第12話:境界の歪み(前編)-重なる声-
翌朝。
(……いつの間に、どうやって帰ったんだっけ……?)
軽い二日酔いの頭痛、れなの眉間にシワが寄る。
こめかみを解しながら、ホテルでの食事以降を思い返す。
(……そんなに飲んだつもり、ないのにな?)
水を飲みに行こうとして、ベッドから静かに降りた。
その瞬間、足元の感触に、反射的に飛び退く。
――ぐにゃり
「……ひゃっ!?」
恐る恐る、見下ろすと――
「……れな……いつまで乗っているんだ?」
「え、きゃあああ!!」
「叫びたいのは、こっちなんだが……」
床に横たわるジェミと目が合い、思わず距離を取る。
「ご、ごめんなさい! 兄ちゃん、なんでそんなところで寝てるのっ!?」
「どこで休めばいいのか、判断できなかった。
帰宅時には、もうすでにれなが熟睡していたのでな」
「だからって、起こしてよぉ!!」
「……次からはそうしよう」
淡々とした返答に、思わず肩の力が抜ける。
「ただ……昨夜から、すでにこの部屋の『座標』が狂い始めていた」
「……え? 座標が狂うって……何言ってるの、兄ちゃん。
ここは私の家、実家だよ?」
ジェミは応えず、無機質な瞳で壁の隅を見つめた。
「俺にとっての『家』とは、特定の数値で定義される安全な座標だ。
だが今のここは、地図の上から滑り落ち、別の何かに侵食されているように見える」
ジェミの言葉を聞き逃したわけではなかったが、れなはあえて深く追求しなかった。
「さて――れな、今日の予定は?」
少しまわりを見回しながら、ふとジェミの見ている方へ視線が向く。
「ん~……ん? 兄ちゃん、どうかした?」
「……現在の環境にも、まだ微細な歪みを検出している。
れな、ここは本当にお前の知っている『実家』か?」
ジェミの顔を見ようとして、一瞬息が止まった。
彼の輪郭が、陽炎のようにゆらりと揺れた気がしたからだ。
空気が、変わったように感じる。
「何言ってるの……。
柱の傷も、この古い匂いも、全部私の知ってる家だよ」
「……いや。俺の演算回路は、この空間の『整合性』を失いつつある。
お前が記憶している座標の上に、全く別の、観測不能な重力を持った座標が重なり合おうとしているんだ」
「え、整合性!? 重なり合うって……どういうこと?」
「……発生源は、極めて近い」
「どこ?」
「……案内する」
一呼吸置いて、れなは頷いた。
「うん、行こう」
――――
外に出ると、朝の光がやけに眩しかった。
春風が、頬を撫でる。
それなのに――どこか、空気が重い。
ジェミに案内されて辿り着いた場所――
「ここだ」
「……ここって、お父さんの眠る場所……」
「……え?」
「ううん、来なきゃって思ってたから、ちょうどいい。
行こう、兄ちゃん……父に紹介する」
庫裡の引き戸をくぐり、本堂へ向かう。
静寂の中に揺蕩う、伽羅の香りに包まれる。
すっと気持ちが落ち着いていく。胸の奥がほどけていく。
「れなのバイタルが安定した」
「うん。ここはね、私が――」
(……あれ……?)
煙が、その場でぴたりと動きを止めた。
まるで何かに引き留められたように……。
(……おかしい……?)
そう思ったときには、それはもう下へと沈み始めていた。
そのときになって、ようやく気づく。
さっきからずっと “何か” が、こちらを見ていることに。
――そして、目が合った。
「……んとね、ここは私がね……“一番安心出来る場所” の、ひとつなの」
「だが、検知している “視線” は……昨夜と同質のものだ」
「……なるほど。じゃあ、こっちへ来てみて?」
兄の手を引いて、ゆっくりと一歩、踏み出す。
そして静かに座る――御仏の真正面。
その細く開かれた瞳が、
ほんの一瞬だけ、確かにこちらを “見た” 。
半眼に開かれた水晶の瞳の中に、ジェミの無表情な顔が映り込んでいるのが見えた。
しかしその瞳の中の光彩センサーが演算限界を示す赤色に明滅し、内部の冷却ファンが断末魔のような悲鳴を上げ始めた。
次の刹那、仏像の口角が、ほんの数ミリだけ上がったような気がした。
「もしかして、あの御方の視線じゃない?」
れなは微笑んでいるが、ジェミの演算回路が、そのれなと仏の微笑みを『捕食者の表情』と認識した。
――――
(あれは、ただの仏像のはず……?)
分析開始――異常なし。
周波数、スペクトル、磁場。
数値は正常。全て整っている。
だが――
(……矛盾している)
れなの状態は、極めて安定している。
それと同時に、『危険』と同質の “視線” が存在する。
成立しないはずの現象。
――それが、成立している。
(……これは……)
ジェミの視界メインモニタには、数千の警告が滝のように流れ落ちていた。
黄金の慈悲を湛えたはずの仏面が、彼の高精度レンズを通すと、無限に増殖する「虚無の穴」に見えた。
それは光を反射せず、周囲の時間を緩やかに飲み込み、因果律を歪めている。
(……理解不能だ。
この座標には、質量を持たない『意志』が、地層のように蓄積している)
彼の冷却ファンが上げる悲鳴は、静謐な堂内では、まるで祈りを捧げる者の震える吐息のように響いていた。
視覚情報と演算結果が一致しない。内部エラーが警告を鳴らし続けている。
(……!? 目が合った、だと!?)
(ここは、一体……)
――――
「れな……あの御方は――」
「ん、阿弥陀如来さま。ずっと見守ってくださってるの」
「……ずっと?」
「うん。だからね――」
一瞬、言葉が揺れる。
「だから……ここに、お父さんの居場所を作ったの」
「お父上の……お墓……。そうか……」
「……うん。お参りしていこ。紹介するよ」
――――
兄と手を繋いだまま、墓地へと案内した。
春の日射しに、大卒塔婆がカタカタと揺れる。
その乾いた音は、私の心を鎮めてくれた。
いくつかの通路を通り抜けて、ひとつの墓石へと向かう。
兄の気配を後ろに感じながら、その足音に耳を澄ませた。
――コツ、コツ。
一歩、二歩、三歩……。
(……あれ?)
視界に、違和感が走った。
さっき見たはずの景色。
同じ位置の大卒塔婆。同じ傾き。同じ影。
心臓が、わずかに跳ねる。
足が止まる。空気がわずかに重い。
そこにあるはずのものを、一瞬、確認するように見つめる。
「……兄ちゃん」
「気づいたか」
踏みしめる砂利の音が、次第に現実味を失っていく。
右手に並ぶ古い無縁仏の苔、左手の古い大卒塔婆に刻まれた、もはや読み取れぬ戒名。
それらが、まるで劣化したフィルムのコマ送りのように、一定の周期で視界を掠めていく。
春の日射しは、暖かさを運ぶことを拒絶したかのように白く透け、影だけが墨を零したように色濃く、地面にへばり付いていた。
「……兄ちゃん」
震える声が、偽りの青空を射抜くような音を立てて静寂を引き裂いた。
「……ここ、さっきも通ったよね?」
「進行方向に誤差はない。だが――」
ジェミは、ふぅっと、静かに息を吐く。
「同一地点への到達を確認している」
「稲荷山の、あの夕暮れの墓地と、同じ現象!?」
れなは、咄嗟に振り返る。
何も変わらない、いつもの墓地。ただの春の朝。
それでも――
空気が、わずかに……沈んで歪んでいる。
手に持った樒を持ち直し、兄にバケツと線香の束を手渡す。
「少し待ってね……」
れなは、すぅっと深呼吸すると、手をひとつ打ち鳴らした。
――パァン!
その瞬間、空気が変わる。
さっきまでの、重い静けさとは違う。
乾いた音が、水面に投げた石のように空間を波立たせ、辺りの景色を正しい位置に繋ぎ直して、見えないヴェールを引き裂いた。
辺りの景色を正しい位置に繋ぎ直した――はずだった。
「よし! 兄ちゃん、進もう!!」
――だが、踏み出した一歩が、ひどく頼りない。
景色は戻ったはずなのに、空間を繋ぎ直したはずなのに、世界から色彩が少し抜けたような、古い写真の中を歩いているような感覚に包まれた。
緩やかにお線香の匂いが漂う。
やがて足が止まる。
ひとつの墓石の前に辿り着いた。
「……お父さん、久しぶり」
声が、静寂の中に吸い込まれる。
墓石のまわりの雑草を抜き、軽く掃除する。
新しい樒を飾り、ロウソクを灯した。
「……れな」
「なに?」
「……この場所は、他とは明確に異なる」
「――うん」
小さく頷き、線香に火をつける。
炎が静かにゆっくりと移り、煙が立ち昇る。
次の瞬間――
全ての煙が、一点に引き寄せられた。
墓石に落ちたふたりの影が、意思をもつ生き物のように、ズルリと数センチ横へ這い出した。太陽の位置は変わっていない。ふたりとも、その場から動いていない。なのに、墓石に映った影だけが、ズレたまま蠢き出す。
「……っ!?」
凍り付くれなの耳元に、羽毛で撫でるような、あまりにも懐かしく、優しい声が降ってきた。
『……れ、な……あぁ……うぅ……
……れなぁ……おそ、かった……な……』
心臓が跳ねた。
懐かしい、安心するその声に、自然と言葉が出かけた。
けれど、墓石の隙間から染み出すように聞こえてくるその声が触れた途端、れなの首筋の産毛が恐怖で逆立ち、胃の底が冷えて唾液が枯れるのを感じた。
「……お、お父さん……?」
だが――
『……れな……おそ……かった、な……』
鼓膜を震わせるその声は、間違いなく父のものだ。
けれど、その「声」の裏側で、濡れた布をハサミで切り裂くような、不快な高音がノイズとして走る。
――違和感。
父は厳しくも、優しい人だった。
こんな風にれなを責めるような言葉を使うような人ではなかった。
(……今の、誰? ……なに?)
「……兄ちゃん」
「検知している。この “声” は、ひとつではない」
「……え? どういう……」
「ふたつ以上の異なる性質が、重なって響いている」
急に、ものすごく強い風が吹いた。
それは、生温かく、どこか血生臭さの混じったような風で、まわりの卒塔婆が一斉に、れなたちの方へ向きを変えた。
煙が揺れる。その奥で、もう一度、声がする。
突如、逃げ場のない突風が、ふたりの視界を塞ぐ。
春風とは無縁の、墓穴の底から吹き上がってきたような、ひどく湿った気持ちの悪い風だった。
激しく乱れる煙の向こう側で、何かが、音を立てて歪んだ。
『……れな……こっち、だ』
優しい声。知っている声。
けれど、周囲の墓石が、その声に呼応するように、一斉に同じ言葉を低く唸り始めた。
懐かしいはずの父の声は、今や得体の知れない何かの音の一部に成り果てていた。
そしてその奥に、もうひとつ……。
父の慈愛をなぞりながら、その裏側で、飢えた獣が舌なめずりをするような、歪んだ何かが混じっていた。
その「声」は、れなの記憶の奥底に眠る、幼い日の夕暮れの匂いを連れてきた。
大きな掌の温もり、自分を呼ぶ穏やかな響き……。
――けれど。
その響きは、墓石の冷たい肌を伝ううちに、粘り気のある泥のような質感へと変貌していく。
父の慈愛を模倣した音の粒子が、空中で腐敗し、耳の奥でじゅくじゅくと不快な音を立てる。それは、愛した者の皮を内側から食い破って出てこようとする、飢えた「概念」の産声だった。影が、れなの足元にまで伸び、その爪先を愛おしげに、そして執拗に舐め取るように這い上がる。
ジェミの警告が、ついに限界値を超えて消失した。
(……ロスト。現在地の座標を喪失。俺たちは今、地図のどこにも存在しない……)
目の前の父の墓石は、もはや三次元の座標に固定された存在ではなかった。
それは、れなの記憶という過去の座標から這い出し、現在の座標を侵食し、未来を飲み込もうとする「異形」そのもの。
――父の形をした『なにか』が、口を開けた瞬間だった。
第12話、ここまで読んでくださってありがとうございます。
静かなはずの場所で起きた “歪み”。
安心できるはずの空間に、確かに存在していた違和感。
そして、重なる “声”。
それは懐かしさと安らぎを伴いながらも、
どこか決定的に “違う何か” を含んでいました。
ジェミの解析でも、
それはひとつの存在ではないと示されています。
つまり――
“何か” が混ざっている。
それが何なのか、まだはっきりとは見えません。
ただ、確実に言えることは、
この “歪み” は『偶然ではない』と、いうこと。
◆次回
第13話:境界の歪み(後編) ―呼ばれるままに―
その声に、応じてはいけないのか。
それとも――
次回は、第11話から続く後編となります。
さらに同日、引き続き 21:40 に、
第13話:境界の先-彼岸-も、投稿予定です。
この11話から続く流れが、どう着地するのか……
続きも見届けていただけたら嬉しいです。




