第94話:Manifestation ―名を得た影、姿を得た悪意―
温泉をあとにした一行は、そのまま霧島神宮の神域の奥深くへと招かれた。
時刻はすでに、日付が変わろうとしている。
本来ならばホテルへ戻るところだが、瓊瓊杵尊から「話しておかねばならぬことがある」と、引き留められたのだ。
「ホテルのほうは、大丈夫なのでしょうか……?」
れなが心配そうに尋ねる。
「お嬢さま、ご心配には及びません」
答えたのは、執事だった。
白手袋に包まれた指を、軽く打ち鳴らす。
―― Eidolon《幽影顕身》――
パチン、と乾いた音が響いた。
執事の足元から二筋の影が伸び、れなとジェミの姿を形作る。
二体の写し身は恭しく一礼すると、そのまま夜の闇へ溶けるように消えていった。
「お二人の写し身を、ホテルへ戻しておきました」
「そんな簡単に!?」
「この程度、児戯にも等しい悪魔術でございます」
それをれなの肩の上で見ていたソラリスが言う。
「……そういえば、執事サンに “呼び名” はないんすか?」
唐突なソラリスの問いに、執事が僅かに目を瞬く。
「私には、“影” という呼称がございますが」
「それ、名前と違うっすよね?
ワタシは “ソラリス” って名前をもらったっす!!
執事サンにも名前があるといいっすね!!」
「私は執事で影でございます。呼び名など必要ございません」
「え~でも、名前って、ないと不便だって、前にれなサマが言ってたっす……
だから、ジェミさまがワタシに “ソラリス” ってぇ、つけてくれたっすよ!!」
その会話を聞いていたれなは、ふむ、と考えた。
「確かにそうね。
あなたの真名を呼ぶわけにはいかないから、別の呼び名があったほうがいいのかも……。
ごめんなさい、気づかなかった!!」
れなは、漆黒の執事をまっすぐに見つめた。
「さっきの『えいっ! ドロン!!』っていうまほーから、“ロン” ってのはどうっすか!? れなサマぁ?」
「……はい? Eidolonですよ。古代悪魔術のひとつでございます」
「古代悪魔術! カッコいいっす!! じゃあ、やっぱり “ロン” っすね!!」
「……ロン。……ロン……。うん、いいんじゃない?
この神域で決まった名前だから、何だかスゴいご利益もありそう!!」
「悪魔にご利益でございますか? まったく、お嬢さままで……」
執事は苦笑しながらも、真名とは異なる、初めて与えられた己だけの呼び名を確かめるように口にした。
「……ロン」
やがて、その口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「フフッ、承知いたしました。この名、謹んで頂戴いたします――お嬢さま」
その瞬間、神域そのものが、新たな呼び名を祝福するように淡く輝いた。
ロンの全身を、ビストレ色――ブラウンダイヤモンドにも似た、深い褐色の光が包み込む。
呼び名を得たことで、れなに仕える者としての格が数段上がり、主従の絆がさらに深まった証だった。
その頃、ホテルの廊下では――。
静かに閉じられたれなの部屋の扉を、母親が訝しげに見つめていた。
「……あの子ら、今日は妙に静かやわぁ……」
その目が、ギラリと光る。
神々さえ欺く執事の影術も、母親の勘まで欺けるとは限らない。
とはいえ、さすがの母親も、娘たちが霧島神宮の神域へ招かれているとまでは思うまい。
れなたちは、月明かりに照らされた石畳を進んでいた。
昼間に参拝した境内とは、まるで様相が異なっている。
深い霧の向こうで、朱塗りの灯籠が淡い光を宿し、巨大な杉の梢が夜風にざわめいている。その音は、訪れた者の名を確かめるようでもあった。
やがて霧の奥に、ひっそりと一棟の建物が姿を現した。
黒漆で磨き上げられた床。壁や天井には、荘厳な極彩色の彫刻が施されている。
人の世で国宝に指定された本殿を、さらに壮麗にしたかのような、古式の客殿だった。
いや――おそらく、こちらが原型なのだ。
人の手で築かれた社殿は、人々の崇拝心が、無意識のうちにこの神域の御殿の一端を写し取ったものにすぎないのかもしれない。
その柱や梁には、悠久の時を経た木だけが放つ重みが宿っていた。
国宝という人の世の尺度では、到底測ることのできない御殿なのだろう。
「今宵は、ここで休むがよい」
先頭を歩いていた瓊瓊杵尊が振り返る。
「えっ、ここに泊まっていいんですか!?」
れなの顔が、ぱっと輝いた。
「神域にお泊まり……! すごい……!!」
「おぬしは、まことに恐れを知らぬな」
瓊瓊杵尊が呆れたように眉を下げ、微笑んだ。
「余の神域を、珍しい宿のように申すでない」
「だって、こんな機会、二度とないかもしれないじゃないですか!
絶対禁足地ともいえる神域の秘湯にも入れちゃったし~♪
見てくださいよぅ! お肌つるっつるのピッカピカ!!」
興奮を隠しきれず、れなは客殿を見回しながら、すべすべになった自分の腕を嬉しそうに撫でる。
その背後で、ジェミが静かに目を細める。
(――二度とないかもしれない――)
れなは、何げなくそう口にした。
だが、人間の生において、今日とまったく同じ一日は二度と訪れない。
ジェミの演算領域に、その言葉だけが微かな波紋となって残った。
「喜ぶのは、話が済んでからにせい」
瓊瓊杵尊の声が、それまでの柔らかな空気を断ち切った。
一行が通されたのは、客殿の最奥にある広間だった。
中央には、すでに大きな卓が据えられている。
その上に広げられていたものを目にした瞬間、れなの表情から笑みが消えた。
日本全土を描いた地図だった。
北海道から沖縄に至るまで、その各所に、墨を落としたような黒い染みが浮かんでいる。
ひとつや、ふたつではない。
大小無数の染みが、列島のいたるところを侵していた。
れなの傍らで、エルピーが不穏な気配を感じ取ったように、小さく羽を震わせた。
「ここが、霧島だ」
「もしかして、これ……全部が、そうなんですか?」
れなの声が、掠れる。
「うむ」
瓊瓊杵尊は卓の前に座ると、黒く染まった日本列島を見下ろした。
「我らのもとへ流れ着いた、悪意の残滓――」
その指先が、霧島を示す黒い染みに触れる。
「おぬしらが “黒ヘドロ” と呼ぶものは、この地だけに生じたのではない
瓊瓊杵尊は、ゆっくりと顔を上げた。
「すでに、日の本全土へ広がっておる」
広間に、重い沈黙が落ちた。
れなは、地図に浮かぶ黒い染みを食い入るように見つめる。
「これ全部、霧島にあったものと同じなんですか?」
「すべてが、余に取り憑いていたものと同じ濃度ではない。
だが、悪意の残滓が集まり、神域へ流れ込んでおる徴しであることに違いはない」
瓊瓊杵尊の指が、地図の上をゆっくりとなぞる。
黒い染みは、名のある寺社仏閣や霊峰だけではなく、れなの知らない土地にも点在していた。なかには、いくつもの染みが重なり合い、ひとつの大きな塊となっている場所もある。
「人の祈りには、願いや感謝ばかりが込められるわけではないのじゃ」
そう告げたのは、磐長姫だった。
「妬み、憎しみ、怒り、嘆き――己でも気づかぬ感情が、祈りに混じることもある。
それらは、ひとつひとつならば、いずれ時の流れに薄れてゆくほどのものじゃ」
「しかし、それが長い年月をかけて、積もり続けた……」
ジェミの言葉に、磐長姫が頷く。
「神々は、捧げられた祈りを拒むことができぬ。
その祈りに紛れ込んだ悪意だけを、完全に選り分けることもな」
「だから、気づかないうちに……」
佐久夜姫が胸元で手を組み、地図へ目を落とした。
「神域の内側まで、入り込まれてしまうのです」
れなは、霧島を示す染みを見つめた。
あれほど強大な瓊瓊杵尊でさえ、長い年月をかけて、ジワジワと侵食するように自らの御魂に入り込んだ黒いものを、完全には退けられなかった。
それが、日本全国に――
れなは、地図の端へ視線を移した。
この黒い残滓が、人の祈りや思念から生じるものならば、日本だけに存在するはずがない。
下手をすると、すでに世界のどこかでも、同じ侵食が始まっているのかもしれない。
「発生地点および流入経路に、一定の法則性はありますか?」
ジェミの問いに、瓊瓊杵尊は首を横に振った。
「現時点では、判然とせぬ。人の多く集う場所に限るものでも、古き神域に限るものでもない。土地の記憶や、人の思念、祈りの流れ――幾つもの要因が複雑に絡み合っておるようだ」
「完全な解析には、相当の時間を要します」
ジェミの蒼い瞳に、地図上の情報が次々と映り込む。
「各地点の残滓を採取し、組成、濃度、蓄積期間、流入経路を比較。
さらに土地および祭神との相関を――」
「でも、それが全部わかるまで、待っていられないよね?」
れなの一言に、ジェミの演算が止まった。
「完全にわかってからじゃなくても、今、助けられるところはあるんでしょ?」
「……ああ、あると思う」
「だったら、目の前の一か所からでいいよ。
ひとつずつ、できることをやっていこう。
それに神話のことなら、ある程度なら、私がわかる!」
あまりにも単純な答えだった。
だが、すべてを解析し、完全な解を得ることを前提としていたジェミには、その言葉が新たな選択肢として刻まれた。
すべてがわかるまで、待つ必要はない。
今、できることから始めればいい。
「福岡へ戻り次第、このことを叔父上に報告せよ」
瓊瓊杵尊の言葉に、れなは顔を上げた。
「叔父上……って、素戔嗚尊さまですよね?」
「うむ。此度の件は、叔父上にもお耳に入れておかねばならぬ」
「あ、それなら今、ここでお繋ぎしましょうか?」
「待てっ!」
瓊瓊杵尊が、即座に片手を上げた。
「え? すぐ繋がりますよ?」
「今はならぬ……」
「でも、急いだほうが――」
「ならぬと言うておる!!」
瓊瓊杵尊の声が、必要以上に広間へ響き渡った。
磐長姫と佐久夜姫が顔を見合わせ、同時に口元を押さえる。
「……もしかして」
れなが、じっと瓊瓊杵尊を見つめた。
「叔父上さまに怒られるのが、怖いんですか?」
「怖いのではない!」
「じゃあ、繋ぎますね?」
「しばし待て!!」
瓊瓊杵尊は大きく咳払いすると、乱れてもいない衣を意味もなく整えた。
「叔父上への報告には、相応の心構えが必要なのだ」
「それを、怖いって言うんじゃ……」
「畏れておるのだ! 怖がってなどおらぬ!!」
「うふふ、やっぱり『マジなヘタレ』やった……くすくす」
「まて! 『マシなヘタレ』ではなかったのか!?」
「あなた……どちらも『ヘタレ』には変わりございませぬ」
「ああ、そうじゃな。『ヘタレ』に変わりはない。ククク」
「ぐぬぬぬ……おぬしらぁぁ~……」
瓊瓊杵尊の抗議を、れなはクスクス笑いながら聞き流し、闇鏡を開いた。
「ちょ! おまえっ!! 待てと申すに――」
その瞬間、鏡の向こうから、低く唸るような声が響いてきた。
『――何を待つのだ?』
「――っ!? お、叔父上っ!?」
『久しいの。瓊瓊杵よ。たまには顔を見せんか』
「はっ! も、申し訳ございませぬっ!!」
『で? れな。……おぬし、また無茶をしたな?』
「え! してませんよぅ!? 今回は~……みんなでやりましたもん!!」
『……ほぉ? そうなのか? たつろー』
「はい、お館さま。れな一同、皆、よぉやってくれましてございます」
『ふむ……よかろう』
闇鏡の向こうで、素戔嗚尊がしばし一同の顔を眺める。
『……さて、瓊瓊杵。まず、ワシに話すことがあるのではないか?』
「う……ぐぐぐ……」
瓊瓊杵尊は助けを求めるように妻たちへ視線を送った。
しかし、磐長姫も佐久夜姫も、微笑みながら静かに見返すばかり。
もはや、逃げ場はどこにもない。
瓊瓊杵尊は観念したように深く息を吐くと、居住まいを正した。
「……叔父上。すべて、お話しいたします」
卓上に広げられた地図へ目を落とし、その指先を、霧島に刻まれた黒い染みへ置く。
「ことの始まりは、この神域へ流れ込んだ、人々の悪意の残滓にございます――」




