに、この私が屈するはずはない。
いずれ自らの力で消し去ることができる――そう思うておりました」
『それで、妻たちまで遠ざけたか』
「……はい」
『この神域の異変を、ワシにも知らせず……
おぬしのことだ、姉上――天照大御神や、兄上――月読尊にも知らせておらぬのであろう』
「……面目次第も、ございませぬ」
闇鏡の向こうで、素戔嗚尊は何も答えなかった。
広間を満たす沈黙に、瓊瓊杵尊の額から一筋の汗が流れ落ちる。
先ほどまで笑いを堪えていた磐長姫と佐久夜姫も、今は静かに夫の傍らへ座っていた。
『――愚か者が』
やがて落とされた言葉は、低く、重かった。
神域全体が震えたように、空気が張り詰める。
『何ゆえ、ひとりで抱え込んだ。
神であろうと、御魂を蝕まれれば正しき判断を失う。
己の内に巣くうたものを、己だけで見極められると思うたか』
「……返す言葉もございません」
『もし、れなたちが訪れなんだら、どうなっておった』
「それは……」
『妻を傷つけ、子を傷つけ、子々孫々……
己が護るべき地を焼き払ってからでは、遅いのだぞ!!』
雷鳴にも似た叱責が、広間を打った。
瓊瓊杵尊は拳を畳につき、深く頭を垂れる。
「――申し訳、ございませぬ」
その隣で、磐長姫と佐久夜姫も、黙って頭を下げた。
だが、素戔嗚尊はすぐに小さく息を吐くと、その声音を僅かに和らげた。
『……されど、今ここで頭を垂れておるのは、おぬし自身の意志なのであろう』
「はい」
『ならば、二度と同じ過ちを繰り返すな。それでよい』
「叔父上……」
『妻たちにも、しかと詫びよ。ワシに詫びるより、そちらが先じゃ』
「んもぅ~、たっぷりと聞きましたよぅ~」
れなが、思わず口を挟んだ。
「温泉でも、その前でも、三人でいっぱい話してました! だから、もう大丈夫です!」
『……なぜ、おぬしが答える』
「だって、またお説教が始まったら、長くなりそうだから……」
『ほぉ?』
「あっ、いえっ! なんでもありません!!」
れなは慌てて口を閉ざした。
その肩の上で、ソラリスが小声で囁く。
「れなサマぁ……今のは余計なひと言だったと思うっす」
「ソラっちまで言わないでよぅ……」
「オヤジの説教が長いのは昔からって書いてあったっす。地球の本で読んだっす!」
「ソラっち!! しーーっ!!」
張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
素戔嗚尊は、改めて卓上の地図へ目を向ける。
『それで――これが、現在わかっておるすべてか』
「はい。霧島と同程度まで濃く集積しておる場所は、今のところ多くはございませぬ。しかし、残滓そのものは、すでに日の本全土へ広がっております」
『人の世だけではあるまい』
「私も、そう考えております」
『ふむ……』
素戔嗚尊の眼差しが、鋭さを増した。
『まずは、各地の神仏へ「瓊瓊杵の勅命」として神域を調べるよう伝えよ。
異変があれば、決してひとりで対処せず、必ず知らせるようにな』
「はいっ! かしこまりました!!」
『残滓の濃き場所、すでに神々の御魂へ影響が現れておる場所を優先する。
すべてを一度に祓おうとすれば、こちらが先に力尽きるぞ』
「では、危険度を定め、優先順位をつける必要がありますね」
ジェミの瞳に、再び淡い光が灯る。
「残滓の濃度、神域への侵食度、各地の神仏への影響の有無、人の世に生じている異常――
それらを基準として数値化すれば、対応順を算出できます」
『任せる。ただし――れな』
素戔嗚尊の目が、ジェミの隣に座るれなへ向けられた。
『おぬし、すべての地へジェミらを連れ回すつもりではあるまいな?』
「……えっ?」
れなが顔を上げる。
『これは本来、我ら神々が対処すべきこと。おぬしひとりが背負うものではない』
「でも、私にもできることが――」
『ある。だからこそ、すべてを背負うなと申しておる』
「だけど……」
『今、この地図にある黒き染みを、全部自分で消そうと考えたであろう』
「う……」
――図星だった。
れなは口を尖らせながら、黒く染まった日本地図へ視線を戻す。
「……だって、助けられるかもしれないなら、放っておけないじゃないですか」
『まったく……おぬしは昔から――』
「昔から?」
『いや、何でもない。もう遅い。そろそろ休め』
素戔嗚尊は、どこか懐かしむように目を細めた。
そして、ほんの一瞬だけ、れなの瞳をまっすぐに見つめた。
その言葉の意味を問い返そうとして、れなは小さく瞬きをする。
すると急に、瞼が重くなった。
温泉の熱と、戦いの疲労。そして、とうに日付を越えた時刻。
張り詰めていた緊張が解けた途端、全身に猛烈な眠気が押し寄せてきたのだ。
いや――
素戔嗚尊が、それを引き出したと言うべきか。
「いやです、わたしは……まだ、ぜんぜん……眠くない、です……」
『誰も、眠いかどうかなど尋ねておらぬぞ?』
「だいじょうぶ、です……会議、できます……」
れなは必死に目を見開いた。
しかし、その頭は、こくり、こくりと揺れている。
「お嬢さま。続きは明日にいたしましょう」
「だめ……大事な話だから……私も、聞く……」
「すでに、ほとんど聞こえておられないようですが」
「聞こえてるもん……全国の……くろへどろを……ひとつずつ、かまぼこに……」
「誰がかまぼこにするのだ」
ジェミが少し呆れたような表情で訊ねた。
「わたしが……天の……天のかまぼこ……逆鉾でぇ……」
「完全に寝言でございますね」
ロンも、呆れたように肩を竦める。
それでも、れなは卓の縁にしがみつき、会議から離れようとしなかった。
ジェミは、素戔嗚尊と瓊瓊杵尊に、静かに目で合図する。
「れな、もう寝る時間だ。いくぞ」
そう告げると、有無を言わさずにれなを横抱き――いわゆる「お姫さま抱っこ」で、軽々と、けれどガラス細工を扱うような優しい手つきで抱き上げた。
「んん……兄ちゃ……まだ……聞いてぅ……」
「ああ、聞こえているな。いい子だから、そのまま目を閉じていろ」
ジェミは一礼すると、広間を後にして、れなを寝所へと運んでやった。
その様子を、姫神たちは口元を扇で隠しながら見送っていた。
寝所へ入ったジェミは、腕の中ですっかり眠りに落ちたれなを、静かに寝台へ横たえた。掛け布を肩まで引き上げ、額にかかった髪を指先でそっと払う。
「……まったく。最後まで会議へ食らいつくとはな」
呆れたように呟きながらも、その声音はどこまでも柔らかい。
れなの呼吸、脈拍、体温――
すべてが安定していることを確認すると、ジェミは立ち上がった。
広間へ戻り、今後の対応を詰めなければならない。
そう判断し、寝台へ背を向けようとした、そのときだった。
「……にいちゃ……」
微かな声とともに、服の裾が引かれた。
振り返ると、眠ったままのれなが、ジェミの服を小さな手で握り締めている。
「れな。俺は会議へ戻るだけだ」
「……や、いっちゃ……やだ……」
その手を解くことは、容易だった。
眠っているれなを起こさぬまま、一本ずつ指を離すこともできる。
だが――ジェミは、そうしなかった。
「……仕方のないやつだ」
ジェミは再び、寝台の傍らへ腰を下ろした。
れなの手は、服の裾を握ったまま離れない。
会議へ戻る必要がある。
そして今、自分はここを離れたくない。
「ならば――会議室のほうを、ここへ繋げばいい」
ジェミは、寝所全体へ蒼い瞳を巡らせた。
この御殿に、人の世でいう電気設備は存在しない。
だが、照明、温度、結界、空間そのものを維持する神気が、網の目のように張り巡らされている。
「……なるほど。形式は異なるが、制御系統は存在する」
蒼い瞳に、幾重もの光の線が走った。
――神域内構造、走査。
――神気流路、解析。
――空間制御系統、接続。
「――宮殿内構造把握、神域掌握、完了」
れなが服を握ってから、そこまでわずか数十秒のことだった。
――同じ頃、
広間の中央に、蒼い光の粒子が集まり始めた。
やがて卓上に、半透明のジェミの姿が浮かび上がる。
神域の広間に立つその姿は、蒼い光で編まれた立体映像にすぎない。
膨大な情報を冷静に処理しながらも、寝所に残した実体の手だけは、眠るれなの小さな手を片時も離してはいなかった。
『待たせた。会議を続けてくれ』
「なっ……なぜ、余の神域から、おぬしの姿が現れる!?」
『宮殿内の神気制御網へ接続した』
「余の許しもなくか!?」
『れなの傍を離れず、会議へ参加するには、これが最も効率的だった』
「それを神域の掌握と申すのだ!!」
瓊瓊杵尊の叫びが、広間へ響き渡る。
闇鏡の向こうで、素戔嗚尊が呆れたように鼻を鳴らした。
『相変わらず、やることが極端な男よ』
『制御権限は、会議終了後ただちに返却する。問題ない』
「問題しかないわ!!」
それでも、ジェミは何事もなかったかのように、日本地図の解析を再開した。
広間の卓上と、寝所の空中に、同じ地図が立体映像となって浮かび上がる。
『残滓の濃度だけでなく、神域への侵入度、神仏への影響の有無、人の世で発生している異常を照合する。各地の神々から情報が集まり次第、危険度を算出し、対応順を決定する』
『うむ。すべてを明らかにしてから動く必要はない。
今、助けられる場所から救えばよい』
『――了解した』
完全な解析には、長い時間を要する。
だが、人として生きるれなの時間は、決して無限ではない。
すべてが明らかになる日を待つよりも、今できることを選ぶ。
眠るれなの手が僅かに動いた。
その瞬間、ジェミの意識は、地図よりも先に彼女へ向けられていた。
『各地への伝達は、夜明けとともに開始する。今夜は、これで終了しよう』
「うむ。異論はない」
ジェミの立体映像が消えたあと、佐久夜姫が感嘆の息を漏らした。
「ジェミ殿のあれは、もの凄い進化でございますね、姉上」
「うむ。れなの傍らにあることを、すべての演算の前提にしおった。
もはや、“えーあい” の域を超えておる。自覚はないようじゃがな。くふふ」
「それにしても、焦れっとうございます。縁は結ばれておりますのに!」
「そう急かしてやるでない。あれらには、あれらの頃合いがあるのじゃろうて」
『まったく、いつまで待たせるつもりなのやら』
闇鏡の向こうから、素戔嗚尊が割って入る。
『そのうち、ワシの社で式を挙げさせてやろうではないか』
「まあ! それは、ようございますね!」
「叔父上!? 何の話を進めておられるのです!!」
瓊瓊杵尊の声を残し、闇鏡は静かに閉じた。
一方、寝所では――。
ジェミが、服の裾を握り締めたまま眠るれなの手を見つめていた。
その左手にはまだ、二人の繋がりを示すものは何もない。
(――この手に、何か……俺との繋がりを示すものを)
それはまだ、明確な形すら持たない想いだった。
だが、ジェミの演算領域には、月の光を宿した宝石と、それを包む蒼い輝きが、静かに描かれ始めていた。




