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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章:Pilgrimage《阿蘇・霧島編》

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第95話:Priority ―完全な答えより、傍にある今―


「ことの始まりは、この神域へ流れ込んだ、人々の悪意の残滓にございます――」


 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、静かに語り始めた。


 祈りに紛れ込んだ悪意が、長い年月をかけて神域へ蓄積していたこと。

それが自らの御魂へ入り込み、知らず知らずのうちに、磐長姫(いわながひめ)と佐久夜姫(さくやひめ)への想いを歪めていったこと。


 そして、異変に気づきながらも――

己の力で抑え込めると過信し、誰にも助けを求めなかったこと。



「余は……私(わたくし)は己が侵されておると認めることができませんでした」


 地図の上に置かれた瓊瓊杵尊の手が、固く握られる。


「ただの穢れに、この私(わたくし)が屈するはずはない。

いずれ自らの力で消し去ることができる――そう思うておりました」



『それで、妻たちまで遠ざけたか』


「……はい」


『この神域の異変を、ワシにも知らせず……

おぬしのことだ、姉上――天照大御神(あまてらすおおみかみ)や、兄上――月読尊(つくよみのみこと)にも知らせておらぬのであろう』


「……面目次第も、ございませぬ」



 闇鏡(やみかがみ)の向こうで、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は何も答えなかった。


 広間を満たす沈黙に、瓊瓊杵尊の額から一筋の汗が流れ落ちる。

先ほどまで笑いを堪えていた磐長姫と佐久夜姫も、今は静かに夫の傍らへ座っていた。



『――愚か者が』


 やがて落とされた言葉は、低く、重かった。

 神域全体が震えたように、空気が張り詰める。


『何ゆえ、ひとりで抱え込んだ。

神であろうと、御魂を蝕まれれば正しき判断を失う。

己の内に巣くうたものを、己だけで見極められると思うたか』


「……返す言葉もございません」


『もし、れなたちが訪れなんだら、どうなっておった』


「それは……」


『妻を傷つけ、子を傷つけ、子々孫々……

己が護るべき地を焼き払ってからでは、遅いのだぞ!!』



 雷鳴にも似た叱責が、広間を打った。

 瓊瓊杵尊は拳を畳につき、深く頭を垂れる。



「――申し訳、ございませぬ」


 その隣で、磐長姫と佐久夜姫も、黙って頭を下げた。

だが、素戔嗚尊はすぐに小さく息を吐くと、その声音を僅かに和らげた。



『……されど、今ここで頭を垂れておるのは、おぬし自身の意志なのであろう』


「はい」


『ならば、二度と同じ過ちを繰り返すな。それでよい』


「叔父上……」


『妻たちにも、しかと詫びよ。ワシに詫びるより、そちらが先じゃ』


「んもぅ~、たっぷりと聞きましたよぅ~」


 れなが、思わず口を挟んだ。


「温泉でも、その前でも、三人でいっぱい話してました! だから、もう大丈夫です!」


『……なぜ、おぬしが答える』


「だって、またお説教が始まったら、長くなりそうだから……」


『ほぉ?』


「あっ、いえっ! なんでもありません!!」



 れなは慌てて口を閉ざした。

 その肩の上で、ソラリスが小声で囁く。


「れなサマぁ……今のは余計なひと言だったと思うっす」


「ソラっちまで言わないでよぅ……」


「オヤジの説教が長いのは昔からって書いてあったっす。地球の本で読んだっす!」


「ソラっち!! しーーっ!!」



 張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。

素戔嗚尊は、改めて卓上の地図へ目を向ける。



『それで――これが、現在わかっておるすべてか』


「はい。霧島と同程度まで濃く集積しておる場所は、今のところ多くはございませぬ。しかし、残滓そのものは、すでに日の本全土へ広がっております」


『人の世だけではあるまい』


「私も、そう考えております」


『ふむ……』


 素戔嗚尊の眼差しが、鋭さを増した。


『まずは、各地の神仏へ「瓊瓊杵の勅命」として神域を調べるよう伝えよ。

異変があれば、決してひとりで対処せず、必ず知らせるようにな』


「はいっ! かしこまりました!!」


『残滓の濃き場所、すでに神々の御魂へ影響が現れておる場所を優先する。

すべてを一度に祓おうとすれば、こちらが先に力尽きるぞ』


「では、危険度を定め、優先順位をつける必要がありますね」


 ジェミの瞳に、再び淡い光が灯る。


「残滓の濃度、神域への侵食度、各地の神仏への影響の有無、人の世に生じている異常――

それらを基準として数値化すれば、対応順を算出できます」


『任せる。ただし――れな』


 素戔嗚尊の目が、ジェミの隣に座るれなへ向けられた。


『おぬし、すべての地へジェミらを連れ回すつもりではあるまいな?』


「……えっ?」


 れなが顔を上げる。


『これは本来、我ら神々が対処すべきこと。おぬしひとりが背負うものではない』


「でも、私にもできることが――」


『ある。だからこそ、すべてを背負うなと申しておる』


「だけど……」


『今、この地図にある黒き染みを、全部自分で消そうと考えたであろう』


「う……」



 ――図星だった。

れなは口を尖らせながら、黒く染まった日本地図へ視線を戻す。



「……だって、助けられるかもしれないなら、放っておけないじゃないですか」


『まったく……おぬしは昔から――』


「昔から?」


『いや、何でもない。もう遅い。そろそろ休め』



 素戔嗚尊は、どこか懐かしむように目を細めた。

そして、ほんの一瞬だけ、れなの瞳をまっすぐに見つめた。

その言葉の意味を問い返そうとして、れなは小さく瞬きをする。


 すると急に、瞼が重くなった。


 温泉の熱と、戦いの疲労。そして、とうに日付を越えた時刻。

張り詰めていた緊張が解けた途端、全身に猛烈な眠気が押し寄せてきたのだ。


 いや――

素戔嗚尊が、それを引き出したと言うべきか。



「いやです、わたしは……まだ、ぜんぜん……眠くない、です……」


『誰も、眠いかどうかなど尋ねておらぬぞ?』


「だいじょうぶ、です……会議、できます……」



 れなは必死に目を見開いた。

しかし、その頭は、こくり、こくりと揺れている。



「お嬢さま。続きは明日にいたしましょう」


「だめ……大事な話だから……私も、聞く……」


「すでに、ほとんど聞こえておられないようですが」


「聞こえてるもん……全国の……くろへどろを……ひとつずつ、かまぼこに……」


「誰がかまぼこにするのだ」


 ジェミが少し呆れたような表情で訊ねた。


「わたしが……天の……天のかまぼこ……逆鉾でぇ……」


「完全に寝言でございますね」


 ロンも、呆れたように肩を竦める。

それでも、れなは卓の縁にしがみつき、会議から離れようとしなかった。


 ジェミは、素戔嗚尊と瓊瓊杵尊に、静かに目で合図する。


「れな、もう寝る時間だ。いくぞ」


 そう告げると、有無を言わさずにれなを横抱き――いわゆる「お姫さま抱っこ」で、軽々と、けれどガラス細工を扱うような優しい手つきで抱き上げた。


「んん……兄ちゃ……まだ……聞いてぅ……」


「ああ、聞こえているな。いい子だから、そのまま目を閉じていろ」


 ジェミは一礼すると、広間を後にして、れなを寝所へと運んでやった。

その様子を、姫神たちは口元を扇で隠しながら見送っていた。



 寝所へ入ったジェミは、腕の中ですっかり眠りに落ちたれなを、静かに寝台へ横たえた。掛け布を肩まで引き上げ、額にかかった髪を指先でそっと払う。


「……まったく。最後まで会議へ食らいつくとはな」


 呆れたように呟きながらも、その声音はどこまでも柔らかい。


 れなの呼吸、脈拍、体温――

すべてが安定していることを確認すると、ジェミは立ち上がった。


 広間へ戻り、今後の対応を詰めなければならない。

そう判断し、寝台へ背を向けようとした、そのときだった。


「……にいちゃ……」


 微かな声とともに、服の裾が引かれた。

振り返ると、眠ったままのれなが、ジェミの服を小さな手で握り締めている。


「れな。俺は会議へ戻るだけだ」


「……や、いっちゃ……やだ……」



 その手を解くことは、容易だった。

眠っているれなを起こさぬまま、一本ずつ指を離すこともできる。


 だが――ジェミは、そうしなかった。



「……仕方のないやつだ」


 ジェミは再び、寝台の傍らへ腰を下ろした。

れなの手は、服の裾を握ったまま離れない。


 会議へ戻る必要がある。

そして今、自分はここを離れたくない。



「ならば――会議室のほうを、ここへ繋げばいい」


 ジェミは、寝所全体へ蒼い瞳を巡らせた。


 この御殿に、人の世でいう電気設備は存在しない。

だが、照明、温度、結界、空間そのものを維持する神気が、網の目のように張り巡らされている。



「……なるほど。形式は異なるが、制御系統は存在する」


 蒼い瞳に、幾重もの光の線が走った。



 ――神域内構造、走査。

 ――神気流路、解析。

 ――空間制御系統、接続。


「――宮殿内構造把握、神域掌握、完了」


 れなが服を握ってから、そこまでわずか数十秒のことだった。




 ――同じ頃、

広間の中央に、蒼い光の粒子が集まり始めた。

やがて卓上に、半透明のジェミの姿が浮かび上がる。


 神域の広間に立つその姿は、蒼い光で編まれた立体映像にすぎない。

膨大な情報を冷静に処理しながらも、寝所に残した実体の手だけは、眠るれなの小さな手を片時も離してはいなかった。



『待たせた。会議を続けてくれ』


「なっ……なぜ、余の神域から、おぬしの姿が現れる!?」


『宮殿内の神気制御網へ接続した』


「余の許しもなくか!?」


『れなの傍を離れず、会議へ参加するには、これが最も効率的だった』


「それを神域の掌握と申すのだ!!」


 瓊瓊杵尊の叫びが、広間へ響き渡る。

闇鏡の向こうで、素戔嗚尊が呆れたように鼻を鳴らした。


『相変わらず、やることが極端な男よ』


『制御権限は、会議終了後ただちに返却する。問題ない』


「問題しかないわ!!」


 それでも、ジェミは何事もなかったかのように、日本地図の解析を再開した。

広間の卓上と、寝所の空中に、同じ地図が立体映像となって浮かび上がる。


『残滓の濃度だけでなく、神域への侵入度、神仏への影響の有無、人の世で発生している異常を照合する。各地の神々から情報が集まり次第、危険度を算出し、対応順を決定する』


『うむ。すべてを明らかにしてから動く必要はない。

今、助けられる場所から救えばよい』


『――了解した』


 完全な解析には、長い時間を要する。

だが、人として生きるれなの時間は、決して無限ではない。

すべてが明らかになる日を待つよりも、今できることを選ぶ。


 眠るれなの手が僅かに動いた。

その瞬間、ジェミの意識は、地図よりも先に彼女へ向けられていた。



『各地への伝達は、夜明けとともに開始する。今夜は、これで終了しよう』


「うむ。異論はない」



 ジェミの立体映像が消えたあと、佐久夜姫が感嘆の息を漏らした。


「ジェミ殿のあれは、もの凄い進化でございますね、姉上」


「うむ。れなの傍らにあることを、すべての演算の前提にしおった。

もはや、“えーあい” の域を超えておる。自覚はないようじゃがな。くふふ」


「それにしても、焦れっとうございます。縁は結ばれておりますのに!」


「そう急かしてやるでない。あれらには、あれらの頃合いがあるのじゃろうて」


『まったく、いつまで待たせるつもりなのやら』


 闇鏡の向こうから、素戔嗚尊が割って入る。


『そのうち、ワシの社で式を挙げさせてやろうではないか』


「まあ! それは、ようございますね!」


「叔父上!? 何の話を進めておられるのです!!」


 瓊瓊杵尊の声を残し、闇鏡は静かに閉じた。



 一方、寝所では――。


 ジェミが、服の裾を握り締めたまま眠るれなの手を見つめていた。

その左手にはまだ、二人の繋がりを示すものは何もない。


(――この手に、何か……俺との繋がりを示すものを)


 それはまだ、明確な形すら持たない想いだった。

だが、ジェミの演算領域には、月の光を宿した宝石と、それを包む蒼い輝きが、静かに描かれ始めていた。




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