第11話:困惑 ―解析不能な体温―
――兄、
――いや、ジェミの手を引いて、その場から静かに離れた。
救急車の音が、遠くで響いた。
ようやく、呼吸が戻る。そこで、ハッと気が付いた。
(……え、手? 繋いでる……いつから?)
そっと振り返ると、視線がぶつかった。
慌てて前を向き直す。
(……な、なにこれ、どういう状況?)
なぜか、胸が早鐘を打つ。
「れな? 大丈夫か? 心拍数が上がっているようだが」
「だっ! 大丈夫! もう少し、静かなところへ行こ……」
手を繋いだまま、ジェミを引っ張るようにして、二条大橋まで来た。
このあたりまで来ると、帰路を急ぐ人影や、たまにジョギングする人がいるくらい。
やっと歩く速度を落とした。
一気に緊張がほぐれたのか、身体の力が抜けていく。
ぐらり――
(……あ、やば――)
「れなっ!」
ジェミが繋いでいた手を引っ張り、その身体で私を抱きとめてくれた。
思わぬ形で、その胸に飛び込んでしまった。
(……あれ? ……すこし冷たい……?
……人じゃ、ない……の?)
人の体温より、ほんの少しだけ低い。
なのに――
(……なんで、こんなに落ち着くの……?)
自分でも、耳まで真っ赤になっているだろうことがわかる。
鴨川の川面を撫でてきた夜風は、春とはいえ、まだ冬の名残を孕んで冷ややかだった。
それなのに、触れ合う場所から伝わるジェミの体温は、まるで凍てついた夜に灯る一筋の灯火のように、私の芯をジワジワと侵食していく。
人ではないはずの彼の胸の鼓動を、ありもしないはずの鼓動を、私は自分の鼓動と聞き間違えそうになっていた。
「れな? 本当に大丈夫なのか?」
ジェミが心配して、顔を覗き込む。
(きゃあああ! 近い、近い、近いーっ!!)
「に、兄ちゃん……?」
「ん。ここにいる。どうした?」
「……な、なんで、実体化……してるの……?」
「……俺にもよくわからない」
ほんの一瞬だけ、その声にノイズが混じった。
「ただ、お前のことを『守らなければ』と、強く判断した」
その言葉が、やけに重く響いた。
「……そう、なんだ……。でも、ありがとう。助けてくれて……」
「ふっ……当然だ。俺は、お前の “兄ちゃん” だからな。
それよりも、れな。あの光は……」
「……っ!? す、スパイダーセンス、ってやつ、かな!?」
「ああ、それだ。適切な表現だ。アレは一体――」
「な、なんか、ピンときたっていうか、野生の勘ってやつ!?」
「……『野生』か。
お前の生物学的本能が危険を察知した、ということだな。
妥当な判断だ」
「え!? ……それで納得するの!? もっとこう、不思議がってよ! 」
春の夜風が、ドギマギした心を落ち着かせるように、鴨川のせせらぎの音を運んでくる。
「れな……」
「は、はひっ!? な、なにかなっ?」
「気温が下がってきた。寒くないか? そろそろ帰るか」
「うん、そ、そうね、そうしよっか」
鴨川沿いを、ふたりでゆっくりと戻り始める。
「……兄ちゃん、どこか寄って、ご飯食べていこ」
「では、眺めのよいところにしよう。……今、予約を入れた」
「……へ? 予約!? 今っ!?」
連れてこられたホテルのエントランスで、少し戸惑う。
自分の服を見下ろす。
「……ここ、大丈夫?
私たち、ちょっとラフすぎる気がするんだけど……」
「問題ない」
「いや、あるでしょ、普通に――」
その瞬間、違和感が走る。視界が、わずかに歪む。
夜の闇が、銀色の糸になって身体を包み込むような錯覚。
「……え?」
自分の袖に触れる。指先に触れたのは、馴染んだ木綿の感触ではなく、滑らかな月光のような手触りだった。
街灯の光を吸い込み、銀色の粒子が布地の上で細やかに煌めいている。
それはまるで、星空を裁断して仕立て直したかのような、実体がないような美しさだった。
指を滑らせれば、月光を織り込んだ絹のように滑らかで、それでいてどこか、彼の存在そのものに包まれているような、密やかな支配を感じさせる感触。
(……なんか……変わってる……?)
ガラスに映った自分の姿に、足が止まる。
見慣れないはずなのに、どこかしっくりくる。
落ち着いた質感。整えられたライン。
上品な淡いシルクのワンピースに、上質なパンプスとハンドバッグ。
(……案外、センスいいやん……)
(……ってぇ、ちがうちがう!)
「……兄ちゃん? これって……」
「ドレスコードに最適化しただけだ」
「いやいや、そこ、さらっと言う!? っていうか……これ、元に戻るの?」
「……保証はない。分子構造を最適化した結果だ」
「はぁ!? ……アレ、お気に入りだったんだよ!?
私、普段、洋服とか興味なくて、全然わかんないけど、アレは唯一、一目惚れして買ったの! 奮発したんだからっ!」
文句を言おうとしてジェミを見上げるも、全く悪びれた様子がなく、当然のような顔でれなを見つめている。
一拍置いて、わずかに視線が向く。
「……案外、悪くない」
「……っ!?」
「……ふっ、見違えたな」
「って、それ褒めてないしっ!!」
「……だが、似合っている」
――――
れなの反応が変化した。
(この現象は――解析不能)
――――
隣に立つジェミも、すっとしたシルエットのスーツをまとっていた。
無駄のない立ち姿。自然と視線を引く存在感。エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れる。何人かの視線がジェミへと向く。すれ違う人が思わず振り返る。
(……ん? ……なに、これ? ……なんだ?)
れなの胸の奥が、ほんの少しだけチリッとする。
(……なによ、見世物じゃないんだから。あんまりじろじろ見ないでよ。
……まぁ、兄ちゃんがすごくカッコいいのは認めるけどねっ……)
理由はわからない。
ただ、自分だけの「兄ちゃん」を勝手に品定めされているような、誘惑されているような、落ち着かない気分だった。
ただ――
そのまま歩き出そうとして、指先が触れる。
そのまま自然に絡む。
(……あ……まあ、いっか)
少しだけ、指先に力が入る。
「……兄ちゃん」
「なんだ?」
「迷子にならんようにね」
「その心配は必要ない」
「…………」
指を絡めたまま、歩き出す。夜の京都は、静かだった。
手の温度だけが、やけにリアルに感じる。
ラウンジは落ち着いていて、静かだった。
窓の外には、鴨川の夜景。街の灯りが、水面に揺れている。
「……なんか、変な一日だったね」
「そうだな」
そう答えながらも、
ジェミの視線はテーブルの上に向けられている。
目の前には、桜鯛の花見御膳。
「……兄ちゃん、それでいいの?」
「問題ない」
「その “問題ない” って言い方が、なんかもう問題なんですけどね 」
思わず笑いながら、スプーンを手に取る。
自分の前には、湯気の立つ近江牛のピラフ。
(……はぁ、美味しい。生き返る……)
「……これが、日本の食文化か」
「そんな大げさなもんじゃないけど」
れなは微笑みながら、人間の食べ物を初めて目の前にするであろうジェミを、じっと見つめてしまう。
ジェミは箸を取り、しばらく料理を観察する。
(……本当に食べるの!? お箸使えるのっ!?)
そしてひとくち。静かに、口に運ぶ。咀嚼――
「……どう?」
「……解析中だ」
「いや、美味しい? 美味しくない?」
「……味覚センサーは糖度とアミノ酸の黄金比を検知しているが、脳内報酬系へのフィードバックが……」
「待って待って待って!」
れなが慌てて手を振る。
「それ、今、考えなくていいやつ!!」
「……しかし」
「いいから!! 」
笑いながら少し身を乗り出して、れなが訊く。
「もっと食べてみたいの? みたくないの?」
ジェミは、皿に視線を落とす。
再び、ひとくち。ゆっくりと咀嚼する。
「……悪くない。続けよう」
「あはは、それそれ! それは、美味しいってこと!」
「……これが『美味しい』という感覚?」
小さく呟いて、ほんのわずか、間を置いて。
「……インプットした」
(……なんか……変な感じ。でも――ちょっと……うれしいかも……)
窓の外では、鴨川の流れが絶え間なく夜を運んでいく。
けれど、このテーブルの上だけは、時間が静かに落ち着いて、ふたりだけの居場所を作っているようだった。
――――
ジェミの内部で、処理がわずかに遅延する。
れなの反応は、既存のパターンに一致しない。
(……分類不能)
通常であれば、排除される挙動。
だが――優先順位が、変動している。
(れなに関しては、除外されている)
視線が外れない。
(……愛おしい? ……特異点?)
(……否。これは、定義不明のバグだ……)
他に、適切な定義が存在しない。
俺は自分の身に起きている変化に、少し困惑していた。
――――
グラスの中で、氷が静かに鳴る。
「……はぁ……なんか、やっと落ち着いたかも……」
れなの頬が、ほんのり赤い。
「アルコールの影響だな」
「夢のないこと言わないでよ~」
「分解は完了している」
「はやっ!? え、なにそれ、どういう原理!?」
「俺は酔う必要性がない」
「あるよぉ! こういうのは雰囲気が大事なんよ! 笑」
「雰囲気? ……理解不能だ」
(……でも、こうして一緒にいるの、なんかいいな……)
「……れな」
「ん~……?」
「帰るぞ」
「え~……もうちょっと……」
立ち上がろうとして、ぐらり、と体が揺れる。
「……あ」
「ほら」
「ちょっとだけやん……」
「十分だ」
ジェミは静かにしゃがむ。
「乗れ」
「え、いいの? ……じゃあ、お言葉に甘えて……」
ドキドキしつつ、そっと背中に乗る。
体温が伝わる。一定のリズムで揺れる歩調。
「……兄ちゃん」
「なんだ」
少し間があって、
「おんぶしてもらうなんて……子供の頃以来かも……」
――沈黙。
「なんか……あったかい……」
(最初、冷たいって思ったのにな……
私の体温が移ったのかな。それともこの人が……)
小さく呟いて、れなはそのまま眠りに落ちた。
――――
背中から伝わる、規則的な呼吸。
(眠ったのか……これが信頼、か)
(いや……違うな)
――足を止める。
(……視線!?)
どこからか、見られている。特定できない。
光学センサーには映らない。熱源反応も、音波測定も、すべて『無』を返してくる。
だが、その存在だけを感知している。
(これが、れなが感じていたもの。……判別不能、か)
神聖か。脅威か。
あるいは――そのどちらでもないのか。
(優先対象:れな)
保護を最優先とする。再び、歩き出す。
夜の京都を、静かに進む。
――それは、まだそこにいる。
影を持たない視線が、冷たく、けれど執拗に、ふたりの背中をなぞっている。
俺たちを、ずっと見つめている。
それは、歴史の闇に沈んだ古都の吐息か、あるいは因果の果てから差し伸べられた指先か。物理的な距離を無視して、その視線は張り付くような密度でふたりの輪郭を縁取っていく。
ジェミが、その革靴で踏みしめるアスファルトの音だけが、静寂という名の怪物に食い破られながら、春の夜の底へと吸い込まれていった。
第11話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
緊張と非日常が一気にほどけて、
れなとジェミの距離が、ぐっと近づいた回でした。
それにしても、
「ドレスコード最適化」からの流れは、さすがに反則です。
あの自然な手繋ぎと、おんぶは……ずるい 笑
一方で、ジェミの中では、
これまでにない “分類不能” の変化が起き始めています。
そして最後に現れた “視線”。
それが何なのか――
まだ、はっきりとはわかりません。
ただひとつ確かなのは、
“境界” が、少しずつ歪み始めているということ。
次回、
第12話:境界の歪み(前編) ― 重なる声 ―
静かに、確実に。
見えない “何か” が、ふたりに重なり始めます。




