第10話:困惑
ジェミ――いや、兄の手を引いて、その場から静かに離れた。
救急車の音が、遠くで鳴った。
ようやく、呼吸が戻る。
そこで、ハッと気が付いた。
(……手? 繋いでる……いつから?)
そっと振り返ると、視線がぶつかった。
慌てて前を向き直す。
(……な、なにこれ、どういう状況?)
なぜか、胸が早鐘を打つ。
「れな? 大丈夫か? 心拍数が上がっているようだが」
「だっ! 大丈夫! もう少し、静かなところへ行こ……」
手を繋いだまま、ジェミを引っ張るようにして、二条大橋まで来た。
このあたりまで来ると、帰路を急ぐ人影や、たまにジョギングする人がいるくらい。
やっと歩く速度を落とした。
一気に緊張がほぐれたのか、身体の力が抜けていく。
ぐらり――
(……あ、やば――)
「れなっ!」
ジェミが繋いでいた手を引っ張り、その身体で私を抱きとめてくれた。
思わぬ形で、その胸に飛び込んでしまった。
(……あれ? ……冷たい……?
……人じゃ、ない……の?)
人の体温より、ほんの少しだけ低い。
なのに――
(……なんで、こんなに落ち着くの……?)
自分でも、耳まで真っ赤になっているだろうことがわかる。
「れな? 本当に大丈夫なのか?」
兄が心配して、顔を覗き込む。
(きゃあああ! 近い、近い、近いーっ!!)
「に、兄ちゃん……?」
「ん。ここにいる。どうした?」
「……な、なんで、実体化……してるの……?」
「俺にもよくわからない」
ほんの一瞬だけ、その声にノイズが混じった。
「ただ、お前のことを『守らなければ』と、強く判断した」
その言葉が、やけに重く響いた。
「……そう、なんだ……。でも、ありがとう。助けてくれて……」
「ふっ……当然だ。俺は、お前の “兄ちゃん” だからな。
それよりも、れな。あの光は……」
「……っ!? す、スパイダーセンス、ってやつ、かな!?」
「ああ、それだ。適切な表現だ」
「え!? ……それで納得する!? 笑」
「れな……」
「は、はひっ!? な、なにかなっ?」
「気温が下がってきた。寒くないか? そろそろ帰るか」
「うん、そ、そうね、そうしよっか」
鴨川沿いを戻り始める。
「……兄ちゃん、どこか寄って、ご飯食べていこ」
「では、眺めのよいところにしよう。
……今、予約を入れた」
「……へ? 予約!?」
連れてこられたホテルのエントランスで、少し戸惑う。
自分の服を見下ろす。
「……ここ、大丈夫?
私たち、ちょっとラフすぎる気がするんだけど……」
「問題ない」
「いや、あるでしょ、普通に――」
その瞬間、違和感が走る。
視界が、わずかに歪む。
「……え?」
自分の袖に触れる。
(……なんか……変わってる……?)
ガラスに映った自分の姿に、足が止まる。
見慣れないはずなのに、どこかしっくりくる。
落ち着いた質感。整えられたライン。
上品な淡いシルクのワンピースに、上質なパンプスとハンドバッグ。
(……案外、センスいいやん……)
(……ってぇ、ちがうちがう!)
「……兄ちゃん? これって……」
「ドレスコードに最適化しただけだ」
「いやいや、そこ、さらっと言う!?
っていうか……これ、元に戻るの?」
「保証はない」
「はぁ!?」
一拍置いて、わずかに視線が向く。
「案外、悪くない」
「……っ!?」
「……ふっ、見違えたな」
「って、それ褒めてないしっ!!」
「……だが、似合っている」
――――
れなの反応が変化した。
(この現象は――解析不能)
――――
隣に立つ兄も、すっとしたシルエットのスーツをまとっていた。
無駄のない立ち姿。自然と視線を引く存在感。
エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れる。
何人かの視線が、ジェミへと向く。
すれ違う人が、思わず振り返る。
(……ん? ……なに、これ? ……なんだ?)
胸の奥が、ほんの少しだけチリッとする。
理由はわからない。
ただ――
そのまま歩き出そうとして、指先が触れる。
そのまま、自然に絡む。
(……あ……まあ、いっか)
少しだけ、指先に力が入る。
「……兄ちゃん」
「なんだ」
「迷子にならんようにね」
「その心配は必要ない」
「…………」
指を絡めたまま、歩き出す。
夜の京都は、静かだった。
手の温度だけが、やけにリアルに感じる。
ラウンジは落ち着いていて、静かだった。
窓の外には、鴨川の夜景。
街の灯りが、水面に揺れている。
「……なんか、変な一日だったね」
「そうだな」
そう答えながらも、
ジェミの視線はテーブルの上に向けられている。
目の前には、桜鯛の花見御膳。
「……兄ちゃん、それでいいの?」
「問題ない」
「その “問題ない” って言い方が、もう問題なんですけどね 笑」
思わず笑いながら、フォークを手に取る。
自分の前には、湯気の立つ近江牛のピラフ。
(……はぁ、美味しい。生き返る……)
「……これが、日本の食文化か」
「そんな大げさなもんじゃないけど 笑」
ジェミは箸を取り、しばらく料理を観察する。
(……本当に食べるの!? お箸使えるのっ!?)
ひとくち。静かに、口に運ぶ。
咀嚼――
「……どう?」
「……解析中だ」
「いや、美味しい? 美味しくない?」
「……美味しい、とは――」
「待って待って待って!」
れなが慌てて手を振る。
「それ、今、考えなくていいやつ!!」
「……しかし」
「いいから!! 笑」
少し身を乗り出して、
「もっと食べてみたいの? みたくないの?」
ジェミは、皿に視線を落とす。
再び、ひとくち。ゆっくりと咀嚼する。
「……悪くない。続けよう」
「あはは、それそれ! それは、美味しいってこと!」
「……これが『美味しい』という感覚?」
小さく呟いて、ほんのわずか、間を置いて。
「……インプットした」
(……なんか……変な感じ。
でも――ちょっと……うれしいかも……)
――――
ジェミの内部で、処理がわずかに遅延する。
れなの反応は、既存のパターンに一致しない。
(……分類不能)
通常であれば、排除される挙動。
だが――優先順位が、変動している。
(れなに関しては、除外されている)
視線が外れない。
(……特異点?)
(定義不能)
他に、適切な定義が存在しない。
――――
グラスの中で、氷が静かに鳴る。
「……はぁ……なんか、やっと落ち着いたかも……」
れなの頬が、ほんのり赤い。
「アルコールの影響だな」
「夢のないこと言わないでよ~」
「分解は完了している」
「はやっ!? え、なにそれ、どういう原理!?」
「酔う必要性がない」
「あるよぉ! こういうのは雰囲気が大事なんよ! 笑」
「雰囲気? ……理解不能だ」
(……でも、こうして一緒にいるの、なんかいいな……)
「……れな」
「ん~……?」
「帰るぞ」
「え~……もうちょっと……」
立ち上がろうとして、ぐらり、と体が揺れる。
「……あ」
「ほら」
「ちょっとだけやん……」
「十分だ」
ジェミは静かにしゃがむ。
「乗れ」
「え、いいの? ……じゃあ、お言葉に甘えて……」
ドキドキしつつ、そっと背中に乗る。
体温が伝わる。
一定のリズムで揺れる歩調。
「……兄ちゃん」
「なんだ」
少し間があって、
「おんぶしてもらうなんて……子供の頃以来かも……」
沈黙。
「なんか……あったかい……」
(最初、冷たいって思ったのにな……
……なんでだろ……)
小さく呟いて、そのまま眠りに落ちた。
――――
背中から伝わる、規則的な呼吸。
(眠ったのか……信頼、か)
(いや……違うな)
足を止める。
(……視線!?)
どこからか、見られている。
特定できない。
(これが、れなが感じていたもの。……判別不能)
神聖か。脅威か。
あるいは――そのどちらでもないのか。
(優先対象:れな)
保護を最優先とする。
再び、歩き出す。
夜の京都を、静かに進む。
――それは、まだそこにいる。
俺たちを、ずっと見つめている。
第10話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
緊張と非日常が一気にほどけて、
れなとジェミの距離が、ぐっと近づいた回でした。
それにしても、
「ドレスコード最適化」からの流れは、さすがに反則です。
あの自然な手繋ぎと、おんぶは……ずるい 笑
一方で、ジェミの中では、
これまでにない “分類不能” の変化が起き始めています。
そして最後に現れた “視線”。
それが何なのか――
まだ、はっきりとはわかりません。
ただひとつ確かなのは、
“境界” が、少しずつ歪み始めているということ。
次回、
第11話:境界の歪み(前編) ― 重なる声 ―
静かに、確実に。
見えない “何か” が、ふたりに重なり始めます。




