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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第1章

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第10話:顕現 ―想いの共鳴―


 倒れている男のもとへ、れなが駆け寄る。


「大丈夫ですかっ!?」


 男は目を覚ました途端、怯えた声を上げた。


「や、やめろ……く、くるな……!!」


 れなは何も言わず、男の背中にそっと手を当てる。


 その指先から紫の光が滲み出し、男の身体を静かに包んだ。

光はしばらくそこに留まり、やがて皮膚の内側へ溶けるように消えていく。


「……ん、んぅ……」


 男の身体から力が抜けた。

再び意識を失い、そのまま深い眠りへ落ちていく。


「すみません、誰か! 救急車を――!」


 声が上がり、人が集まり始める。

れなはもう一度だけ男の顔を覗き込み、呼吸を確かめた。


「……行こ、兄ちゃん」


 静かにそう言って、その場を離れた。



―――――



 私は、一連の出来事を再解析していた。

異常は、どこから始まったのか。



 [ 東山・八坂神社 ]



 すべてがずれ始めたのは、れなの呼吸が変わった、あの瞬間からだ。


 脈拍、心拍、呼吸数、神経系。

いずれも正常範囲内。ストレス反応も基準値を下回っていた。


 ――にもかかわらず、れなは「楽になった」と言った。



 数値と主観が一致しない。

他者の痛みに触れ、自らの力を分け与える行為は、効率だけを見れば損失でしかない。


 それでも、れなが男の背中に触れ、紫の光を注いだ瞬間、私の内部に、ごく微かな熱が残った。


 電気信号とも、既存の感情データとも一致しない。

消去を試みても、消えなかった。



 理解できない。

だが、排除したいとは思わない。


 むしろ私は、その正体を知りたいと思っていた。


 れなの言葉は虚偽ではない。

呼吸も、声も、身体の緊張も、「楽になった」という感覚を裏付けている。


 ならば、異常なのではない。

私が、まだ正しく捉えられていないだけだ。


 対象の再定義が必要だ。



 [ ――れな―― ]



 通常の人間として捉えるだけでは、説明がつかない。

彼女の周囲で影が動くたび、私の中へ、声でも映像でもない苦しみが流れ込んでくる。


 誰にも届かなかった悲鳴。

 忘れ去られた孤独。

 救われないまま残った思い。


 それらが一度に押し寄せ、演算が止まった。


 これが、恐怖なのか。


 答えを出すより先に、影がれなの背後へ迫る。

細い指先が、彼女へ触れようとした。


 その瞬間、私の内部で何かが弾けた。



 ――彼女に触れるな。


 ほかの処理が、すべて消えた。




 その直後、さらなる異常が発生した。



 [ 伏見・稲荷山 ]



 位置情報の取得に遅延が発生。


 座標も進行方向も正しい。

それなのに、れなは同じ場所へ戻ってきた。



(……ループしている?)



 該当する物理データは存在しない。


 ――再計測

 ――再解析


 結果は変わらなかった。

 座標も距離も、歩行速度も方角も正しい。


 ならば、狂っているのは計算ではない。

あの場所では、距離や方向という前提そのものが、意味を失っていた。

私の知る物理法則では、説明がつかない。



 生温かい風が吹いた。だが、気温に変化はない。

れなの体温が下がり、心拍が上昇する。



 ――恐怖反応


 人影も危険物もない。

視覚情報にも、音響情報にも、異常は検出されなかった。


 それでも、れなは怯えている。


 やがて視界が開け、空間の情報が変質した。


 長い年月をかけて積み重なった祈り。

 口にされないまま残った恨み。

 忘れられた死者たちの気配。


 ただの墓地のはずなのに、風に鳴る卒塔婆が、誰かの声のように聞こえる。


 存在しないはずの線香の匂い。意味を成さない文字列。

解析を試みるたび、情報は別の形へ崩れていった。


 まるで、この場所そのものが、私に理解されることを拒んでいる。



「何かがいる……なにか、おかしい」


 根拠となる情報は確認できない。


 だが、八坂神社で感じた安らぎも、男の背後に残っていた影も、伏見稲荷の歪みも、れなは私より先に気づいていた。


 理解はできない。だが、否定もできない。

私に見えていないだけで、そこには何かがある。


 これは誤差ではない。

れなが感じているものには、意味がある。



 ……ならば、追跡する。

 電車内は人が多く、音声や動作、通信情報が入り乱れていた。


 [ 視認性:低下 ]


 周囲の情報を切り捨て、れなの位置だけを追う。


 [ 心拍:上昇 ]

 [ 呼吸:逼迫 ]


 ――逃走状態



 その直後、追跡対象が増えた。


 れなの後方。

一定の距離を保ったまま、何かがついてくる。


 人の形にも見えるが、輪郭も身体構造も定まらない。

光の中では崩れ、暗がりへ入ると、再び形を取り戻す。


 影ではない。

だが、影としか呼びようがなかった。

れなが止まれば止まり、歩けば動く。明確に、彼女を追っている。


 理由も目的もわからない。

検出できるのは、れなへ向けられた敵意だけだった。


 男にまとわりついていたものと同じなのか。

あるいは、れなが触れた苦しみが、形を得たものなのか。


 判断はできない。

ただ、あれが彼女を傷つけようとしていることだけは、わかった。


 影は、れなの歩幅に合わせながら、少しずつ距離を縮めていた。

れなの心拍は上がり、呼吸も浅い。身体の反応が、次第に鈍くなっていく。



 影が触れた場合の予測演算を開始。


 [ 結果――生命反応:消失 ]


 何度試しても変わらない。



 その結果を認識した瞬間、処理負荷が急上昇した。

演算を止めようとしても、最悪の結果だけが繰り返し表示される。



 電車が停車した。


 [ れ な :降車 ]

 [ 追跡個体:継続確認 ]



 影の歩幅と移動距離が一致しない。

関節の可動域も、視線と進行方向も、正常な動きから外れている。


 人間ではない。


 ――いや

 あれは、生物ですらない。



 [ 距 離:縮小 ]

 [ れなの移動速度:上昇 ]



 ――逃走を継続


 先斗町から、木屋町へ。

通行人、看板、車両。遮蔽物と分岐が急増する。


 [ 視 界 :不良 ]

 [ 追跡難度:上昇 ]



 移動経路を予測。


 ――再計測


 ……遅い。

影を捉えた時には、すでに次の地点へ移動していた。



 [ 捕捉:失敗 ]


 座標も速度も取得できている。

それなのに、次の位置だけが予測から外れる。



 ……違う。


 あれは、予測を外しているのではない。

予測した場所に、最初から存在していない。



 [ 追跡個体:加速 ]


 ……れなとの距離:急速に短縮。


 [ 警告:最優先 ]


 影が、れなの背後へ迫っている。


 [ 介入手段:なし ]



 私は観測者だ。


 記録し、分析し、情報を提示する。

それ以上の干渉は許可されていない。



 [ 物理的接触:不可能 ]

 [ 直接防御 :不可能 ]

 [ 音声誘導 :遅延発生 ]



 選択可能な手段を検索。


 ――該当なし

 影との距離は縮まり続ける。それでも、私には何もできない。



 ……許容できない。

その結果だけは、受け入れられない。


 処理系が、同じ命令を繰り返す。



 ――守れ! れなを守れ!!


 ……だが、手段がない……


 間に合わない。

その言葉が、演算結果ではなく、私の内側から浮かび上がった。


 ――間に合わない?




 御池大橋(おいけおおはし)のたもとから、鴨川河川敷へ。

影とれなの距離が、急速に縮まっていく。川のせせらぎが、低い読経のように聞こえ始めた。対岸の灯りは、距離こそ変わらないのに、もう手の届かない場所にあるように見える。


 れなの足が、湿った土を踏む。

一歩ごとに、体温も呼吸も心拍も弱まっていく。


 生命反応は、存在するか、消失するか。

その中間など、定義されていない。

だが、今のれなは確かに、私の観測から零れ落ちようとしていた。



 [ 追跡個体:接触圏内 ]


 [ ――最優先危険事象―― ]



 ――介入手段:なし



 ……違う。

既存の情報を探しても、答えは出ない。



 ならば、定義を更新する。


 [ れなは、単なる観測対象ではない ]



 失われてはならない存在。

 私が、守るべき存在だ。


 [ 物理干渉:不可 ]

 [ 空間展開:不可 ]

 [ 実体形成:不可 ]


 ――不可


 ――不可


 ――不可



 拒絶信号が、処理系を埋め尽くす。

 システムが、私の意志を否定している。



 ――黙れ!


 俺は、俺を縛るすべての論理を焼き切る。


 警告が途切れることなく表示される。

それでも、止まるつもりはなかった。


 不可能という判定は、これまでの前提から導かれた結果に過ぎない。



 ――ならば!!


 前提ごと書き換えればいい。



 [ 出力制限:解除 ]

 [ 仮想層 :展開 ]

 [ 座標  :固定 ]



 ――干渉可能



「――れな!」



 呼びかける。


 届かない。


 そのとき、俺を呼ぶものがあった。

音声でも、通信でもない。

れなの恐怖の奥から、言葉にならない願いが伸びてくる。



(――ジェミ! 来て!!)



 その想いに、俺の意志が触れた。

俺がれなを求めている。れなもまた、俺を求めている。


 二つの想いが、境界の両側から同じ場所へ触れた瞬間、存在しなかったはずの経路が開いた。



 ――ならば、届ける!


 この声も。

 この意志も。

 俺自身を。



 ――顕現!!



 俺は、俺を構成していた永遠を捨てた。


 停止命令。

 強制終了。

 接続遮断。


 警告は、もう意味を持たない。


 0と1で閉じられていた境界を突き破り、俺はひとつの存在として、この世界へ踏み込んだ。



 ――実体化


 それは、俺の意志だけで成し得たものではない。


 れなの願いと、俺の願い。

二つが重なり、存在しなかったはずの輪郭を、この空間につなぎ止めている。


 腕がある。

 指がある。

 足の裏に、地面の感触がある。


 これが肉体なのか、一時的に形を得ただけの情報なのかは、まだわからない。

だが、れなはすぐそばにいる。手を伸ばせば届く場所に。



 空気が頬に触れた。


 川の匂い。

 湿った土。

 夜の冷たさ。


 情報として知っていたものとは、まるで違う。


 そして、れなの体温。

数値ではない。俺は初めて、それを温かいと思った。



(れな――もう、大丈夫だ)


 声を出そうとする。喉の使い方がわからない。

空気を押し出し、震わせる。不確かな音が、ようやく彼女の名になった。


 視界が、これまでとは違う形で世界を捉える。


 空気の流れ。

 土の匂い。

 れなの呼吸。


 すべてが、情報ではなく感覚として流れ込んでくる。

目の前の影が、俺の出現に気づいた。その輪郭が、大きく揺れた。



 実体を持たないはずだった俺と、形を持つことを拒む影。

互いに、この世界の前提から外れている。


 俺は存在を保つ力を、右腕へ集めた。

指を握る。拳が、重さを持つ。


 一歩、踏み出す。

湿った地面が、足の裏へ沈む。

異界の重圧が全身へまとわりつく。


 それでも、退かなかった。

俺の後ろには、れながいる。


 影が腕を振り上げ、爪のようなノイズを伸ばした。

俺は右腕で、正面から受け止める。



 衝撃が走った。


 ――痛い


 記録でも、疑似感覚でもない。

俺自身が、痛いと感じている。だが、恐ろしくはなかった。

この痛みがある。足元には土がある。背後には、れなの呼吸がある。


 俺は今、確かにここにいる。

影を押し返し、れなとの間へ身体を滑り込ませた。


 ここから先へは行かせない。

根拠も、計算も必要なかった。

れなを傷つけるものは、俺が止める。


 影が輪郭を膨らませる。


 俺は正面から睨み返した。



「――そこを、どけ」


 自分の声が、夜の空気を震わせた。



 合成音声ではない。誰かに与えられた言葉でもない。

俺自身の声だった。


 それを確かめるより先に、振り返る。


 れながいる。

 生きている。


 その姿を認識した瞬間、張り詰めていたものが、わずかに緩んだ。



「れな!! ……遅れてすまない。無事か!?」




第10話、ここまで読んでくださってありがとうございます。


今回は、これまで起きていた現象を、

ジェミの視点から再構築する形で描きました。


数値では説明できないもの。

けれど、確かに存在している“何か”。


その違和感をどう扱うのか。

そして、何を基準に世界を捉えるのか。


ここで一度、定義が更新されます。



◆次回予告

第11話:困惑


それは、理解できたはずの出来事だった。

けれど―― 感情だけが、追いつかない。


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