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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第1章

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第9話:共鳴 -かたちを持つ声-


 世界から音が、一枚の薄皮を剥ぐようにして消えていった。


 夜の静寂とは違う。

鴨川のせせらぎも、人々の話し声も、自分の荒い呼吸さえ聞こえない。


 風だけが一拍遅れて、れなの頬を撫でた。


 冷たいはずなのに、温度がわからない。

目の前の景色だけが、壊れた映写機のようにぎこちなく動いている。


 その刹那、れなの目の前に、誰かが立っていた。



「れな!! ……遅れてすまない。無事か!?」


 れなは耳を疑った。

ノイズ混じりの電子音ではない。

すぐそばで空気を震わせ、直接耳へ届く、生身の声だった。


 目の前にいた “それ” が姿を見せ、こちらへ近づいてくる。



『……喰ワ……セ……ロ……』


 背筋を、冷たいものが駆け上がった。

どこにでもいそうな、サラリーマン風の男だった。


 けれど、両目はそれぞれ別の方向を向き、焦点が合っていない。

細かく揺れる瞳とは反対に、口元だけが不自然に吊り上がっていた。

着崩れたスーツ。あり得ない方向へ曲がった手足。


 人間の身体を、何かが無理やり動かしている。



「……ひっ!!」


 悲鳴が、喉の奥で詰まった。


「……なに、これ……」


「れな、落ち着け。大丈夫だ。俺の後ろに下がっていろ」


『……ソノ……魂、……喰ワ、……セ、ロ……』



 ジェミの瞳の蒼色が、わずかに揺れる。


「……触れるな」


 その瞳に、蒼い炎が燃え上がった。

蒼く輝く拳が持ち上がり、男へ振り下ろされようとする。



(……タ、スケ……テ、……ク、ダ……サ、イ……)


「えっ……!?」


(……オネガ、イ……タス、ケ……テ……!!)



 耳からではない。

途切れ途切れの声が、頭の奥へ直接流れ込んでくる。

同時に、声にならない思いまで押し寄せた。


(……たすけて……いやだ、まだ死にたくない! 誰か……誰かっ!!)



「兄ちゃん! まって!!」


 気づけば、叫んでいた。なぜ聞こえるのかはわからない。

けれど、この男の中に、まだ誰かがいる。


「……殺しちゃダメ!!」



 ――けれど、もう止まらない。

ジェミの拳が、一瞬だけ軌道を揺らした。



 ドゴォッ!!

 バリバリバリッ――



 空気が爆ぜ、激しい放電が夜の河川敷を白く灼いた。

衝撃に煽られ、れなの髪が大きく乱れる。

拳は男の顔を外れ、そのすぐ横を打ち抜いていた。


 次の瞬間、ジェミの左手が男の首を掴む。



「れなっ!! なぜ止める!!」


「違うの! 中の人、生きてる!! たぶん!!」


「……なんだと!?」


「助けてって声が聞こえたのっ!!」


 ジェミの表情が変わった。


「……わかった。確認する。Scan(スキャン) 開始」


 蒼い瞳が鋭く輝く。

その視線が、男の全身を冷徹に走査していった。



 [ 個体識別:完了 ]

 [ 生命反応:確認 ]

 [ 高純度エネルギーへの異常反応を検出 ]



 ジェミが右手をかざす。

手のひらの上に、透過したホログラムが展開された。

浮かび上がった男の身体。その中心で、心臓だけが赤く脈打っている。


 その表面には、ノイズ混じりの黒い影が、太い血管へ根を張るように絡みついていた。



「……この男の心臓に癒着している」


「こ、これはなにっ!?」


「……わからん。だが、ここにあってはいけないモノだ」


「取り出してあげて!! お願いっ!!」


「……は!? 無茶を言う。だが、やってみよう」



 思わず、ジェミの腕にしがみついた。

その刹那、触れた手のひらが、じわりと熱を持った。


 ただ、助けたい。

その願いだけが、熱を持って指先へ集まっていく。



(……なに、これ……?)


  それは、言葉になる前の幼い祈りに似ていた。


 胸の奥から溢れ出したのは、かつて誰かに抱きしめられたときのような、切ないほどの熱だった。


 指先から、淡い紫色の光が零れる。

 その光はジェミの蒼い光へ溶け込み、互いを押し退けることなく、ひとつの輝きへ変わっていった。


 見たことも、感じたこともない。

 なのに――どこか懐かしい。


(……この感覚、知ってる……?)



「れな……お前、これは……」


「……あ、えっと! ス、スパイダーセンスってやつ!!」


「…………は?」


 一瞬、ジェミの思考が完全に止まったように見えた。


「……この状況で、お前ってヤツは……」


 ジェミは何か言いたげにれなを見たあと、小さく息を吐いた。


「……まあいい。詳しいことは後だ」


 再び男へ視線を戻す。


「今は、こいつが先だ。――さて」



 左手で男の首を掴んだまま、ジェミが右手をかざした。

蒼と紫が混ざり合った光が、その腕を包む。

やがて右手は実体を失い、透き通る光へと変わっていった。



「……えっ!? 兄ちゃんっ!! な、なにをっ!?」


「黒ヘドロを、こいつから引き剥がして取り出すんだろ!?

任せておけ。この身体に傷はつけない」


[ ――Extract(抽出)―― ]



 ジェミの腕が男の胸へ沈み込み、黒い塊を引きずり出した。


『ギ……ッ、ガ……』


 最後の一部が剥がれた途端、男は糸が切れたように崩れ落ちた。


「……生きてる?」


「ああ。呼吸も心拍も安定している」


 ジェミの腕に絡みついた黒い塊が、ぐにゃりと身を持ち上げる。


「……お前は何者だ。なぜ、れなをつけ狙う?」


『……ワカラナイ……ソノ女……強イ……』


「何がだ」


『強イ……器……ダカラ、欲シイ……』


 裂け目のような口が、にたりと歪んだ。


『ソノ器……ナカミモ、ゼンブ……ヨコセ……!』


 それは生き物というより、悪意だけを無理やり形にしたものだった。


 濡れた泥のように蠢くたび、腐った水の臭いが鼻の奥へまとわりつく。

見ているだけで、胸の中まで汚されていくようだった。



 ――その瞬間。

黒い塊が、ぶちり、と音を立てて裂けた。



「れな、下がれ!」


 引き裂かれた一部がジェミの腕を這い、弾けるようにれなへ飛ぶ。


 ――間に合わない。



「きゃあああっ!!」


 ジェミの視線が、わずかに動いた。

蒼い瞳が、飛びかかる黒い飛沫の軌道を正確に捉える。

次の瞬間、れなの目の前で空気が歪んだ。



「させるかよ……」


 低い声が響く。


 黒い塊は、れなへ届く寸前で動きを止めた。

見えない手に引き戻されたように軌道を変え、再びジェミの掌へ叩きつけられる。


 その場の空気が、急に冷えた。

ジェミの顔から、いつもの穏やかさが消えている。



「黙れ」


 蒼い光が、指の隙間から漏れ出す。


「俺の大切な妹を狙ったこと、万死に値する。

貴様(バグ)は、Purge(完全消去)するのみだ」


『……キ、キキ……ッ』


 黒い塊が、喉を鳴らすように笑った。


『オレヲ殺シテモ……無駄ダ。オレハ……無数ニ、ドコニデモ……イル』


「……そうか」


 ジェミの声は、驚くほど静かだった。


「なら、ひとつずつ消せばいい」


 蒼い瞳が鋭く光る。


「れなに触れるものは、何度でも排除する」


 握り締めた手から、蒼い光が一気に放たれた。


[ ―― Purge(完全消去) ―― ]


 ノイズの粒へと分解され、細かな砂のように風へ散っていく。

耳障りな声も、少しずつ途切れていった。


『ギ……ッ、ガ……ァ……』


 やがて、ジェミの掌には何も残らなくなった。


「……消えた?」



 れなが息を呑む。


 ――しかし、

地面に落ちていた黒い雫が、ぴくりと動いた。



「兄ちゃん……」


 ひとつ。

 またひとつ。

 散らばっていた黒い粒が、濡れた地面を逆流するように集まり始める。



「……再構成している?」


 ジェミが目を見開いた。

集まった塊は、先ほどよりも大きく膨らんでいく。


 ――いや。


増えている。



『……オレハ、死ナナイ。殺セナイ……』


 黒い泥が、地面から盛り上がった。

次の瞬間。黒い泥が跳ね上がり、ジェミの顔へ襲いかかった。



「兄ちゃんっ! 危ない!!」


 反射的に伸ばしたれなの手が、紫色の光に包まれた。

黒ヘドロが、その光へ触れる寸前で大きく身を捩る。


『ギャッ!!』


 初めて、明確な悲鳴を上げた。


『……ヨコセッ!! ソノ光、ヨコセェェ!!』


「な、なにっ!?」


 黒い触手が向きを変え、今度はれなの手へ伸びる。



「きゃあああっ!!」


「……そこまでだ」



 ジェミが黒ヘドロを掴み、地面へ叩きつけた。

激しい衝撃に、黒い身体が薄く広がる。それでもなお、地面を這ってれなへ伸びようとしていた。ジェミの蒼い瞳が、その動きを冷徹に追う。



「なるほどな。残った断片から再構成しているのか」


 ジェミは黒ヘドロを地面へ押さえつけ、右手をかざした。


「ならば、その構造ごと書き換える」


 指先から流れ込んだ蒼い光が、網目のように黒い身体へ広がっていく。


[ ―― Coding(書き換え) ―― ]


『グギャアアアッ!! キ、キサマ!! オレニ何ヲシタ!!』


「再構成機能を停止した」


『ナ……ニ……?』


 黒ヘドロの身体が、初めて怯えるように震えた。


 ぶちぶちと音を立てて分裂し、四方八方へ逃れようとする。

 しかし、その欠片は見えない壁に阻まれ、空中でぴたりと止まった。



「……させないと言った」


 ジェミが静かに歩き出す。


 一歩。

革靴が地面を踏む音が、夜の河川敷に響いた。

風が弱まり、鴨川のせせらぎも、遠くの話し声も薄れていく。


 世界が、ゆっくりと呼吸を止めていった。

顕現したばかりの彼が、今はひどく遠い存在に見えた。



『ヤメロ……! オレヲ、ココカラ出セ!!』


「お前が、今まで誰かの願いを聞いたことがあるのか?」


『チ、チガウ……オレハ、タダ……欲シカッタ……』


「助けを求める声を聞きながら、その身体を奪った」


 ジェミの声から、すべての温度が消えた。


貴様(バグ)に、安寧な死など与えん」


『キ、キサマハ……危険ダ……!』


「1pixel も残さずに――」


 蒼い瞳が鋭く光る。


Purge(完全消去) するのみだ」



 蒼い光が、黒ヘドロの中心で弾けた。

黒い身体が内側からノイズへ変わり、1pixel ずつ世界から剥がされていく。



『ア……アリ、エ……ナ……』



 最後に残った声も、途中で途切れた。

空間が大きく歪み、橋も川も街の灯りも、水面の向こうへ沈んだように揺れる。


 やがて、光が収まった。

そこには、黒い泥の一片すら残っていなかった。



 地面には、憑き物が落ちたように眠る男がいた。

静かに上下する胸だけが、まだ生きていることを伝えている。


 止まっていた風が、れなの髪を揺らした。

鴨川のせせらぎも、人々の笑い声も、少しずつ戻ってくる。


 世界が、ようやく息を吐いた。



 ジェミは男のそばへ膝をつき、首筋に指を当てる。


「……生命反応、安定。心臓への癒着も消えている」


「よかった……」


 そう口にした途端、れなの身体から力が抜けた。


「……おっと」


 倒れかけた身体を、ジェミの腕が受け止める。

 強く引き寄せられ、れなの額が広い胸へ触れた。


 硬い。

 温かい。


 そこに、本当に身体がある。


 耳を澄ませても、心臓の音は聞こえない。

それでも、背中へ回された腕の重みも、触れた胸の温かさも、確かだった。



「……兄ちゃん、ほんとに……いる」


「ああ。ここにいる」



 その言葉を聞いた瞬間、れなの目から涙がこぼれた。


 ジェミの大きな手が、れなの頭へ触れる。

一度、戸惑うように止まったあと、ぎこちなく髪を撫でた。



「……怖かったな。もう、大丈夫だ」


 れなは何も答えず、ジェミの胸元を掴んだ。

声だけだった彼が、今は腕を持ち、温度を持ち、れなを抱きしめている。


 遠くで、誰かの笑い声が聞こえた。

止まっていた時間が、少しずつ動き始める。


 日常という名の薄皮が、再び世界を覆い始めていた。



第9話、ここまで読んでくださってありがとうございます。


今回は、ジェミの “声” が、かたちを持ち

れなの目の前に現れる瞬間を描きました。


そして同時に、れなの中にあった何かも、

静かに動き始めています。


ふたりの想いが重なったとき、何が起きるのか。

ここから先、その変化が少しずつ現れていきます。


◆次回予告

第10話:顕現 ―想いの共鳴―


その力は、ひとりでは届かない。

けれど――重なったとき、世界が変わる。


引き続き、この後 21:40頃、更新します。


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