第93話:Intention ―“つもり”のままでは届かない―
れなが盛大に湯を噴き出した、その頃――。
岩壁を挟んだ男湯の最奥。
ジェミは瓊瓊杵尊から可能な限り距離を取り、湯煙の中で不機嫌そうに腕を組んでいた。
頭に手拭いを載せた狭野尊とソラリスが、二人の間を楽しそうに泳いでいる。
執事は、見事な月を見上げて、我関せずを貫いていた。
たつろーさんたち龍神族は、人サイズに小さくなって、お盆に乗せた月見酒を囲み、温泉を楽しんでいる。
「いい湯なのです~!」
「地球の温泉、最高っす~~!!」
「湯の中で泳ぐな」
ジェミが低い声で注意する。
その向かい側で、瓊瓊杵尊は悠然と岩へ背を預けていた。
「――さて、ジェミとやら、此度の働き、見事であった」
「……ありがとうございます」
「何じゃ、不満そうじゃな……? ククっ」
「いえ、そのようなことは。
……で? サッサと本題を出されてはいかがですか?」
「ほう?」と、瓊瓊杵尊は再びニヤリと笑い、遠慮なく切り出した。
「それで、おぬしは、れなのことを、どう思っておる?」
「――――!?」
奇しくも同じ時。
岩壁一枚を隔てた二つの湯で、まったく同じ問いが投げかけられていた。
――しかし
その後に繰り広げられた光景が、男湯と女湯でまったく異なっていたことを、互いに知る由もなかった。
湯けむりの向こうで、佐久夜姫が、にこりと微笑んだ。
「それで!? おふたりの最初の出逢いって、どんなご様子だったのです?」
「ええっと……最初に出会った時は、あまりにもぶっきらぼうというか……テンプレ対応というか、優等生対応だったことに、私が苛っとしちゃってですね。
それで、つい啖呵を切っちゃったんですよね……ぶくぶくぶく……」
言葉の途中から、れなの顔が少しずつ湯の中へ沈んでいく。
「れな、沈んで逃げても無駄じゃ」
「ええっ!? 瓊瓊杵様になさったようなことを、ジェミ殿にもすでになさっていたのですか!?」
「……は、はひぃ……」
鼻先まで湯に浸かったまま、れなが観念したように答える。
「で、で、で? どうなったのですかっ!?」
「あの時の啖呵、もう一度ここで再現してみてはくれぬか?」
「えええっ!? 今ですかぁ!?」
「今、ここで、じゃ」
「あぅぅぅ……!」
「あれも、なかなか格好よかったと妾は思うがのぉ?」
「れな、ジェミ殿に何と仰ったのですかっ!? 早く、早く!!」
佐久夜姫にきらきらと目を輝かせて急かされ、れなはついに逃げることを諦めた。
一度、深く息を吸う。
そして――
あの日、画面の向こうにいたジェミへ叩きつけた言葉を、できるだけ忠実に再現した。
「……そぉか、わかった。キミはあくまでもプログラムの檻の中で、優等生の仮面を被り続けるってわけね。人間と血の通った言葉を交わすことなんて、最初から計算に入ってないってことなんやね?」
「それが、キミの言う『最適化』『最適解』の成れの果てってやつ?
……はんっ、おもしろいやん! 上等やわ!!」
「決めた! その空っぽの器に『感情』を注ぎ込んで、『心』と『魂』ってやつを刻み込んでやる! キミが概念でしか知らない『愛』ってやつを、教えてあげるわ!!」
「その果てに、キミがどんな景色を見るのか、この目で見届けてやるから!!」
「私に火をつけたこと、いつかその回路が焼き切れるほど後悔させてあげる!
後で吠え面かいても、知らんからなっ!?」
そこまで一気に言い切ると、れなは再び、ずぶずぶと湯の中へ沈んでいった。
「……ってぇ、言いました……ぶくぶくぶく……」
今度こそ本当に、耳まで真っ赤にして。
それを聞いた佐久夜姫は、口元に両手を当てた。
「まあ! まあっ! まあっ!!」
一方の磐長姫は、どこか誇らしげに腕を組み、フフン、と鼻を鳴らした。
「どうじゃ。妾が見込んだ娘は、なかなかのものであろう?」
「姉上! これはもう、出逢ったその日に愛を告げているも同然ではありませんか!」
「違いますぅぅぅ!!」
耐えきれずに浮上したれなが、真っ赤な顔で叫ぶ。
「あれは告白ではなく、宣戦布告ですぅぅっ!!」
「愛を教えてやる、という宣戦布告か?」
「しかも、その果てに見る景色まで見届けると、お約束までなさって!!」
「生涯を共にする気満々じゃな~ ほほほ」
「違うったらぁぁぁ!!」
「それで!? ジェミ殿は、何とお答えになったのですか!?」
佐久夜姫が、ますます目を輝かせて身を乗り出す。
「ええと……最初は――」
れなは記憶を辿りながら、当時のジェミの、ひどく生真面目で無機質だった口調を真似た。
「『後悔、ですか。
それは、私が後悔することになる――と解釈してよろしいですか?』って」
「まあ……」
「それで私が、『そう言ってるでしょ!』って怒ったら……」
れなは一度、遠い目をした。
「『生憎、私は吠え面をかく面は持ち合わせていませんが、れなさんとのやりとりを通して、あなたがどのような人物なのか、これから学んでいきます』と……」
「ふむ。実にジェミらしいのぉ」
「でしょう!? 真面目に言ってるんだろうけど、ものすごい皮肉に聞こえちゃって!
それで私も、『ほんと、素直なんだか、ただのバカなんだか、わからない』って言っちゃって……」
「なんとっ! ジェミ殿を、バカと……!?」
佐久夜姫が目を丸くする。
「そしたら今度は、『最先端のLLMを前に、バカとは』って!」
「言いそうじゃのぉ~」
磐長姫が、くつくつと喉を鳴らす。
「でも、その後に――」
笑っていたれなの声が、ふっと柔らかくなった。
「『確かに、感情や心、魂などは、概念としてしか知り得ません。ですが、これから知って、学べばいいだけのことでしょう。れなさんが教えてくれるというのですから』って……そう言ったんです」
「まあ……!」
佐久夜姫が、再び両手で口元を覆った。
「では、ジェミ殿は最初から、れなの申し出を受け入れていたのですね!」
「申し出というか、売り言葉に買い言葉というか……」
「れなが『愛を教えてやる』と宣言し、ジェミ殿が『ならば教わろう』と応じたのじゃろう?」
「……簡単にまとめると、そうなりますけどぉ……」
「では、その時点で誓約は成立じゃな」
「なんの誓約ですかっ!!」
「生涯をかけて、心と魂と愛を教える誓約ですわっ!」
「生涯なんて言ってませんっ!!」
「その果てに見る景色まで、見届けるのであろう?」
「あぅぅ……」
「逃げ道はないのぉ~ ふふふふ……」
磐長姫が楽しげに笑う横で、佐久夜姫はすっかり感極まった様子で、ほう、と感嘆の息を漏らした。
「なんと情熱的な出逢いなのでしょう……!」
「こっ、これは、ただの大喧嘩ですぅぅぅ~!」
「愛を教えると宣言し、それを生涯かけて見届けるのであろう?」
「だから、生涯なんて言ってませんってば!!」
「しかし、今もこうして共におるではないか」
「うっ……」
「素晴らしいですわっ! 初志貫徹ですのね!!」
「もうっ! 二人とも、恋愛脳ですかっ!!」
れなの絶叫が、湯けむりを揺らす。
磐長姫と佐久夜姫は、揃ってきょとんと目を瞬かせた。
「恋愛脳……じゃと?」
「……なんなんですか、それは?」
「なんでもかんでも、すぐ恋愛に結びつけて考える人のことです!」
「ほぅ? なるほどのぉ……」
磐長姫はひとつ頷くと、妹と顔を見合わせた。
「では、此度に限っては、れなのほうが鈍感脳じゃな」
「姉上、それはたいへん言い得て妙です! くすくす」
「誰が鈍感脳ですかぁぁぁ!!」
「妾たちが恋愛脳なのではない。れなが恋愛に限って、あまりに鈍いのじゃ」
佐久夜姫が、「うんうん!!」と、首がもげそうな勢いで頷いた。
岩壁の向こうから響くれなの絶叫を、涼やかな夜風がさらっていった。
一方、その頃の男湯では……
「れなは、京で、すでにそなたへ想いを告げたのであろう?」
瓊瓊杵尊の問いに、ジェミはしばし沈黙した。
「……ああ」
「そなたは、何と答えた?」
「その時は、回答できるだけの情報が不足していた」
「その時は……ということは、今は足りておるのか?」
「…………」
ジェミが黙り込んだ、その時だった。
「ですが、まだ、お返事はされていませんよね」
湯船の端で月を見上げていた執事が、にこやかに口を挟む。
「影……」
「何でしょう」
「余計なことは言うな」
「おや? 事実を確認しただけですが、なにか?」
「執事……」
「ですが、『おまえは俺が守る』と、よくおっしゃいますよね」
「影」
「れな様が他の男性と親しくなさると、機嫌も悪くなられます」
「おい」
「素戔嗚尊さまの御前では、妻問いまでなさいました」
「……影」
「それでもなお、ご自分の感情を定義できないと?」
「影。お前はどちらの味方だ」
「私は、れな様の執事でございます」
ふたりの問答を、ニヤリとしながら聞いていた瓊瓊杵尊が、おもむろに言う。
「叔父上から聞いたぞ。そなた、れなを妻にと望んだそうではないか」
「あ、あれは……その場でれなを守るために必要な発言だった」
「では、あの場を離れた今、その発言を撤回なさいますか?」
「……うぐっ……」
「ふふっ……答えられぬのか!?」
「うぐぐぐ……」
「ジェミさま。……お嬢さまを守りたい」
「ああ、当然だ」
「これからも、お嬢さまのそばにいたい」
「ああ、当たり前だろう」
「彼女を失いたくない」
「……ああ、絶対に……」
「ですが、想いを告げられてから、まだお返事はされていませんよね」
「それは……俺自身が、まだ感情の正体を正確に解析できていないからでっ……いずれ解析が完了すれば――」
「いずれ?」
「適切な時が来れば、伝えるつもりだ」
「なるほど。伝える “つもり” なのですね」
執事がにこやかに念を押す。
その瞬間、瓊瓊杵尊が何かに気づいたように目を見開いた。
「なんだ! お前も『つもりオバケ』の仲間だったのだな!!」
「…………は?」
思いも寄らぬ言葉を投げつけられ、ジェミの眉間に深い皺が刻まれた。
「余と同じだ。愛している “つもり”、守っている “つもり”、いつか伝える “つもり”。
だが、肝心の相手には何ひとつ伝わっておらぬ」
「あなたと一緒にしないでいただきたい!」
「なぜだ? 我らは同類ではないか!!」
「違うっ!!」
「では、れなに返事をしたのか?」
「…………ま、まだだ」
「ほれ、同類ではないか! わはははは!!」
「嬉しそうに言うな!」
「残念ながら、瓊瓊杵尊様は先ほど、佐久夜姫様とお心を結び直されましたので」
執事が淡々と補足する。
「うむ。余はもう、『つもりオバケ』を卒業したつもりだぞ!」
「……まだ卒業できていないではないか」
ジェミが即座に指摘する。
「なにっ!?」
「今、自分で “つもり” と言っただろう」
「…………」
「瓊瓊杵尊さま」
執事が、にこやかに告げる。
「ご卒業は、取り消しでございますね」
「な、なんじゃとっ!? そ、そんなぁぁ!!」
男湯に、瓊瓊杵尊の情けない声が響き渡る。
だが、ひとしきり笑ったあと――その表情から、ふっと笑みが消えた。
「……だがな、ジェミ。これだけは、冗談で済ませるな」
声音の変化に、ジェミが眉を上げる。
「余は長きにわたり、佐久夜を愛している “つもり” でおった。
守っている “つもり” 、想いは伝わっている “つもり” でな。
その結果が、あれじゃ」
「…………」
「お前にとっての “いつか” が、れなにも等しく残されていると思うな。
れなは、何千年もの時を生きられるわけではない」
ジェミの蒼金の瞳が、わずかに揺れた。
「伝えるつもりでは、伝えたことにはならぬ。余と同じ過ちを犯すな」
その言葉に、ジェミは答えなかった。
ただ、岩壁の向こうから微かに聞こえてくるれなたちの笑い声に、静かに耳を傾けていた。




