第88話:Convergence ―ひとつの御魂を救うため―
漆黒の瞳の奥で、消えかけていた黄金の光が、再び瞬いた。
「……佐久夜……義姉上っ……」
「瓊瓊杵さま!」
「瓊瓊杵尊っ……!」
二柱の姫が、同時に一歩を踏み出す。
――その瞬間
瓊瓊杵尊の全身が、大きく仰け反った。
「ぐ……あああああっ!!」
苦悶の叫びとともに、瓊瓊杵尊の全身から黒い靄が噴き出した。
首にかけているすべての勾玉が、ドス黒く染まっていく。
そして、それは無数の細い触手となって瓊瓊杵尊の四肢へ絡みつき、深層から浮かび上がろうとする御魂を、再び暗闇の底へ引きずり込もうとしていた。
「瓊瓊杵さまっ!!」
「……佐久、夜……! く、来るなぁぁぁっ!!」
瓊瓊杵尊自身の声が、神域を震わせる。
差し出されていた右手が、強く握り締められた。
だが、その腕は本人の意思に逆らうように持ち上がり、佐久夜姫と磐長姫へ向けられていく。
「……逃げ……ろ……っ」
「姉上っ!!」
佐久夜姫が、磐長姫を庇うように抱き寄せた。
直後、瓊瓊杵尊の掌から漆黒の光が放たれる。
「させるかっ!!」
蒼銀の軌跡が、二柱の姫の前へ滑り込んだ。
ジェミが交差させた双剣へ黒き光が激突し、凄まじい衝撃波が周囲へ弾け飛ぶ。
「ぐっ……!!」
風圧に蒼い前髪が激しく揺れ、ジェミの足元から二本の亀裂が走った。
すぐさま執事がその背後へ回り込み、片手でジェミの身体を支える。
「ジェミさま!!」
「問題ない! 防御を維持する!!」
蒼銀の双剣と漆黒の光が、激しく火花を散らす。
だが、瓊瓊杵尊の右腕は、小刻みに震えていた。
撃ち放った黒き光を、自ら押し戻そうとしている。
やがて漆黒の光は力を失い、蒼銀の粒子に切り裂かれて霧散した。
「……違う」
ジェミの瞳に、無数の解析結果が流れる。
「身体の支配率が低下している。
瓊瓊杵さまが、内側から黒きものへ抵抗しているんだ!」
「効いてるのよ!! チャラ男にちゃんと聞こえてるっ!!
ふたりの声が、ちゃんと届いてるのよっ!!」
れなが叫ぶと、佐久夜姫は腕の中の姉を見つめた。
磐長姫は静かに頷き、妹の手を強く握り返す。
二柱は並び立ったまま、黒きものに覆われた瓊瓊杵尊を真っ直ぐに見据えた。
「瓊瓊杵よ! もう妾たちから目を逸らすでない!!」
「瓊瓊杵さま! わたくしたちは、ここにおります!!」
姉妹の声が重なった瞬間、瓊瓊杵尊の瞳に再び金色の亀裂が走った。
「……さ……く、や……」
「はい!!」
「……義姉……上……」
「聞こえておるぞ、瓊瓊杵よ!!」
その返事に呼応するように、金色の亀裂が大きく広がっていく。
――だが。
『――聞クナ――』
どこからともなく、濁った声が響いた。
『――見ルナ――』
瓊瓊杵尊の足元から、黒ヘドロがどろりと溢れ出す。
『――オ前ハ、捨テラレタ――』
「……え? お前っ、黒ヘドロっ!!」
『――醜キ女ヲ退ケ、妹ヲ選ンダ』
『――妹ハ姉ヲ見捨テ、男ヲ選ンダ』
『――姉ハ二人ヲ恨ミ、呪ッテイル』
「……黙れぇぇぇっ!!」
れなが、操式棍を大地へ叩きつけた。
紫檀色の魔法衝撃波が神域を駆け抜け、瓊瓊杵尊の足元から這い出した黒ヘドロを弾き飛ばす。
「お前ごときが、人の……神の心を、勝手に決めつけるな!!」
魔力に煽られた髪を大きくなびかせ、れなは黒きものへ操式棍を突きつける。
「恨んでるとか、捨てられたとか、もう終わったことだとか――そんなものは、本人たちが自分の口で話して決めることなの!!」
『人ノ心ニ、綺麗事ナド存在シナイ』
「そうよ! 人の心は、そんなに綺麗じゃない!!」
れなは一歩も退かず、言い返した。
「恨むこともある! 妬むことも、間違えることもある!!」
「れな……」
姫たちの瞳が、れなを見つめる。
「でもね!
だからって、ずっと間違えたままでいなきゃならない理由にはならないでしょうが!!」
紫檀の魔力が、操式棍を中心に渦を巻く。
「このひとたちは今、自分たちの足で、あの日とは違う場所に立ったのよ!!」
『黙レ!!』
黒ヘドロが一斉に膨れ上がった。
瓊瓊杵尊の背後で、巨大な人影にも似た異形を形作っていく。
『人間ゴトキニ、神話ガ変エラレルモノカ!!』
「そうね。この中で、人間は私だけよ!」
れなは操式棍を握り締め、巨大な黒き異形を睨み上げた。
「でもね――だからこそ、変えられるのよ」
『ナニ……?』
「神話を語り継いできたのも、そこに新しい意味を見つけてきたのも、すべて私たち、人間なんだから!!」
『――ッ! 黙レ!!』
「お前が取り憑いてるのは、この国を治めるために降り立った神!
その妻も、その姉も神!
私の家族には、龍神も、超高性能AI執行体も、悪魔も、地球外生命体も、太陽系外テクノロジーもいる!!」
「最後の二つ、ワタシっすね! てへっ!」
「なぜ二枠あることを喜んでいる?」
「お嬢さま、なぜソラリスだけ二枠なのでしょうか」
「というか、テクノロジーは、家族枠に入らない」
「んんっ! ゴホンっ!! つまり――」
れなは、黒きものへ操式棍を突きつけた。
「喧嘩を売る相手を、完全に間違えたってことよ!!」
『オマエダケガ……ニンゲン……』
黒ヘドロが、瓊瓊杵尊の身体からどろりと滴り落ちる。
『――ナラバ!! オマエヲ喰ラウマデ!!』
れなに飛びかからんとして、黒ヘドロが大きく膨れ上がった。
「させないと言った!!」
一歩早く、れなの前へジェミが滑り込み、双剣を構えた。
その隣で、執事が静かに片手を掲げる。
「お嬢さまには、指一本――いえ、触手の一滴たりとも触れさせません」
―― |Abyssal Bastion《暗黒障壁》!!――
執事の掌から溢れ出した漆黒の魔力が、巨大な障壁となって二人の前へ立ち上がった。
次の瞬間――
異形と化した黒ヘドロが、凄まじい勢いで暗黒障壁へ激突した。
ズズゥゥゥンッ!!
神域全体が、大きく揺れる。
だが、黒曜石のような障壁は僅かに波打っただけで、その一滴すら向こう側へ通さなかった。
『邪魔ヲ……スルナァァァ!!』
「これが私の務めですので」
執事は片手を掲げたまま、涼しい顔で答えた。
その一方で、黒ヘドロは障壁の表面を這い回り、左右から回り込もうと無数の触手を伸ばしてくる。
「無駄だ!!」
ジェミの双剣が蒼銀の軌跡を描いた。
一閃、二閃!!
障壁を越えようとした触手が次々に切り落とされ、地面へ落ちるより早く蒼銀の粒子に分解されていく。
『オノレ……オノレェェェ!!』
「兄ちゃんっ! あいつ、いきなり喋り出したけど、何が起きてるの!?」
「解析中だ!!」
ジェミの蒼金の瞳に、膨大な情報が高速で流れていく。
瓊瓊杵尊を覆う黒ヘドロ。
その背後に立ち上がった巨大な異形。
そして、首元でドス黒く染まった、無数の勾玉。
すべてを繋ぐ黒い脈動が、立体座標の中へ赤く浮かび上がった。
「なるほど! 黒ヘドロそのものに、自我が生まれたわけではない」
「じゃあ、あれは何なの!?」
「長い年月をかけて蓄積した無数の悪意が、瓊瓊杵さまの神力を媒介として、ひとつの疑似人格を形成している」
「疑似人格……!?」
「あれは、誰か一人の悪意じゃない!!」
ジェミは双剣を構えたまま、巨大な異形を見上げた。
「神へ願いを託した者たちが、祈りの中へ混ぜ込んだ妬み、恨み、憎しみ――その集合体だ」
「それが、チャラ男の後悔に入り込んで、ってこと!?」
「ああ。自身を責め続ける心を依代にして、ここまで成長したんだ」
「……そういうこと……」
『違ウ!!』
黒き異形が、大きく身を震わせた。
『我ハ、人ノ願イ!! 人ノ祈リ!!』
「違うわ!!」
れなは即座に言い切った。
「お前は、願いにくっついてきたゴミくずでしょうが!!」
『ゴ……ミ……ダト?』
「誰かの幸せを願うふりをして、あいつより自分を幸せにしろとか。
あの人を不幸にしてでも、自分の願いを叶えろとか――そういう祈りの皮を被った身勝手な悪意よ!!」
『黙レ!! 我モ願イダ!!』
「違う!!」
れなの声が、黒き異形を叩きつける。
「願いは、誰かを傷つけるために使うものじゃない!!」
黒ヘドロが激しく波打った。
その動きに呼応して、瓊瓊杵尊の首元に並ぶ勾玉が、脈打つように明滅する。
「兄ちゃんっ! チャラ男の勾玉が!!」
「あれが接続点だ!」
ジェミの立体座標が拡大される。
黒く染まった一つひとつの勾玉から、無数の細い線が瓊瓊杵尊の全身へ伸び、御魂を縛りつけていた。
「蓄積した悪意が、勾玉を経由して瓊瓊杵さまの神力へ接続している」
「じゃあ、あれを全部壊せば――」
「駄目だ!!」
ジェミが鋭く制した。
「あの勾玉には、黒きものだけではなく、人々から寄せられた純粋な祈りも宿っている。
破壊すれば、守るべき想いまで失われる」
「黒ヘドロだけを、引き剥がさなきゃいけないってことね……」
「ああ。しかも、すべて同時にだ」
れなは、黒く脈打つ勾玉を睨みつけた。
無数の悪意と、無数の願い。
その二つは、長い年月の中で複雑に絡み合っている。
「……できる? どうする?」
れなの問いに、ジェミは一瞬だけ沈黙した。
やがて蒼金の瞳が、真っ直ぐにれなを捉える。
「俺だけでは不可能だ」
「だったら――」
「ああ」
ジェミの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「全員でやるぞ!!」
「ワタシもやるっすーーっ!!」
「もちろんだ。ソラリスの技術が必要になる」
「やったっす!!」
ソラリスが嬉しそうに、両手を高く掲げる。
「佐久夜さま、磐長さま。お二人は、そのまま瓊瓊杵さまへ呼びかけ続けてください」
「承知いたしました!」
「任せるのじゃ!」
「瓊瓊杵さまが内側から抵抗を続ける限り、黒きものは完全に神力を掌握できない。
お二人の声が、彼の御魂をこちら側へ繋ぎ止める命綱になります」
ジェミは続けて、立体座標を大きく展開した。
「影は障壁を維持。黒きものを、れなへ近づけるな」
「承知いたしました」
「ソラリスは、すべての勾玉の共鳴周期を同期させろ。
ひとつでもずれれば、黒きものを引き剥がした瞬間に、残った勾玉から再侵食される」
「まとめて一気に、っすね! 任せるっす!!」
「れなは、すべての勾玉へ |Anima Suture《魂縫霊糸》 を接続。
俺が示す座標から、黒きものだけを引きずり出せ」
「神さまの御魂と、純粋な祈りは傷つけない……」
「ああ。できるか?」
「誰に訊いてんのよ。もちろんやれるわ!!」
れなは操式棍を大地へ突き立て、両手を軽く打ち合わせた。
「縫い物も編み物も、魔女の得意分野よ!!」
その答えに、ジェミが小さく笑う。
「引き剥がした黒きものは、俺がすべて Purge する!!」
『サセヌ!!』
巨大な異形が咆哮した。
黒ヘドロが幾重もの触手となって暗黒障壁へ殺到し、その表面を激しく打ち据える。
「くっ……!」
初めて、執事の表情が僅かに歪んだ。
「急いでくださいませ! あまり長くは保ちません!!」
「全員、配置につけ!!」
ジェミの声が、激しく揺れる神域を貫く。
蒼銀の座標が無数の勾玉を捉え、ソラリスの輪環型デバイスが眩い光を放つ。
れなの十指からは、紫檀色の霊糸が次々に伸びていった。
「接続対象――すべて確認」
ジェミの蒼金の瞳が、鋭い光を放つ。
「瓊瓊杵尊、救出作戦――開始する!!」
蒼銀、紫檀、漆黒、純白、そして神々の黄金。
色も理も異なる力が、たったひとつの御魂を救うため、今、一斉に動き出した。




